第八話 『雪の指環』





 トニーはいつも考えていた。テンポとリズムが、運命を紡いでいるのではないだろうか、と。


 ジャズを聴くのが大好きなのは、この音楽の祖が彼と同じく黒い肌の持ち主たちであり、5000年以上前の先祖たちと、自分のあいだには、同じテンポとリズムが流れているからではないか。


「そうじゃねえと、こんなに愛せないよな。ご先祖さま。運命で、結びついてるんだ」


 大雪原を走る列車の運転士に襲いかかってくる緊張を、ジャズはやわらかくほぐしてくれる。暖房の排熱をブーツの先に当てながら、音楽に合わせるように揺らした。


 オーケストラは、あまりにも大げさすぎて嫌いだが。


 音に合わせて体を揺らすのは、何よりも好ましい運動だと信じている。


「ジャズが、丁度いいんだ。暗くて、寒くて、遠い夜には……」


「トニー、交代の時間だぞ。見回りだ」


「……運転士の方が、緊張する仕事だぜ。じっとしてるの、アンタ嫌いだろ?」


「うるせえ。見回りは、寒いから、もっと好きじゃねえんだ。ほら、ライトだ」


「はいはい。そこ、コーヒーあるよ。砂糖は、そこの瓶にたっぷりと」


「ベテランの運転士は、ブラックだ。眠たくなっちまうからな」


「砂糖ごときで眠れちまう集中力は、もっと鍛えないといけないぜ」


 鉄道員らしく軽口を叩きながら、トニーは分厚い防寒コートに腕を通した。サイズが合っていない。


「痩せすぎだ。もっと筋トレして、鍛えろよ」


「うっせーし。見た目以上には、筋力あるから問題ねえんだよ」


 コートに着られたような格好で、トニーは運転室から飛び出した。


 吹雪ではないが、大きさのある雪が静かに深夜の暗がりで踊っている。寒いのは、分かっているが。山賊どもを閉じ込めた檻が並ぶ車内よりも、列車の屋根を伝うように走っている見張り用の通路を選ぶ。


「怖いわけじゃねえぞー。オレは、機械だけに見張りを頼らないってだけ!」


 機械は高度に仕事をしてくれたものの、敵の機械に騙されることもある。大雪原では、可能な限り多くを使うべきだ。最先端の技術も、祖先から脈々と受け継いだ感覚も。


 凍てついたキャットウォーク/屋根通路を歩きながら、トニーは左右を確認する。敵影はない。衝突しそうなものもない。遠くに山がいくつか見えるが、白い平坦さが、どこまでも広がっているだけだ。


 列車の走行音と、山賊どもの寝息を除けば、まったくの沈黙。安定した列車の走行が生み出してくれるテンポを保った揺れは、眠気を誘ってくれる。『ゴーティ』の悪名高い刑務所にぶち込まれるというのに、眠れるほどに。


「のん気なもんだぜ。悪人ってのは、肝が据わっているのか、たんに……バカなんだろうな」


 キャットウォークを伝って歩く。たかが300人程度を運ぶ列車だ。すぐに最後尾までたどり着く。コートの襟もとについた通信機に唇を近づけながら報告した。


「異常なし。山賊どもも、大人しいよ。敵も、いない……敵は、いない」


『了解』


 敵はいないが、上空には『味方』がいる。巨大な天使が、列車の速度と同調したまま飛行してくれていた。双眼鏡を、使う。拡大された視界の中には、レミー・マグネリィが映る。彼女は、当然ながらトニーの視線に気づいていた。


 トニーが淡い恋心を抱けるほどに可憐であったとしても、『ギア・エルフ』の偉大なベテランたちの一人だから。ウインクしてくれたことが、嬉しくて。ついだらしない顔を浮かべるが……鉄道員の帽子をかぶり直す。


 敵になるかもしれない相手だ。『ギアレイ』の危険性は、十分に知っている。それでも、機械仕掛けの天使が旋回して高度を落とし始めた時……恐怖よりも、期待が勝った。


 願いが、叶う。


「えい!」


 50メートル上空から、『ギア・エルフ』が天使と分離して、列車の屋根に飛び降りた。


「すごい、ね。あれだけの高さから飛び降りても、転んだりしない」


「こう見えても、私も『ギア・エルフ』ですから」


「だ、だよねー」


「たしか。データによると、『シャル・リリィ鉄道』の」


「トニーだよ!」


 食い気味に答えてしまった。その点を、トニーは少しばかり恥じる。必死過ぎて余裕がない男は、モテないものだ。兄たちから教わった言葉である。彼らの敗北の歴史でもあり、兄たちが戦死した今では遺言でもあった。


「しくじった……ッ」


「え? どうか、したのですか?」


「い、いや。その……何でもないよ。あの……君は」


「申し遅れてしまいました。私は、レミー・マグネリィ。『ギアレイ』のレミーです」


「レミーか。いい名前だよね。音楽を、感じさせる」


「そうですか? あ。ドレミファソラシドー……の、レミ!」


「そ、そうそう。そこです。そこ、オレ、感じ取ってました。あの、ジャズ好きで」


「じゃず? 音楽のジャンルですよね」


「そうそう。君も、好き……かな?」


「普段は、賛美歌しか聴きませんので」


「だ、だよねー。音楽って、アイデンティティなところあるし……『ギアレイ』って、ジャズとか……嫌い、かな」


「いえいえ。この……たんたんっ。たーん。た、たたたた、たーん」


「え? どうして……」


「『ギア・エルフ』は、聴覚と電波のキャッチが優れているので。つい、受信していました」


「そっか」


「盗聴していたわけじゃないですよ!? ただ、つい……気持ちが、楽になる音だったので」


「そうそう。ジャズってさ、そういうのあるよな。のんびり、出来ちまうんだ」


「ええ。これが、じゃず……なら。私、この音楽が好きだと思います」


 トニーにとっては、珍しい出会いである。同年代の少女たちは、あまりジャズを好んでくれない。古臭いとか、おじさんっぽいとか。


 だが。あの数々の悪口は、もはや過去のものとなっていた。目の前にいる美少女が、ジャズを好きだと言ってくれたのだから。それで、十分だと思った。ジャズの名誉は回復されて、レミーの微笑みに運命的なテンポとリズムを感じられたから。


 しゃべった。


 たくさん伝えていく。ジャズへの感情と、ジャズの歴史と知識と……その他の個人的などうでもいい話を。歴史には、残らないほどの、つつましい個人的な記憶だ。何を食べて、何を見て、何をして、喜ぶのか。


 ジャズも好きだし、『シャル・リリィ鉄道』での仕事も好きだと。兄たちが死んだから、母親と妹を養うためにも自分は、寝る間も惜しんで働いているとか、悲しくて辛い日にも、ジャズと汽笛があれば―――。


「笑顔に、なれるんですね」


 微笑みにうなずく。


 テンポとリズムと、ジャズのやさしい包容力を愛するトニーにとっては、必死さとつたなさが目立つ言葉の数々で、あまりにも早足だったものの。『ギア・エルフ』のレミーは、その全てを記憶してくれる。


 何だって、話したくなった。


 何だって、聞きたくもなった。


 キャットウォークの上を、見回りのフリをしながら歩いて……歴史には残らない交流が果たされる。


 心を充たしてくれる善き音楽と同じように。それらの声と声は、寒い風にも負けずに交わされて、あっという間に終わりを迎えた。


「そろそろ、交代の……時間、だね」


「はい。私も、名残惜しいですが、上空に戻ります。トニーさん、貴重なお話をありがとうございます」


「こ、こっちこそ。楽しかったよ、君と、は、話せて。レミー」


 笑顔を使う。強がりもあったが、本心からだ。別れはさみしいが、この出会いは嬉しい。テンポとリズムが、運命的であるのなら。名前の響きも似ている自分たちには、どこか、つながりがあるような―――口にはできないが、心の中でトニーは信じる。


 空へと、『ギア・エルフ』が飛んだ。天使が彼女をやさしく抱きしめる。かつて、あんなに怖かった『ギアレイ』の天使が、今は怖くない。レミーをやさしく抱きしめるのだから。


「それでは、トニーさん。またー!」


「ああ! ま、また! また話そう、レミー!!」


 護衛の任務に戻る歯車仕掛けの天使は、もう怖くなかった。


「マジで……本当にっ。シュエ、がんばれ。お嬢さまもだ。『四都市同盟』、マジで、成立させてくれよ!! オレ、オレ……レミーに、プレゼントを用意しておくんだ。ジャズの、オレが編集したサイコーの名盤集と……それと、それと……彼女に似合う、リボンを!」


 彼女はきっと、リボンが好きだから。トニーはそう確信を得た。『ギア・エルフ』の神秘的なかがやきを帯びた髪は、リボンがよく似合っていたから。


 聴覚がいい。


 それを、トニーは失念していた。しかたがない。感情に、暴発はつきものだ。


「……ウフフ。ありがとう、ございます。楽しみに、していますね」


 天使に抱かれた『ギア・エルフ』は、喜べた。リボンは好きだ。好きだし、自分でもよく買うのだが、『ギアレイ』の仲間たちは、レミーにそれをプレゼントしようとはしない。


 レミーの記憶からは、失われた一日がある。


「……大切な友達に……渡そうと思った。渡せたのかしら。それとも……」


 死と呪わしい『歌喰い』の力は、多くを奪った。渡したのか、渡せなかったのか。その事実は記憶されていない。データは再現されて、人格と保存された記憶は継承されたが、保存されていなかった記憶にだけ答えはあった。


 リボンをプレゼントされると、かつては不安になった。恐怖におびえて泣いてしまう時まであった。そのせいで、周りは贈ってくれなくなった。

でも、おそらく。


 時間は、偉大な癒し手でもある。今この時は、トニーからのリボンは受け取ってみたいと願えた。


「だって。男の子から、プレゼントだなんて。初めてですからねー」


 勝機はあるのかもしれない。


 もしも、この世界に訪れる運命が、やさしいものであったなら。


 ……狂暴な山賊どもを載せた列車に、『ゴーティ』の護衛列車が合流する。トニーたちや、レミー・マグネリィも警戒心を強めたが、『ゴーティ』の鉄道員たちは不愛想ながらも、着実に仕事をこなしてくれた。


 エステルハルド家と同一の細胞を持ってはいるが、彼らの人格は至極マジメで没個性的なものだ。そういった性格の者たちに多い傾向を、彼らも持っている。とても仕事熱心なのだ。仕事をすることに、自らのアイデンティティを求めてることまでしている。


 列車たちは、機械仕掛けの天使に見守られながら……『ゴーティ』までの道を加速した。トニーもレミーも、その恐ろしい雰囲気を漂わせる厳格な機関都市が近づいてくると、ふたたび緊張する。


 レミーは、『電脳戦/ハッキング』も仕掛けた。『ゴーティ』全域を探るのだ。『ギアレイ』の戦術予想が描いたシナリオの一つに、この『ゴーティ』にアーデルハイト・エステルハルドが潜伏している、というものがあった。


 レミー・マグネリィは、アーデルハイトを見つけ出し、それを始末するという密命を帯びてもいたが……『ギア・エルフ』の電脳戦能力が確かめたのは―――。


「―――彼女は、ここにはいない。でも、狙っているはずですよね。『四都市同盟』への妨害を……『殺戮卿』の娘が、ただ大人しく見守っているなんて、考えにくい。何処に、いるの? アーデルハイト・エステルハルド……」


 最大の不安はくすぶったままだ。


 ゆっくりと、『ゴーティ』も『ギアレイ』に向けて進んでいく。無数の山賊どもを刑務所に収監しながら。レミーは、警戒を続ける。可能な限り、『ゴーティ』の偵察を行いたい。


 望んではいる。


 個人的な望みでは、『四都市同盟』の復活が成されるのは嬉しい。


 戦いとは、別の道があるのなら、それを選びたいのだが。それでも、彼女もまた義務を背負った戦士の一人である。『鉄腕』との戦いを想定するのであれば、『鉄腕』の威力を推し量らなければならない。


 シュエとキティが、ゾルハの戦いで作った破壊の痕跡を観測する。


「工事中になっていますが。かつて、私たち『使徒騎士』の爆撃にも耐えたエステルハルドの屋敷を、ああまで跡形もなく……恐ろしい威力ですね。これと、戦う。ゾッとします。怖くて……それでも、少し、楽しみで……あと……何故でしょうか、『懐かしい』」


 胸に手を当てる。


 機械仕掛けのそこも、やわらかさが再現されているのだ。そのやわらかな部分の奥に、不在となった記憶がある。死と『歌喰い』に奪われた、大切な思い出だ。死については、シュエによりもたらされたものである。「すまない。痛みは少なく、する」。


 かつて、そう告げられながら刀を突き立てられた。


 それをわずかにでも覚えているのか、覚えていないのか。


 冷たいが、悲しそうな瞳。焼き払うべき敵に、彼女は見てしまったのだ。やさしさを。忘れ去ったのは、友情の思い出だけではない。自分を殺してくる敵に抱いた、あわい初恋の芽吹きもだ。共感し、共鳴した。「ああ、この人も、本当は殺し合いなんてしたくないんだ」。


「……『鉄腕』。それでも、私は、『ギアレイ』の『ギア・エルフ』です。予測されているシナリオでは、おそらく……衝突は不可避。でも……でも。私は、トニー……」


 休憩時間になったトニーは、朝が訪れた『ゴーティ』の街並みを走っている。あまりにも必死だから、三度も雪に足を取られて転んでしまったのをレミーは見ていた。感情乏しい『ゴーティ』の市民にさえ指差して、笑われるほどの滑稽で、無様な姿であったが。


 必死さは、止まらない。


 探している。レミー・マグネリィに相応しいプレゼントを、どうにかこの色彩の乏しい灰色の街から、見つけ出してやるのだと。


 精密な歯車が、軋む。


 理由など、知らない。


 感情が乏しいのは、『ギア・エルフ』だって、同じ。


 それでも、エステルハルド細胞で作られた市民たちのように笑えない。


 軋む心の痛みの理由を、見つけられないまま。レミーは、口ずさむ。


「たん、たん、たーん。た、たたた、たーん……」


 転びながらも、店を探す。より良いものを、探して。雪だらけで、間抜けた鼻血を垂らしたところで、ひるむことはない。大切なプレゼントには、大切だと信じられる者のためには、どれだけ必死になってもいいのだ。


「見つけてやるぞ。いちばん、いいリボン。レミーに、いちばん合うヤツをだ!」


 心の中で、ジャズを流す。涙にも合う、やさしい微笑みにも合う響きだ。


 痛いときも、苦しいときも。さみしいときも。助けてくれる音と曲があった。


 ……天使の腕に抱かれた場所で、歯車仕掛けの少女は、長い人生で二度目の恋をする。




「シュエさま、それでは、いざ。『ギアレイ』に」


「ああ。キティお嬢さま、エスコートの方法は、覚えているぞ」


「はい。スーツも、決まっていますよ!」


「キティお嬢さまも、可愛くて、とても綺麗だよ」


「あ、あああ、ありがとうございますうっ」


 可愛い。綺麗。


 キティ・フィックスドフラワーにとって、そういった賞賛の言葉は聞きなれているはずだ。それだけの美貌がある。


 だが、どうやらシュエからの言葉は、それらとは異なるらしい。パーティー用のドレスに身をまとったフィックスドフラワー家の当主の顔は赤くなり、視線はキョロキョロと周りにいる使用人たちを見た。メイドたちは、微笑み、老執事はいつも通りの表情だ。


 深呼吸を使う。


 手で、パタパタと顔に風を送った。


「……シュエにさ、ああいうセリフ使わないように命令した方がよくないか?」


「バカなことを言わないのよ、チュンメイ。この世界から、私の楽しみを奪いたいの?」


「そういうわけじゃないがな」


 このありさまを見るのは、個人的に楽しくもあるが。敵に見られると、軽んじられてしまうような気がした。


「ふ、ふう。どうにか、落ち着きました。か、顔、赤くないですかっ」


「そうだね。見てみよう」


「……っ!!」


「赤い」


 チュンメイは、腕を組む。「ほら見たことか」。


「だ、だと思います。でも、だ、大丈夫ですのでっ。う、腕を、お貸しくださいっ!」


「了解だ。会談の前の……オペラ観劇……ちゃんと、エスコートする」


「はい……っ」


 手を取られて、微笑む。にやけ過ぎないように注意だ。自分の心に、そう必死に言い聞かせながら。


 これは、遊びではない。『ギアレイ』に乗り込み、政治的なもてなしを受ける仕事だ。社交好きのガリエラ伯爵の言葉に、クアン・クーラン使徒長が同意した結果である。「芸術を頼ろう。これは友好的な会談だ。結果は、どうあれ。最初からいがみ合わないようにするために。美しい音と、素晴らしい演劇を」。


 伯爵が機関都市『ロッソール』から、お気に入りの歌劇団を呼び寄せた。『ギアレイ』の文化には合わないはずだが、クアン・クーラン使徒長は受け入れる。自分たち『ギア・エルフ』が芸術を理解しない機械のカタマリだと罵られることを、嫌った結果だ。


 演目は。


 キティ・『リトル』・マロレトコワが遺した戯曲、『雪の指環』。


「楽しみですね。85番劇団は、かなりの実力者ぞろいなんです」


「……ああ。それに。この物語は」


「……はい。シュエさまとも、大きな関わりがありますね」


「本では、読んだ。思い出せる記憶は、なかった」


「オペラでは、また違う刺激になります。きっと、得られるものがあるはずですよ」


「そう、だな」


「それに。芸術は、鑑賞する人の心を、感動させたり、楽しませたりしてくれるんです。シュエさま、思い出せないことも、思い出そうとすることも。忘れてください。ただ、戯曲を楽しむのも、良き経験です」


「うん。そうしよう。ただ、感じ取るだけが、オレのすべてだ」


「……はい。じつは、それ……その言葉。キティ・『リトル』・マロレトコワ大おばあさまも、言っておられたんですよ」


「『リトル』も?」


「感じ取るタイプの、芸術家だったので。考えるというよりは、明らかに感覚派の天才で」


「なるほど。親近感が湧く」


「私もです。では、楽しみましょう」


 ……トニーとレミーが大雪原の冷酷さに、ジャズで希望を見出したように。多くの者たちが、心揺さぶる芸術に希望を探した。キティ・『リトル』・マロレトコワも、当然ながらその一人である。


 奪われた記憶さえも、感じ取る演劇術……。


 彼女はそれを研究し続けた。世界を巡り、あらゆる物語を読む。心に、知恵と力をため込みながら……感覚を磨き続けた。記憶はない。記憶はないが、その『空白』には、一種の法則性があることを偉大な劇作家である『リトル』はついに発見したのだ。


 彼女の言葉を借りたなら、「吸い込みたくなる感情がある」。芸術は、ときおり難解なものである。つまり、「愛する男がいた者は、おそらく無意識的に、その男と似た相手を好ましく思ってしまう。外見的な特徴とか、心理的な内的特徴……共感するのだ」。


 芸術家の言葉は、いつもながら不可思議である。そして、横暴でありわがままであり、自由でもあった。「私が、『運命』という言葉に、何故、これほどまで惹かれてしまうのか。それは、かつて心に『運命』という言葉が、深く強く君臨していて、そいつを『歌喰い』に奪われたからに他ならない」。


 決めつけのような主張であった。しかし、天才というものは、直感で正しさを選び取ってしまう。当たっていたのだ、偉大なる劇作家となった『リトル』は。


 難民劇団と共に、大雪原のあらゆる機関都市を巡る。ため込んだ知識と、経験が、天才の才能を肥大化させていき、『歌喰い』にさえ勝ってしまったのだ。


 理不尽なまでの才能。


 人類史上、数少ない……『レリック』にすら打ち克ってみせた天才の一人。


 死が迫るその日まで、彼女は戯曲を書き続ける。「私は、『この物語』を人生で何度も書いた。書くことは、書き直すこと。究極の課題に迫りためには、創作と破壊の輪廻を、もがきながら繰り返さなくてはならない。たのしいよ、地獄だけどね」。


 十五個の、エチュード/習作があった。「これらは、『おそらく真実をいくつかふくんでいる。私が完全に思い出したい日々の欠片たち』だ。それぞれの方向性から、探求しながら、『つながりたがっている運命』を結び付けていく」。


 ほとんどの者に、意味など、通じない。「それは、分かっているよ。何せ、この『リトル』が説明し切れないほどに複雑なことだ。でも、ざんねん。私は天才だから、正しいのさ。十五個のエチュードから得た欠片たちが、共鳴する……最後の物語を書く」。


 自信がある。「かなり正しい。真実そのものとは、言わない。でも、芸術的な意味における真実は、ここにいるだろう。私の心が取り戻した、お姫さまと騎士さまが、どんな物語を過ごしたのか。これこそが、正しい『運命』だ」。


 書いた。


 書き切り、亡くなった。遺言の通り、彼女はその墓のとなりに埋葬される。善き舞台役者、即興劇の達人、モノローグを語らせれば並ぶものなし、並み以上の刀の使い手で活劇もこなせる。『ニコライ・マロレトコワ』……『リトル』は夫のとなりで、永遠の眠りついた。


 彼も覚えていたのだ。妻とともに大雪原を巡り、二人で、ひとつずつひとつずつ取り戻していったのだ。初恋の姫君と、その運命の相手であった少年について。あるいは、初恋の少年と、その運命の相手であった少女について。


 運命だって、引き寄せる。稀代の劇作家と、それに二番目程度には愛された『私』が。一生をかけて世界を巡り、集めたものだ。「さて、会いに行こうかね」。




 空を舞う、雪のなごりの道を往く。

 数多の敵が、凍てつき果てた。

 かなしく、いたましい、戦場の跡。

 誰もが息絶え、うらみの顔に氷が固める。


 敵であった者たちを見て、王と家来たちは口をつぐんだ。

 氷に呑まれて死んだ敵たち、彼らにも守るべき者がいた。

 抱きしめ合う恋人たちもいて、子供を守ろうとした親たちもいる。

 荒々しく憎ましい敵であったが、そこにも愛おしい日常があった。


 すべては雪に、呑まれて。

 命の鼓動は、どこにもない。

 おびえる家来たちの前に出て、王は敵たちの死に沈黙の祈りを捧げる。

 空を裂く虹色の牙よ、この世界の不完全さの犠牲者に、せめて黄泉での幸せを……。


 死の厳格さは、力強く。

 今となっては、うらみさえもない。

 どれだけの仲間を、この敵たちに殺されたのかさえ。

 思い出す気にも、なりはしない。


 それでも、後悔などするものか。


 強く、偉大で、厳格な、孤高の王は思うのだ。

 この世界で、多くの者が生き残ることは難しい。

 だから、せめて自分の王国だけでも守らねばならない。

 生きようともがく、幸せになりたいと願う、同じ心の敵も……王国には入れぬ。


 同じ心を持つ者たちを、無制限に王国に入れることはできない。

 生きるための糧も、有限なのだから。

 冷徹で残酷だと罵られたとしても、王は多くを守る義務がある。

 少なからずの助けを求める者たちを、厳格さと力で追い払うのみ……。


 これからも、この凍てつく死の園をつくるのだ。

 呪わしいまでの力を振るい、追いすがる不幸な敵を打ち砕き。

 悲しみは、ない。

 空虚であっても、かまわない。


 守るべき者がいる、それが全てだ。それ以外は、倒さねばならぬ。


 ……ちいさな姫君が、雪の道を歩く。

 風が払った雪の下。敵の少年がひとり。

 姫君の青い瞳は、それを見つけた。

 王のもとから、ひとり離れて、さみしく死んだ者へと向かう。


 凍え死んだ彼を、あわれにおもったのだろう。

 その唇に、祈りを込めて口づけを捧げた。

 凍てつき閉じられて瞳が、ゆっくりと開く。

 それは奇跡か、あるいは魔法か。


 王の選んだ言葉は、一つ。


 姫君は、少年を抱きしめて喜んだ。

 命を愛する笑顔と、歓喜。

 生き残った敵国の少年を、姫君の願いのままに。

 受け入れることを、選んだ。


 鋼の厳格さ、死の持つ絶対の厳格さ。

 それが変わってしまったとしても、王に後悔はない。

 命の方が、やはり大切なのだ。

 敵を打ち砕くための力を、これより命を守る騎士の剣へと変えよう。

 

 これは、運命だ。


 やさしさを得た王のもと、多くの民が王国に受け入れられる。

 死へと抗う、過酷な道だ。

 多くの者に与えるほどに、限度のある糧は減る。

 過酷な世界のなかで、独り占めしない行いは英雄的であり血の道だ。


 王はそれでも、運命に殉じた。

 奪おうとする敵から、騎士たちを率いて守り続ける。

 より多くを守るのだ、雪の地獄の果てに愛しい娘が見せた運命のために。

 より多くの者を幸せにしてこそ、真なる王に相応しい。


 あの少年は、姫君に仕えた。

 やさしく聡明な姫君に、心は惹かれ。

 そうなることが決まっていたかのように、恋へと落ちる。

 戦いの日々のあいだ、愛を育てる日常も繰り返された。


 終わることなき運命のつながりの果て、名君と謳われた王にも終わりの日が来る。

 敵の槍で貫かれ、剣で裂かれても。

 その道に後悔はなく、赤く染まった血の色の笑顔。

 この王国と、守るべき力を姫君に託す……。


 あまりにも大きな義務を与えることは、父としての葛藤もありはしたが。

 運命を信じよう、連理の枝、比翼の鳥。

 虹の牙にさえ、裂かれぬつながりを持った運命もある。

 愛しい妃の笑顔を見た、ずっと昔に亡くなった、星になった彼女も信じているのだ。

 

 この運命は、あらゆる悪に打ち勝てる。


 姫君に力の指環は託された、空のすべてを背負うような重みの指環。

 守るべき笑顔は数多く、それを奪い取ろうとする悪意ある敵も無数。

 空を見上げたときの、吸い込まれるような心細さ。

 義務の重さに、ひるんだとしても勇ましく進むのみ。


 魔法のような誓いの言葉がある、あの愛しい唇から捧げられたものが。

 支えてくれる騎士がいた、どんな苦しい戦いが待っていたとしても。

 死がふたりを分かつまで、この力と願いで突き進む。

 守るべき者たちのために、自分たちのために。


 運命を燃やし尽くすような戦いが続き、巨大な敵も現れる。

 空を飛ぶおそろしい敵の群れは、王国とそこにあった無数の記憶を焼く悪神を呼んだ。

 戦いの果て、魔法の指環が外れて落ちる。

 死は厳格であり、自由でもあった。


 これでようやく、運命さえも越えた、言葉を使える。

 守るべき者たちは、もう逃げてくれた。

 戦いの義務を、空みたいに大きなそれを背負わなくてもよいのなら。

 最期の時間を、ただ、あなたのためだけに使おう。


 義務の重さは、指環から消え去って。

 雪さえ燃やす炎のなかででも、そばにいてくれる者への誓いに使う。

 この指環に、あなたへの愛を込めて。

 少女は少年にそれを届け、欲しかった言葉をもらう。


 死がふたりを分かつまで……。

 死がふたりを引き裂いたあとでも、ずっと、一緒に。


 運命さえも、その言葉で書き換えよう。

 自由を得た、心のままに、愛のままに。

 

 もう一度、口づけを交わす。




 これは絶対の運命さえも引き裂く、虹色の牙と。

 それさえ力で書き換えた、強く終わらぬ愛の物語。




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空を裂く虹色の牙と、鉄腕の雪。 よしふみ @yosinofumi

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