夏が好きだった。
八雲たけとら*
夏が好きだった。 (約2,200字)
夏が好きだった。
夏休みで授業のない学校に、いつまでも居たかった。
空が晴れていれば尚更のこと。
暑すぎる夏も、スパイスのように私を彩ってくれるから。
夏が、一等好きだった。
みーんみんみんみん。みーん。
セミが煩いぐらいに鳴いている。当たり前のようにそこにあるセミの声が、まるで夏の太陽が音を立てて笑っているようにも感じる。
「…………。」
私は空き教室の机に顔を伏せてうたた寝をしようとしていた。そっと窓からそよ風が流れ込んでくる。風が頬をなでて、気持ち良
「……くないっ!」
飛び起きる。暑すぎる。風が生暖かく身体を撫でていく。気持ち悪い。
私の思い描いたドラマのような時間はどこに行ったの?
泣く泣く窓を閉めてクーラーをつけた。風情が音を無くして消えていく。
しかして整う、寝心地の良い机。まだクーラーの風は部屋を冷やしきっていないが、届く風が既に涼しい。心地良い。最高。
眠りに落ちていこうとする、私の頭。こくりこくりと、重さに耐えきれず、机に抱擁を、始める。
……………………。
…………。
……!
私は、察知した。
物音が近付いてくる! 廊下を駆ける音。
途端に跳ね起きる私。ただの廊下を走る音が、私を追ってくる音だとなぜだか分かった。
逃げなきゃ。私が席を立つのと、教室のドアがガラガラっと開くのは、ほとんど同時だった。
「っ! 渋澤ぁ!」
先生の声。すぐに飛び込んでくるだろう。だが、私はもう既に窓側のドアにたどり着いている。
勝った……。私は内心ガッツポーズをする。
うちの学校の教室にはベランダがあるのだ。そのまま建物の端まで行けば外に出れる。私の勝ちだ。
「お、おい渋澤!」
後ろから声。追いかけてくる気配を感じるものの、距離はある。私は逃げる。逃げる。
ベランダの端、そこは非常階段になっている。階段を一段飛ばしで下り、もうすぐ地上というところで、あるものが視界に入る。
「(……あれは!)」
それは……夏の風物詩……プール。
学校の青春そのもの。ドラマでは制服のまま素足を浸す。あの、プール。
あっちの方が楽しそう。楽しそうなことを思い付いた。
地上に降り立った後、さらに加速する。プールには渡り廊下を横切るルートが早い。
そのまま先生の追従を許さず、プールへの階段を駆けのぼる。夏場のプールは綺麗に管理されていた。そして今日はたまたま水泳部もいない。
「渋澤待てっ! 待てったら!」
待たない。私は、青春するのだ。
プールサイドを走る。いち、に、さん、と踏み切るっ……。
きっと振り返れば、唖然とする先生が居たことだろう。
私は、スカートの裾を翻しながら
プールへ、ジャンプした。
じゃ、ぶーーーーーん。
音と、冷たさと、衝撃。
私は今……自由だ。
そして、プールサイドで正座をさせられている、私。髪の毛をつたってポタポタと水滴が垂れていく。
それを仁王立ちで見下ろす坂代先生。怒っているというよりは、呆れた顔をしている。
「……さぁてと。わたしが何を言いたいか分かるな。渋澤」
「え、もしかして先生もプール入りたかったんですか?」
ぱちーん。
坂代先生は、私の頭を平手ではたく。水滴が飛んでいく。
「痛っ……体罰! 体罰ですよこれ!」
「正確に言うと、パワハラだな。お前はもう生徒じゃないだろう。なんだその格好は……」
セーラーである。赤いスカーフは、びしょ濡れなので手に持っているが、純然たる制服である。
なんだ、と聞かれたので堂々と「セーラーです!」と答えると、もう一発平手が飛んできた。痛い。
「でもでも、坂代先生……今日はオフだから好きな格好で良いって……」
「だからって昔の制服を引っ張り出してくるやつがあるか!」
なんだか久しぶりに着てみたかったのだ。しょうがないではないか。いつも校内にはキラキラの学園生活を送る現役生たちがいるのだ。懐かしみたくもなる。
あの頃の夏に戻りたかった。何もしなくてもよかった、あの輝く夏休みに。
少し、懐かしくなって、制服を着て学校に来たら、もっと懐かしくなって、昔の教室で学生気分に浸っていたのだ。本当は、もう少し浸っていたかったのだが……。
「……そういえば、なんで私があの教室に居るって分かったんですか?」
先生は走ってきて迷わず私のいる教室の扉を開けたのだ。
私はまだ来てることさえ言ってなかったのに。
「お前、クーラー付けたろ」
「えっ?」
「さっきの教室で、クーラー付けただろ、お前」
確かにつけたが、それがなんだと言うのだ。
「ばかだなぁ、お前は。どの部屋で電気が使われてるかなんて、職員室からすぐ分かるんだぞ」
「そうなんですかっ!」
そんなシステムがあっただなんて。迂闊だった……まさか夏の暑さに足を掬われるなんて。これだから暑すぎる夏は嫌いなんだ。
「……ん? でも待ってください。だからって、走って向かってくる理由は無いですよね?」
だって、あの瞬間にはまだ、私のセーラー姿は見られていなかったのだ。
反射的に「怒られる!」と思って私も走り出し、青春っぽい追いかけっこに興じてみたのだが、なぜ坂代先生は、校内をわざわざ走ってやってきたのだろう。なぜプールまで付き合い走ってくれたのだろう。
私が問いかけた素朴な疑問が、なぜだかすぐには返ってこなかった。ふと顔を上げると、口角を少し上げた坂代先生がいた。
「……さぁ、なぜだろうな。」
夏が、好きだった。
誰もいない学校に、閉じ込められた時間が、たまらなく好きだった。
意味なく駆け出したくなるほど。
夏が、一等好きだった。
終
夏が好きだった。 八雲たけとら* @yakumo_taketora
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