逅渚

伊島糸雨

逅渚


 遍く世界の果ての果て、あるいは裏返る肉壁の内の内に、その都市の在処は噂される。失踪し隠遁し追放された、寄る辺を失くした魔女の街──詩編魔術工房都市。語部を喪い、一切の閲覧者を顧みずとも、ただ記録のために記述され得る色相環として、その街は語られている。

 内包されるすべての意味は等価ではなく、独自に定まる音調トーンによって存在の形式を獲得している。無数の静謐と熱があり、彼らは時に次のような文字として表象される。閉じた街それ自体が美術館であり、額縁の中に世界を飾る〝胡蝶市こちょうし〟。永遠の斜陽、止むことのない凋落を示す無人の〝紅昏市こうこんし〟。そらを向く黎明の尖塔、月の色に凍り続ける賢者たちの〝蘖凍市げっとうし〟。そして、無数の影に彩られ、立ち現れては霧散する価値の回廊、いちを模る〝記刻市きこくし〟。街々は座標を異にしながらも、折に触れては交わり別れ、故に境界は曖昧である。現象は数値を拒絶しており、記述とはすなわち印象である。

 魔女と呼ばれる統治者の行方は、街の魔術層レイヤーを紐解くことで同定可能と言われている。例えば、〈館長〉は気に入りの絵画せかいを前に偏在し、〈管理人〉は三一四号棟の一五九二号室で薄闇の中外を眺め、〈博士〉はその時最も高い塔の最上階で本に埋もれて眠っている。ほとんどの魔女は存在し得るが、しかし、ただひとり〈作家〉だけは、回廊のどこにも発見されることがない。記刻市きこくしを統べるのは、遺失された魔術そのものである。

 ひとつとして同一でなく、遭遇であいによって初めて声を授かるものがある。記刻市きこくしの市場に並ぶのは、そのような孤独の断片であった。

 存在の揺らぐ露店があり、そこには無造作に〝氵〟が置かれている。〝氵〟は時により〝冫〟であったり〝彡〟であったりして、形状や画数の類似によって誤認や変容を受ける不安定な欠片である。回廊をゆく影の群れは、すべての可能な文字と仮定される。

 定点に対して移動する点があり、両者の交わる場所は揺籃である。影が露店に立ち止まり、なんとなしに〝氵〟を手に取って眺めてみる。しばらくしてからひとつ頷き、その断片の所有を決めると、影は自身が〝令〟であったことを思い出す。〝泠〟は街に刻まれ、ひとつの意味として記憶される。

〈作家〉が遺した魔術は、無作為に文字を遭遇させ、結果を記録するだけのものであった。それは一枚のまっさらな碑文であり、都市の片隅に紛れた、墓石の形をした渚である。

 白波の糸、潮汐の歌、月夜の熾火。細密な要素のひとつひとつが、集合しては離散する次元として、その砂浜は位置付けられる。そこには無限の水際みぎわを歩く人形があり、亜麻色の長髪と球状の関節を潮風が撫で、足先が砂粒を混ぜるたびに無数の意味と形が生成された。魔女に愛された人形は、現象の海に産み落とされた、ただひとつの印象であった。

 砂浜には、数多の欠片が漂着した。何処からか投げ落とされた瓶船ボトルシップの砕け削れた硝子片、差出人の存在しない天の矛から滴る出来損ないの潮の雫、あるいは、偏旁と呼ばれる未完の孤児。水平線の遥か彼方に誕生し、攪拌と彷徨の果てに、彼らはついに浜へと至る。砂粒は、予見され得るすべての片割れであり、寄せては引く波の合間に互いの形を発見する。流れ着く祭壇は供物を得て〝禀〟となり、水面に浮かぶ鏡像は〝游〟となって、偶然によって生まれた音は人形の名を〝禀游りんゆう〟とした。

 禀游りんゆうは意味を授けるものでなく、無意味を打鍵する書記機構タイプライターであり、その輪郭の長さ分だけ無限回に賽を投げる自動人形オートマトンであり、遥かな渚を歩く試行の中で、偶然の価値を模索するだけの魔術システムである。故に、魔女が〝願う者〟であるのなら、魔術は〝願い〟そのものだった。

 胡蝶市こちょうしの〈館長〉は、世界の美醜を切り納め、その収集によって慰めを得た。

 紅昏市こうこんしの〈管理人〉は、永遠の孤独を謳うことで、あらゆる離別を拒絶した。

 蘖凍市げっとうしの〈博士〉は、無尽の探究を夢見ながら、遥かなそらへと手を伸ばした。

 では、記刻市きこくしの〈作家〉の願ったものは?

 禀游りんゆうはそのような微かな声を、陽光に煌めく飛沫と砂の間、可能なすべての記述の内に発見している。関節を伸ばし、不定の曲線を描く波の狭間に指先で触れる。無数の新たな遭遇であいが新星となり、存在を得て意味をなす。

 世界の裏に逃れながらも行方を晦まし、価値創出の街とひとつの墓石、魔術人形と終わらない潮騒を遺していった、ひとりの魔女の足跡がある。彼のひとの魔術は、言葉探しシークワーズ。遍く奇跡を記憶する、語部も閲覧者も必要としない、ただ物語を続けるための機関ねがいである。

「続けて」

 漂着した糸は結び繋がれ、淡い白波となって声を生む。振り返った先に実像はない。しかしその不確かな輪郭こそが、禀游りんゆうを駆動させる絶対的な魔術モチーフだった。

 靡く髪を静かに抑え、包含される世界の縁を歩んでいく。触れ合い交わるすべてに意味があり──故に記刻市きこくしとは、いつか見出される言葉たちの、生まれを言祝ぐ墓標であった。

 禀游りんゆうは無限に続く遠い水際みぎわを試行しながら、いつかの奇跡を待ち続けている。浜も記刻市きこくしも詩編魔術工房都市も、持てる時間に限りはない。拡散し散逸し、消失と忘却の果てに可能性の海へと失くしたその言葉は、運命にも似た遭遇であいによって自らの印象かたちを思い出す。

 波打ち際に揺れる〝辵〟を影が拾い、左肩に掛けて右へと流す。硝子玉のように煌めく〝氵〟を掬い上げ、そっと胸に抱いたとき──人形はその名前の意味を知る。

「おかえりなさい」

 ふたつの言葉こえの接触が水面みなもに波形を描き出す。墓石に文字が走り、市場は影の賑わいに満ちる。禀游りんゆうは少し遅れて、波間に消えゆく足跡を追う。渚は続き、そのようにして、記刻市きこくしはまた新たな奇跡いみを街に刻んだ。

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