僕が知らない素肌の君

平井敦史

第1話

大護だいごの部屋に入るの、久しぶりだね」


 そう言いながら、「杉里すぎさと穂波ほなみ」は僕のベッドに腰掛けた。

 穂波の家はすぐ近所で、物心ついたころからの幼馴染。小学生くらいまでは気兼きがねなくお互いの部屋に入れたり入れてもらったりしていたのだけれど、中学生くらいからは性別を意識するようになり、僕は彼女の部屋からは遠ざかった。

 一方、穂波はそれ以降も遠慮なく僕の部屋を訪れ、ちょっと人には言えないようなこともしてくれていたのだけれど、それも、半年ほど前に穂波に彼氏ができてからは、ご無沙汰していたのだ。


「じゃ、さっそく始めますか」


 穂波はそう言って、着ていた高校の制服を脱ぎ始めた。

 濃紺のブレザーを脱いでハンガーに掛け、真紅のネクタイを外す。

 タータンチェックのスカートとソックスも脱いで、純白のブラウスだけの姿になると、穂波はちらりと僕の方を見た。


「何? どうかした?」


 怪訝に思って尋ねると、穂波は悪戯っぽく笑って言った。


「脱がせてみる?」


「ば、馬鹿なこと言ってないで早く脱ぎなよっ」


 僕は焦って顔をそむけた。

 穂波にからかわれるのは今に始まったことではないけれど……。


 あいつに脱がせてもらっていたのかな――。


 あまり楽しくない想像が頭に浮かんで、僕はそれを振り払うように首を振った。


 穂波はブラウスを脱ぎ、下着姿になった。

 淡いパステルブルーのプラジャーとパンティ。スポーツ用の下着を着けていることも多い彼女だけど、今日のはちょっと可愛らしいデザインのものだ。


 そして、その下着もためらうことなく脱いで、穂波は一糸まとわぬ姿になった。


 少し癖のあるセミロングヘアに、ものすごい美人というほどではないけれど十分に整った顔立ち。そしてなにより、均整のとれた抜群のプロポーション。

 バスケ部でポイントガードを務めるスポーツ少女の穂波の身体は、とてもしなやかで、それでいて女性らしい柔らかさも保っていて、最高に美しい、と僕は思っている。

 身長は165cmほどあり、胸は大きすぎず小さすぎず。きゅっとくびれた腰に、張りのあるヒップ。そして長い脚に引き締まったくるぶし。

 芸術的な、という表現が決して大げさではないくらい、綺麗な身体だ。

 けど……。


「ポーズはどうする?」


 穂波がそう尋ねてくる。


「じゃあ、いつもみたいにベッドの上で膝を抱えているポーズで」


「OK。……何なら、もっと大胆なポーズでも構わないんだけど?」


「か、からかうなよ」


 穂波はくすくす笑いながら、ベッドの上に座りポーズを取った。


 そして僕も、スケッチブックを開き鉛筆でデッサンを描いていく。

 けど……。さっきもちらりと感じた違和感が、さらに大きくなっていく。


 穂波って、こんなに色っぽかったっけ……?


 穂波のヌードを描くのはおよそ半年ぶり。その間に彼女を変えてしまうようながあったのだ。そのことを想像して、僕の心はズキンと痛んだ。



 僕、「竹内たけうち大護だいご」は小さい頃から絵を描くのが好きで、幼馴染である穂波の絵もよく描かせてもらっていた。

 あれは中学二年の夏休みの時のこと。部屋で美術の宿題用に愛猫あいびょうのマナの絵を描いているところへ、穂波がやって来て、自分も宿題の絵を描くと言い出し、猫の絵を描いている僕をモデルに描き始めた。


 ちなみに穂波の絵は、ちょっと独特なタッチで、本人は下手くそで恥ずかしいなどと言っているが、僕は個性的で良い絵だと思っている。


 それにしても、僕を描いた絵を宿題で提出されるのはちょっと恥ずかしいんだけど、と文句を言ったら、穂波は、じゃああたしもモデルをしてあげるよ、ヌード画の、などと言い出した。

 いつもの冗談だろうと思ったので、よーし、じゃあお願いするよ、と答えたら、穂波は本当に服を脱いでしまったのだ。


 初めて見る穂波の裸は、とても美しかった。

 すべすべの肌に、まだ発育途上の、膨らみかけの胸。身長はその当時から女性としては高めで、すらりと伸びた手足に、ボリュームのある腰つき。そして、うっすらと生い茂った股間。

 性的興奮以上に、美しいものに対する感嘆を感じたことを、昨日のことのように覚えている。


 それ以来、穂波のヌードは何度も描かせてもらってきた。もちろん、誰にも決して見せることのない秘蔵のスケッチ集だ。

 高校に進学し、一年生の冬まで、二年とちょっと続いたそんな日々。

 穂波は中学からやっていたバスケを高校でも続け、僕は高校では美術部に入った。中学の時は部が無かったので、時々美術の先生に見てもらう程度だったんだよな。

 もちろん、美術部の先輩や仲間たちにも、ヌードデッサンを描かせてもらっているなんて話は絶対に秘密だ。


 高校に入って、穂波の身体はますます美しくなっていった。胸は形よく膨らみを増し、華奢だった手足にも程よく筋肉がついて、それでいて女らしさは損なわれていない。ヒップもさらに充実してきて、股間の茂みも濃くなった。


 穂波のヌードを描きながら、まったく性的欲望を覚えなかったと言えば嘘になるだろう。

 でも、せっかく僕のためにモデルをやってくれている彼女に不埒ふらちな感情をいだくのは失礼だと思ったし、幸いと言うべきか、彼女の身体の美しさが、それを純粋に芸術的存在として受け止めることを助けてくれていた。



 そんな日々が終わりを告げたのは、穂波に彼氏が出来たからだった。

 同級生で男子バスケ部の「内日川うついがわ冴一郎さいちろう」って奴。一年生にしてレギュラーの座を掴み、明るい性格で男女問わず人気がある長身爽やかイケメンだ。


 穂波も気さくで人当たりの良い性格なので、男女問わず友人は多いのだが、男子の間での人気はそこまで上位というわけではなかった。

 何しろ、うちの学年はやたらと美人が多いのだ。芸能界で十分通用しそうなレベルの子も何人かいる。そんな子たちと比べたら、穂波はさすがに目立たない。

 まあ、服を脱いだら評価は一変したのだろうけど、見たことがあるのは僕だけだったからな。――その頃までは。


 内日川と穂波は同じバスケ部ということで前々から親しくはあったのだけれど、ある時彼がこくってきたのだそうだ。

 その時、穂波は僕に相談してきた。付き合うべきかどうするべきか、と。

 そんなこと言われてもなぁ。内日川は男の目から見てもカッコいい奴だったし、性格だって悪くないと思ったから、良いんじゃないの?と答えた。


 で、二人は付き合い始め、今日きょうび当然のことなのかもしれないが、やがてになった。


 と言っても、本人たちの口から打ち明けられたわけじゃないし、友人たちから「あいつらヤってるらしいぜ」なんて話を聞かされたわけでもない。


 あれは今年のゴールデンウィークのこと。母親に頼まれて、僕は穂波の家に届け物を持って行った。ご近所だし、そういうのは昔からよくあったことだ。


 その日、穂波の両親は留守だった――というのは後から知ったことだ。

 インターホンを何度か鳴らすと、少し頬を上気じょうきさせた穂波が姿を見せた。

 いかにも今慌てて服を着込みました、といったかんじの着崩れ方。そして、玄関先には男物のバッシュ。

 僕の視線でそのことに気付いたのか、穂波は無言のまま気まずそうに微笑んだ。


 いや、もちろん状況証拠に過ぎないし、せいぜいキスとかだけだった可能性もある――。

 そう、自分に言い聞かせてきた。

 今更ながら、僕は穂波を好きだったのだということに気付かされた。彼女が他の男に抱かれているだなんて想像すると、胸が苦しくなる。


 冴一郎とは別れた、と穂波の口から聞かされたのは、しばらく前のこと。

 そして今日水曜日は全校一斉の部活休養日。久しぶりにモデルやってあげる、などと言って、穂波は僕の部屋にやって来たのだ。



 きっと、二人はまだ一線を越えてはいなかったはず――そう自分に言い聞かせて、いや、自分を騙してきたけれど、半年ぶりに穂波の裸身を見て、僕はさとらざるを得なかった。

 穂波の身体は男を知ってしまったのだと。


 具体的にどう変わったのか、言葉で表現するのは難しい。と言うか、体形がはっきり目に見える形で変わったわけではないだろう。

 けれど、穂波の身体から滲み出る色気は、明らかに以前とは違うものだった。


 もし、穂波から相談を受けた時、付き合うのはせ、僕の方がずっと君を愛しているんだ、と言えていたら――。穂波をこの手で変えることができていたのだろうか。

 いや、そもそも前提があり得ない。その時は、僕なんかより内日川の方が、穂波の彼氏にふさわしいと思っていたのだから。


「なあ、これ聞いていいのかどうかわからないんだけど……。内日川とは何故別れたの?」


 僕がそう尋ねると、穂波はちょっとだけ表情を曇らせて、こう言った。


「いやまあ、つまらないことなんだけどね。……“ダーウィン賞”って知ってる?」


「? 何それ、生物学の賞?」


 初めて聞いた言葉なので、僕がそう答えると、穂波は苦笑しながら、


「違う違う。えーっと、何だっけ。馬鹿の遺伝子を残さずに死んでした人物を称える、だったかな。要するに、馬鹿な死に方をした人を笑いものにするやつだよ」


「は? 何だそれ、悪趣味だな。で、それがどうかしたの?」


「いやその、冴一郎のやつ、その手の動画をしょっちゅう見てたんだよね。……そりゃもちろん、あたしだって、危険な場所で自撮りをしていて転落死したなんて話を聞いたら、馬鹿バッカじゃないの、とは思うけどさ。わざわざそういうのばっかり集めた動画を見て嘲笑あざわらうなんて、やっぱ悪趣味だよね。で、冴一郎にそう言ったら、ねちゃってさ」


「それは……何と言うか……」


 内日川、ちょっと器が小さいんじゃないか?


「実のところ、動画がどうこうっていうより、あたしに意見されたことが気に食わなかったみたいでさ。本当、あんなに器の小さい男だとは思わなかったよ」


「そうなんだ。でも正直、僕もあいつがそんなやつだとは思ってなかったんだけど。人当たりも悪くなかったし」


「そうだね。あたしもそう思ってた。でも、それはあくまでも、自分をちやほやしてくれる相手に対しては、だったんだよね」


 そんなわけで、次第に関係がぎくしゃくするようになり、別れることになったのだとか。


「で、冴一郎はあたしと別れた後、すぐに後輩のと付き合いだしたよ。あたしよりも従順で、絶対に逆らったり意見したりしなさそうなと、ね」


 あたしと付き合っていた頃から二股掛けてた、とは思いたくないけどね、と呟いて、穂波は自嘲するように笑った。


「それにしても、そんな程度でねるなんてねぇ。僕なんか、穂波にどれだけダメ出しされてきたことか……」


「はは、そうだね。結構キツいことも言ってきたよね。今更だけどごめん」


 そう言って穂波は頭を下げた。いいよ、気にしてないから。


 そんな話をしているうちに、僕は絵を完成させた。


「よし、出来た」


「へえ、見せて見せて」


 穂波が僕の絵を覗き込む。そして、ちょっと首を傾げ、


「大護、ちょっとタッチが変わった? 以前の絵はこんなに色っぽくなかったと思うんだけど」


 いや、それは僕の絵が変わったんじゃなくってだね。

 僕の表情を見て、穂波も思い至ったのだろう。ちょっと頬を赤らめる。


「……あー、なるほどね。でもさ。それをちゃんと表現できているわけでしょ? 大護の画力、すごく成長してるんじゃない? これもあたしがモデルをやってあげてたおかげだよね」


「まあ、そうかもね」


「えへん、竹内大護はあたしが育てた、なんてね」


 そう言って、穂波は胸を反らした。形の良いおっぱいがぷるんと揺れる。


「ちょ、ちょっと! 早く服を着なよ!」


 絵を描くことに集中している間はともかく、そうでないときはさすがに恥ずかしい。慌てる僕に、穂波はくすくす笑いながら服を着込んでいったのだけれど……。


――ヘタレ。


 そう呟く声が聞こえたように思えたのは、僕の気のせいだろうか。



 何事もなかったかのようにかっちりと制服を着込み、穂波が言う。


「じゃあ、これからもモデルをしてほしくなったらいつでも声を掛けてよ。美大受験、目指すんでしょ?」


「ああ。そうだね……。よろしくお願いするよ」


 また穂波の絵を描ける、というのは正直嬉しい。でも、そんな時間もあと一年余りしか残されてはいない。


「穂波は、東京の大学受けるんだっけ? そっちの受験勉強は大丈夫?」


「心配ないよ。前回の模試でも判定良かったし」


 まあ、穂波は成績も優秀だからな。心配はしてない。でも、僕が目指している美大も東京都内とは言え、都心からはだいぶ外れたところにある。高校を卒業したら、穂波とも離れ離れになってしまうのだろう。

 寂しい思いが、僕の胸に溢れる。

 そんな僕を見て、穂波は何故か呆れたような表情を浮かべていたが、ふと思いついたように言った。


「ねえ、知ってる? あたしの志望校、大護の美大と同じ沿線なんだよ」


「え? それってどういう……」


 戸惑う僕に、穂波は昔と変わらない悪戯っぽい笑顔を投げ掛け、こう言った。


「じゃあ、あたし帰るね。また明日、学校で」



――Fin.

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