後編

「ディア様!」

「あら、ミュリー」


 にこにこと手を振って駆け寄って来るミュリエル様ことミュリーに、私は瞳を細めた。彼女とは、もう互いに愛称で呼び合う間柄だ。


 彼女を庇った一件以降、私はすっかり彼女に懐かれてしまったようだ。まるで子犬のような無垢な瞳で私の後をついてくる彼女は、とても可愛い。一年後輩の彼女は、それまで身体を悪くしていて、ようやく体調を持ち直して学院に編入したのだそう。今も、空気のよい郊外から学院に通っているとの話だった。


 私のいるところに、彼女はよく顔を出すようになっていた。それまで遅れていた彼女の勉強をみるうちに、私はすぐに彼女と仲良くなった。地頭が良い上に努力家の彼女は、あっという間に学習の遅れを取り戻した。それまで、破滅ルートの回避ばかりを考えて、学生といえど青春の要素は皆無だった私にとって、気が合う彼女と一緒に学食でご飯を食べたり、帰りがけにお茶をしたりするささやかな時間は、とても幸せなものだった。


(それに、ミュリーったら本当に可愛いんだもの……!)


 外見が飛び抜けて可憐なだけでなく、性格まで純粋で優しい彼女のことが、私は大好きだった。それに、あまり令嬢らしくもないこんな私を慕ってくれる。ディア様がお姉様だったらよかったのに、と彼女が呟くのを聞いて、私は感動に震えてしまった。私だって、こんな妹がいたらどれほど幸せだろうか。この世界での推しが誰かと聞かれたら、私は迷わずに彼女の名前を挙げるだろう。


 一つだけ私の頭に浮かんだ疑問は、これだけ美しい彼女が、前世のゲームになぜ登場しなかったのだろうということだ。モブにしては、あまりに綺麗過ぎる気がしてならない。

 でも、私がフィリップ様と婚約していなかったり、ヒロインのフローラ様の性格があんな感じだったりと、きっとゲームとは違うバグが色々と起きているのだろうと、私はそう自分を納得させていた。

 私という悪役が抜けた代わりに、フローラ様が悪役ポジションに落ちて、新しい正ヒロインとして登場したのがミュリーなのではないかと、私は結構真剣にそう考えていた。


 フィリップ様は、引きも切らずに縁談が来ているだろうに、なぜかまだ誰とも婚約していない。ヒロインのために、ゲーム補正がかかって空席になっているのかとも思ったけれど、それでもやっぱり不思議だった。できれば、彼にはミュリーを選んで欲しい。こんないい子、滅多にいない。たまたま最近、彼から季節の挨拶のような手紙が来たので、これ幸いと、友人になったミュリーを褒めちぎる手紙を返しておいた。少しでも二人の進展に繋がったら嬉しいと、そう陰ながら願っているところだ。


 この日も、帰りがけに彼女と学食でお茶を飲んでいたら、窓の外からフィリップ様がミュリーに向かって手を振っていた。


「あっ……!」


 嬉しそうに笑ってフィリップ様に手を振り返したミュリーに、私は満面の笑みを向けた。今世の推しと前世の推しが並ぶところを見られるなんて、最高だ。きっと、二人の婚約が調う日もそう遠くはないことだろう。美男美女の彼らは、誰が見てもお似合いに違いない。


「フィリップ様、あなたを迎えに来てくださったのね。早く行った方がいいわ」

「はい。……あの、よかったらディア様も一緒に行きませんか? 途中までお送りしますから」


 私はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。


「いいえ! 私にはあなたたちを邪魔する気はまったくないから、安心して!!」


 思わず言葉に力が入る。これまで会うことを避け続けてきたフィリップ様と、今さらご一緒するつもりはなかった。まあ、ミュリーを推している私が、彼女を害する可能性はないと断言できるけれど。

 彼女は残念そうに少し眉を下げてから微笑んだ。


「わかりました。ではまた明日、ディア様」

「うん、また明日ね」


 彼女と手を振って別れてから、私はふと視線を感じて辺りを見回した。視線の主に気付いて、心臓がどくんと音を立てる。学食の遠くの席から、フローラ様が、フィリップ様の元に向かうミュリーのことを忌々しそうに睨み付けていたのだ。

 フローラ様の怒りに染まった顔を見て、私は嫌な予感がしたけれど、フィリップ様が一緒なのだから大丈夫だろうと思い直した。

 

 私の予感がただの予感では済まなかったことがわかったのは、その翌日になってからだった。


 授業の合間の移動時間に、階段の下に人だかりができているのを見掛けて、興味本意に近付いた私は息を呑んだ。階段の下に、フローラ様が倒れていたのだ。くじいたらしい足首を痛々しい様子で押さえた彼女は、涙目で階段の上を見上げていた。


「酷いわ! 私が少しフィリップ様とお話ししていたからって、私のことを階段から突き落とすなんて……!」


 フローラ様の視線の先には、青ざめたミュリーの姿があった。ミュリーが決してそんなことをしないということをよく知っていた私は、急いで人ごみをかき分けた。


「待って! 彼女はそんなことをする人じゃ……」


 私の声は、その場に現れた一人の人物によって遮られた。


「フローラ、どうしたんだ?」


 フィリップ様が、フローラ様の身体を抱き起こす。


「それが、ミュリエル様に階段から突き落とされて……」


 うるうると瞳を潤ませるフローラ様の迫真の演技は、まるで女優のようだった。


「それに、証人もいるのです」


 フローラ様の側にいた彼女の取り巻きたちが、階段の上を見上げてミュリーを睨み付けていた。


「私、見ましたわ。階段を降りてきたミュリエル様が、フローラ様のことを突き飛ばすのを」

「あれは事故ではなく、故意に違いありませんわ」

「フローラ様に嫉妬なさっていたからでは?」


 フィリップ様は、眉を寄せて彼女らに尋ねた。


「……本当かい?」


 口々にフローラ様を援護する取り巻きたちの言葉を聞いて、すっかり頭に血が上っていた私は、思わず大声で割り込んだ。


「そんなはずありません、フィリップ様。彼女は絶対にそんなことをしないと、私は断言できます」


 直接彼と話したのは、ほとんどこれが初めてだった。

 昨日のフローラ様の表情を思い出した私は、彼女の芝居に騙されそうになっているように見えるフィリップ様を眺めて、これまで彼を避け続けていたことを忘れてしまうくらい、悔しくてたまらなかったのだ。

 憤っている私に向かって、フィリップ様はなぜか目配せをすると、改めて階段の上にいるミュリーを見上げた。


「そこにいる僕の妹が、フローラのことを突き落としたと、そう言うんだね?」

「い、いもうと……?」


 真っ青になったフローラ様が口の中で呟いた。彼女の取り巻きたちも、一様に表情を失くしている。私もすぐにはその言葉が呑み込めずにいた。

 フィリップ様は頷くと続けた。


「ああ、僕の可愛い妹だよ。彼女はしばらく身体を悪くしていて、空気のよい郊外の叔父と叔母の家で暮らしているし、叔父の家の名前で入学しているから、君たちが知らなくても無理はないけれどね」


 言葉が出ないまま、はくはくと口を開いたり閉じたりしていたフローラ様に向かって、彼は冷ややかな目を向けた。


「ミュリーがそんなことをするはずがないってことは、僕もよく知っている。大事な妹に向かってこんな真似をするなんて、簡単に君たちを許すつもりはないよ」


 へなへなと崩れ落ちたフローラ様を眺めてから、私はぽかんと口を開けてミュリーを見つめていた。


「え……妹? フィリップ様の?」


 ミュリーは申し訳なさそうに私を見つめ返した。


「はい。今まで内緒にしていて、ごめんなさい」


(じゃあ、フィリップ様が彼女を迎えに来ていたのも……)


 どうやら、私は明後日の方向で都合の良い勘違いをしていたようだった。前世の推しと今世の推しが、兄妹だったなんて。でも、ミュリーのあの美貌は、フィリップ様の妹と言われれば頷けた。どことなく面影が似ているような気もしなくはない。


 顔を上げたフローラ様が、ヒステリックに叫んだ。


「何よ、それ!? ミュリエルなんて子、あのゲームには出てこなかったのに!!」


 驚いている私を、彼女はきっと睨み付けた。


「元はと言えば、あなたがちゃんと役割を果たさないからいけないのよっ……!!」


 フローラ様は、どうやら私と同じく転生者だったようだ。困っている私に、フィリップ様が助け船を出してくれた。


「よくわからない文句を、僕の大切なディアドリーに言われても困るな」

「……!?」


 何が起きているのかわからなくなった私に、彼はうっとりするような笑みを向けた。


「ディアドリー、今なら僕との婚約を受けてくれるかな?」

「え」


 脳内がフリーズした私の前で、彼はミュリーと目を見交わした。


「ミュリーに、姉にするなら君以外には考えられないと聞いているんだが、どうだろう? 少し考えてみてはくれないか」

「そ、それは……」


 確かにとても魅力的な提案ではあったけれど、破滅ルートへの恐怖は、未だに私の心に根深く残っている。

 ぷつりと思考回路がショートした私は、目の前がぐにゃりと歪むのを感じると、フィリップ様と初めて会った時以来、その場でばたりと倒れた。


***


 私が目を覚ますと、自室のベッドの上にいる私を、フィリップ様とミュリーが心配そうに覗き込んでいた。


 幾度か目を瞬いて、ようやく我に返った私は、恐る恐る二人を見上げた。

 フィリップ様の顔をこれほど間近で見るのは、初めて会った時以来だった。幼い頃より、さらにずっと麗しく成長していた彼の姿に、私の胸はどきどきと跳ねる。


「あの……」


 困惑気味に頬を染めた私に向かって、彼は優しく微笑んだ。


「驚かせてしまって、ごめんね」


 そう言ってから、彼はぽつぽつと今までのことを話し始めた。初めて会った日から、私のことを忘れられずにいたこと。けれど、私に拒否されたために、それ以上嫌われたくなくて距離を詰められずにいたこと。私からの手紙はすべて大切に取ってあること、学院内でも私のことをよく見つめていたこと、等々。


「僕との婚約を断られた時には、正直言って驚いたけれど。多くの令嬢たちとは違って、魔法の腕を磨くことに全力を傾ける君を、僕は心から尊敬している。とびきり美しい上に、ミュリーを庇ってフローラ嬢にも勇敢に立ち向かう君を見て、改めて惚れ直したよ」


 初めて聞く、想像もしていなかった彼の本音に、私は胸がぎゅっと締め付けられるようだった。自分の破滅ルート回避しか考えず、こんなに素敵な彼を傷付けてしまっていたことが申し訳なかった。


 さらに、私の作った回復薬を彼が妹に飲ませていたと聞いて、私は目を丸くしていた。

 それまでは外出もままならずに臥せっていたミュリーが、私の薬を飲んでからここまで回復したというのだ。


「それは本当ですか?」

「ああ。君が作った薬なら、きっと間違いないと思ってね」


 前世のゲーム内でミュリーが登場しなかった理由がようやく呑み込めた私に、彼女はとびきり可愛らしい笑みを向けた。


「ディア様は、私の恩人です」

「……どうして、フィリップ様の妹だと教えてくれなかったの?」

「ごめんなさい、兄に口止めされていて。どうやら兄は嫌われているようだから、妹だと知られたら、私もお友達になってはいただけないかもしれないと」


 それは確かに的を射ていた。もし彼女がフィリップ様の妹だと知っていたなら、破滅ルートの気配を感じて彼女を避けていたかもしれない。


 ミュリーは瞳を潤ませると、私の顔を覗き込んだ。


「これからも、仲良くしていただけますか?」

「ええ、もちろん」


 私はすぐに頷いた。


「では、ディア様。私の本当のお義姉様になってはいただけませんか?」


 そう畳み掛けられて、私はぐっと言葉に詰まった。このミュリーの表情を前にして、首を横に振るのは至難の技だ。フィリップ様も、祈るような切実な瞳を私に向けている。そんなに美しい瞳で見つめられたら、後戻りできなくなりそうなのでやめてほしい。

 私は少し別方向に話を変えてみることにした。


「そう言えば、あの後フローラ様は?」

「王立学院の退学が決まったよ。彼女はあれ以外にも、ミュリーに色々と嫌がらせをしていたんだ。彼女の取り巻きたちもしばらく停学になる」

「そうでしたか」

「まあ、決定的な証拠を掴むために、今まで彼女を泳がせていたんだけどね。よくわからないことを喚いていたから、君も気味が悪かっただろう」

「そ、そうですね……」


 ミュリーにもう危害が及ばないことにほっとしつつ、私は曖昧に笑った。ここがゲームの世界なのだと言ったら、私の気が触れたと思われるだろうか。

 助けを求めるように、二人の後ろにいたお兄様に視線を向けると、彼はからりと笑った。


「願ってもない話じゃないか、ディア。これまで君に来ていたほかの縁談は、俺の目に適う男がいなくて断り続けていたけれど、彼なら俺も賛成だよ」

「お、お兄様まで……!」


 そう言えば、適齢期になっても他の縁談が来ないなと思ってはいたけれど、私が変わり者のせいだからかと流していたのだ。

 お兄様が私を溺愛していることは知っていたけれど、まさか彼がその犯人だったなんて。


 逃げ場を無くした私は、フィリップ様を見つめておずおずと尋ねた。


「では、まずはお友達からお願いできますか?」

「わかったよ、ありがとう」


 彼の眩しいような笑みに、私は頭がくらくらとした。抜けられない沼に沈み込んでいくような、そんな感覚だ。


(もしフィリップ様と結婚したら、前世の推しが旦那様になって、今世の推しが義妹いもうとに……)


 私にはでき過ぎた幸せだと、そうぐるぐると考えていた私に、彼はその美麗な顔を寄せて囁いた。


「僕の想いがどれほどか、君は知らないみたいだね。僕は必ず、君を振り向かせてみせるから」


 頬にかあっと熱が集まるのを感じていた私に、彼は続けた。


「何か、事情があるようにも見えるけれど。何があっても、僕は君をずっと大切にするよ」


 勘の鋭いフィリップ様に、私は涙が出そうになっていた。


(もしも何かあったとしても、回復薬を作って独り立ちする手もあるかしら……)


 それでもまだそんな理屈で考えていた私に、フィリップ様は軽く爆弾を落とした。


「好きだよ、ディア」


 彼の言葉の甘い響きに、私の理性は吹っ飛んでいた。

 フィリップ様に優しく手を取られ、私は思わず頷いてしまった。真っ赤になっているだろう私を見て、ミュリーとお兄様は嬉しそうに笑っている。


 胸に広がる甘やかな感情に、初めてそのまま身を委ねた私は、はにかみながらもフィリップ様にいっぱいの笑みを返した。

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ヒロインが腹黒だったので 瑪々子 @memeco

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