ヒロインが腹黒だったので
瑪々子
前編
「あなた、身の程をわきまえなさいよ」
耳に届いた怒鳴り声に、私は思わず振り返った。その声の主は、私が努めて関わらないようにしていた令嬢――フローラ・ドゥカス伯爵令嬢だったけれど。
放課後の王立学院の裏庭から聞こえてきた彼女の言葉は、私にではなく、一人の小柄な令嬢に対して発せられたものだった。フローラ様は取り巻きの数人の令嬢と共に、小柄な彼女を威嚇するように取り囲んでいた。
びくりと身を竦めた彼女に向かって、フローラ様はその美しい顔を歪めながら続けた。
「転入してきて早々、フィリップ様にあんなにベタベタするなんて、あなた、何様のつもり!?」
「私、そんなつもりじゃ……」
小柄な令嬢のか細い声が、取り巻きたちの声によってかき消される。
「そうよ。フィリップ様の隣にいることを許されるのは、フローラ様だけよ」
「あなたなんかには百年早いわ」
私は輪の中で小さくなって震えている令嬢を見つめながら、溜息を一つ吐いた。
(これじゃ、私よりも、よっぽどフローラ様の方が悪役よね)
彼女らが話しているフィリップ様というのは、フィリップ・ローリンゲン様のこと。王家の遠縁に当たる公爵家の嫡男であり、文武両道かつ超美形、そしてこの学院の生徒会長まで務めているという、非の打ち所がないキラキラした青年だ。
この世界が、「君は僕だけのもの」というベタな名前の付いた乙女ゲームの世界だと気付いたのは、ずっと昔、まだ幼い頃に、私がこのフィリップ様と顔合わせをした時だった。
黒髪黒目という、この世界では珍しい、前世で暮らしていた国を彷彿とさせる彼の色の組み合わせに、前世の記憶がフラッシュバックしたのは不幸中の幸いだった。
フィリップ様はゲームでも一番人気の攻略対象だ。そして私、ディアドリー・コンラートは、フィリップ様の婚約者として、ヒロインであるフローラ様との仲を邪魔する悪役令嬢。侯爵家の長女である私は、フローラ様をあの手この手で陥れようとし、ひいては彼女の命を狙って牢屋へ……という、これまたベタな悪役のはずだった。
怒涛のように押し寄せてきた前世の記憶と、自分が悪役令嬢として転生していたことへのショックに、フィリップ様を見た瞬間に泡を吹いて倒れた私を見て、彼も私の両親も慌てていた。その日は、結局私の体調不良を理由にフィリップ様にはお帰りいただき、その後も彼と会うことを全力で拒み続けた甲斐あって、彼と私との婚約話は無事立ち消えになっていた。
このゲームでの前世の私の推しは、確かにフィリップ様だった。けれど、自分が悪役令嬢となればまた話は別になる。ヒロインが現れるまで、彼の婚約者の座を楽しむという手もあったかもしれないけれど、うっかり本気にでもなってしまったら、転落への一本道をまっしぐらだ。フィリップ様といたら、その魅力に我を忘れてしまいそうな危うさを、私は初対面の時に感じ取っていた。だからこそ、彼の側に近寄ることすら徹底的に避けている。
さらに、悪役令嬢に転生してしまったことに気付いてからは、できる限り波風を立てずに日々を送ろうと、生まれつきはっきりとした目鼻立ちが目立たないよう気を付けて過ごしていた。学院でも、ノーメイクに眼鏡、髪はひっつめと、極めて地味だ。
(とはいえ……)
私は、普段のフローラ様からは想像もつかないような、彼女の怖ろしい顔を眺めた。私が勝手に悪役令嬢ポジションを下りたせいなのか、どうもこの世界にはバグが生じているらしい。フィリップ様の前では、虫一匹殺さないような淑女の顔をしていると評判のフローラ様が、こんな腹黒な有様なのだ。いったい、何が起きているのだろうか。
勝ち誇ったような顔で小柄な令嬢を追い詰めるフローラ様を見て、私の腹の中にはむかむかと怒りが湧き上がった。
(こんな人がヒロインでいいのかしら?)
噂に聞く限り、彼女は攻略対象の生徒たちを手際良く順番に落としていっているらしい。それでいて、実のところこうしてフィリップ様を狙っているのだ。影響力のある高位貴族の子息たちと仲良くなった彼女は、学院内で一目置かれるようになったのをいいことに、手頃な令嬢たちを取り巻きとして抱き込んでいるようだった。
私が以前フィリップ様と会い、泡を吹いて倒れた後、彼は幾度も私の体調を気遣う手紙をくれた。見舞いは丁重にお断りしたものの、角が立たないようにと私も手紙を返すうち、しばらくの間文通が続いた。律儀な彼は、学院内でもひたすらに彼を避け続けているこんな私に対して、今でも時々思い出したように手紙をくれる。他愛ないけれど、彼の温かな人柄が窺える手紙が届くと、つい私も口元が緩んでしまう。
私自身は、破滅ルート回避のためにも、彼と決してお近付きにはなりたくなかったけれど、そんな完璧な前世の推しがフローラ様に落とされていくのを、ただ指を咥えて見ているというのも何だか癪だった。フローラ様のように表裏のある人が、私は大嫌いだったから。
気付いた時には、私はずかずかと大股で彼女たちに近付いていた。フローラ様が、バケツを持った取り巻きの令嬢に顎で指示をする。
「フィリップ様に近付いた罰よ」
バシャッと勢いよく掛けられた水は、小柄な令嬢にかかる前に、彼女の前に割って入った背の高い私にかかった。全身がずぶ濡れになった私を見て、私に水をかけた令嬢もフローラ様も、さあっと青ざめている。
いくら目立たないように過ごしているとはいえ、私はこの王国でもかなり力のあるコンラート侯爵家の長女。私を害したとなれば、どんなお咎めを受けるかわからないと、彼女たちの軽そうな頭でも想像がついたのだろう。
「ちょっと、何してるの?」
思ったよりも怖い声が出た。すっかり水で曇った眼鏡を外した私が、吊り上がった金の瞳で睨み付けたものだから、彼女たちはさらに縮み上がっていた。私が睨むと、結構迫力がある自信はある。じりと後退ったフローラ様が、早口で呟いた。
「こ、こんなつもりじゃなかったんです。申し訳ありませんでしたっ……!」
頭を下げてから、蜘蛛の子を散らすように逃げて行く彼女たちを見て、私は再び溜息を吐いた。
やろうと思えば、家まで巻き込んで正式な謝罪を求めることもできるけれど、彼女たちにあえて私から関わりたくもなかった。そんなことで恨みを買って、破滅への道が開きでもしたら洒落にならない。今は私が水をかけられた側だし、たいして問題はないだろうと思いつつ後ろを振り返った。
遠目からはよくわからなかったけれど、そこにいたのはもの凄い美少女だった。フローラ様が釘を刺しておこうとしたのも頷けるくらい、同性から見ても息を呑むほど美しい。柔らかな栗色の髪に、小動物のようなつぶらな琥珀色の瞳をした華奢な少女が、目を潤ませて私を見上げていた。
「あの、ありがとうございました!」
深々と頭を下げた彼女に、私は首を横に振った。
「いいのよ。大丈夫だった?」
「はい、庇っていただいたお蔭です。……すみません、私のせいで濡れてしまいましたね」
慌ててハンカチを差し出した彼女に、私は微笑んだ。
「あなたは何も悪くないのだから、気にしないで」
「あの、お名前を伺っても……?」
ほんのりと頬を染めた、どこか儚げな彼女のあまりの可愛らしさに、私は心臓を打ち抜かれそうになっていた。
「私は五年のディアドリーよ。よろしくね」
「私は、今日四年に編入したミュリエルと申します。よろしくお願いいたします」
彼女から借りたハンカチで手だけを拭いて、私は彼女からおずおずと差し出された手を握り返した。そして、その手にぐっと力を込めながら、目を輝かせて彼女を見つめた。
「頑張ってね、ミュリエル様。私、応援しているから!」
フィリップ様の隣に並ぶなら、性格の悪いフローラ様より、ミュリエル様の方が遥かに相応しい。これほどの美少女なら、フィリップ様に並んでも遜色はないはずだ。きっとそれが気に食わなかったのだろうと、私はフローラ様の胸の内を想像していた。
「ええと、それはどういう……?」
不思議そうに小首を傾げたミュリエル様に手を振って別れると、私は帰路を急いだ。
***
帰宅した私がびしょ濡れなのを見て、お母様は驚いたように目を瞠っていた。けれど、私が何でもないと言ったからか、お母様は諦めたように部屋へと戻っていった。
フィリップ様と会って倒れた一件以降、どこにでもいるような貴族の少女から、がらりと人が変わったように頑なになった私に、両親も匙を投げているようだ。
使用人から受け取ったタオルで身体を拭きながら、自室へと向かって私が廊下を歩いていると、これまたゲーム内では攻略対象のライアンお兄様が、部屋からひょいと顔を覗かせた。
「お帰り、ディア」
「ただいま帰りました、お兄様」
お兄様とは、今まで良好な兄妹関係を築いてきた自信がある。前世の記憶が戻ったばかりの時は、嫌われないようにと細心の注意を払っていたけれど、今のお兄様は私の一番の味方だ。溺愛されていると言ってもいいと思う。彼は、ずぶ濡れの私を見て目を丸くした。
「どうしたんだい、その格好は?」
「ちょっとした諍いに首を突っ込んでしまいまして。でも、たいしたことではありませんわ。それよりも……」
私は、鞄の中にしまっていた、図書室から借りた本が濡れていないことを確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。そして、満面の笑みでお兄様にその本を差し出した。
「見てください、この本! さっき、学院の図書室で借りてきたんです」
「ほう。『回復薬の作り方・上級編』ねえ……」
ディアも好きだなあ、とお兄様が呟く。前世の記憶が戻ってからというもの、私は破滅ルート回避の可能性を探って全力を尽くしていた。いくらフィリップ様と婚約せずに済んだとはいえ、私がディアドリー・コンラートである事実に変わりはない。破滅への入口が、どこでぱっくりと口を開けているかもわからないのだ。
手っ取り早く、私は何かあった時のためにとお金を稼ぐことにした。家を追放されても生きていけるようなお金と技術があれば、多少は平穏に生きられそうな気がしたからだ。
ディアドリーは、さすがゲームではメインの悪役令嬢だけあって、魔力も高ければ全方位の魔法も使いこなせる。だから、私は回復魔法を活かして回復薬を作ることにした。幼い頃から練習しているお蔭で、私の回復魔法は相当のレベルになっているようだ。それを、お兄様に仕入れてもらった聖水に込める。やり方にはちょっとしたコツがいるし、それが掴めてきたのも割と最近だけれど、お兄様経由で販売してもらっている回復薬は、なかなか好評らしい。
魔力も消耗するから、身を削って作っているようなところもありつつも、やってみるとなかなか楽しい作業だった。前世から凝り性の私は、今日の放課後も図書室に籠って、回復薬作りに役立ちそうな本を探していたのだ。
「……ディアの作る回復薬は、もう上級どころか特上レベルだと思うよ」
やり手のお兄様のお蔭で、私の薬はかなりの高値で取り引きされているようだ。私の手元にも、もう相当の額が入ってきている。でも、それは私の力というよりも、商売に長けたお兄様の辣腕の賜物だと、そう私は信じている。
「ふふ。お世辞を言ってくださっても何も出ませんよ、お兄様」
お兄様から本を返してもらうと、私は足取り軽く自室に戻った。急いで濡れた服を着替え、ガラスのフラスコに聖水を移す。図書室で借りた本を参考に回復魔法を唱えると、いい具合に聖水がきらきらとした光を帯びた。
「うん。いい感じ……くしゅん」
水をかけられて身体が冷えたせいか、悪寒がしてくしゃみが出た。けれど、作ったばかりの回復薬をスプーンですくってひと舐めしたら、すっかり具合が良くなった。
「上出来だわ。回復魔法が使えてよかった……!」
魔法の才能に長けているというのは、なかなか便利だ。悪役令嬢だっていいこともあるものだと思いつつ、私は上機嫌で、鼻歌を口ずさみながら回復薬作りに励んだ。
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