様々な場における猫ども
一
猫カフェの中で、血統書付きの綺麗な猫のいるところは、自分で勝手に「高級店」と定義している。猫たちは何もしなくても美味しいエサがもらえるし、客におやつをもらえるし、遊んでもらえるし、客がいなくても猫どうしの間で遊び回ることができる。ここにいる猫たちは最も身分の高いものたちであり、日本の山の標高に例えると3000m付近の超高位置に位置する。人間界で例えると、タワマンの高層階に住んでいる。元素の世界で例えると、金銀プラチナパラジウムといった貴金属の部類に入る。
簡単に触れることができ、抵抗も見せない。可愛らしさMAXで、客を笑顔にさせてくれる。自分もその一人だ。
二
10年以上昔、三毛猫を飼っていた。その当時、私はクソガキで、猫を乱暴に抱っこしたり、高いところに乗せて怖がらせて(そのつもりはなかったが)親に怒られたりした。それでも真冬には、夜中にニャーニャーと耳元で鳴き、私の布団の中に入れろとせがみ、見事に布団の中で暖を取ることに成功し、ぼてっとだらしなく寝そべっていた。こちらも暖かくなるので「逃すまい」という気持ちになったものだ。しかし、5時に必ず「カンカン」と金属音が鳴る。祖母が猫缶を与える、その合図である。それまでぐっすり眠っていたであろう三毛猫は、音を聞くや否やロケットのごとく布団を脱し、私の「湯たんぽ」はあっけなく消失したものだ。それを防ぐために、一度、三毛猫の両耳を塞いだことがあった。猫の聴覚は優れていることは知っていたため、どうせ音を聞き取って脱走すると諦めていた。しかし、三毛猫は寝たままだったので、私は勝利の優越感に浸ることができた。ただし、耳を塞いだのはただ1回だけである。「かわいそう」、「動物虐待をする罪悪感」、とかいう気持ちではなかった。子供のころのことだから正確に覚えていないが、自分の性格から推察するに、面倒臭かったのだと思う。この三毛猫の身分は中の中である。日本の山の標高に例えると1000mいくかいかないかの山、人間界に例えると、地方都市のベッドタウンの一軒家に住む普通の人、元素で例えると鉄やアルミニウム、シリコン、カルシウムといった一般的なものだ。
簡単に触れるし、簡単に抱っこできるし、簡単に頭を叩いたこともある。クソガキがやりそうなことである。悪く言えば、親しくなりすぎて礼儀を忘れる関係。良く言えば、なんにも気を遣わないでいられる唯一の関係。今は亡き三毛猫だが、「死んだ」「もういない」という事実に対して悲しさを抱くことはほとんどない。「いつでも会える」という言葉はお涙頂戴の浅ましいドラマにありがちなセリフだが、まさに「いつでも会える」という感覚がピッタリで、死して尚なんにも気を遣わない関係が、私の中で勝手に継続されている。悲しさはなく、嬉しさと楽しさがある。
三
夜の港には、猫が出没する。特に、大きな漁港で夜釣りをやっている時だ。そういうところは夜でもライトが煌々としていて、巨大な漁船が放つ強烈な光もあり、あたかも夕方の中にいる感覚である。夜なのに光はある、という活性状態において、野良猫が獲物を狙わないわけがない。もちろん獲物とは、釣り上げた魚である。野郎どもは私の釣ったアジ、イワシ、サバ、メバルなどを狙っているのだ。先日も、足元にぼとっと落ちたアジを拾うためにかがんだ瞬間、いきなり泥棒猫が光の速さでそれをくわえ、あっけに取られて茫然と立ち尽くす私を尻目に、獲物を持ってどこかへ行った。1年前には、釣ったメバルをビニール袋に入れて地面に置いていたのだが、ちょっと離れた隙に泥棒猫がそれをくわえていた。そのとき偶然目が向いたから良かったものの、何もしなければメバルはヤツに横取りされただろう。ヤツは人間より遥かに優れた運動神経をして走り去ったが、私も諦めるわけにはいかなかった。美味しいメバルをあんな泥棒猫に奪われるわけにはいかない、そう思った私は自然とヤツを追いかけた。メバルが重かったのか、ネコはくわえていたそれを捨てて逃げ去った。どうにか私の獲物を横取りされずに済んだのである。
野良猫に釣った魚を泥棒されるのはもちろんだが、わざと与えるのも良くない。というのも、魚の表面には塩水が付いているし、青魚は猫にとって体に良いものではないらしい。野良猫の寿命が4,5年と聞くが、明らかに食べ物が関係しているに違いない。私は、泥棒防止と猫の長寿を考えて、わざわざペットショップで1,700円程度する餌を購入し、百均で売っていた白い器に少量入れて、与えている。餌やりが違法ではないものの問題となっていることを知っていたため、わざわざ港のある町の役場に問い合わせ、ペットショップの従業員に相談した。答えはつまらないもので、「別にいいと思います」「あなたの責任で」という、現代人の面白みのない生活実態を反映したような返答だった。
問題は距離である。餌の入った器を泥棒猫の座っている方向に持って行ってはならない。人間を敵視しているヤツらは、必ず逃げ去るからだ。まあ、後から戻ってきて食べるだろうが、それは嫌である。逃げられるのが嫌なので、私は、泥棒猫からやや離れた、「
釣り場のネコを見て「かわいい」だの、釣った魚を放り投げて与えるだの、そんな雑なことしかできない人間にはなりたくない。それは私の抱く気持ちではないし、命というものについて思考する人間が行う行為でもない。保護猫1匹でも飼ってみたいと心が疼いたときもあったが、お金もなければ飼育の面倒くささを感じている自覚もあって、命を預かる資格など全くない。そもそも猫が人間に支配される義務もないし、猫と人間の間の上下関係は可逆的に変化するものだ。この世の中にはかわいい猫もいるしそうでない猫もいる。美味しくて健康的な餌を食べることが普通の、のうのうと暮らせる猫もいれば、魚やネズミや虫ケラで満足しなければならない、生きるのに必死な猫もいる。
四
猫の多頭飼育の問題、住宅地での猫への餌やりの問題、ペットショップで猫を売ること自体に対する問題、など。
猫を何と見るのかが問題である。猫=愛玩動物と見る場合、即座に猫=玩具と置き換わる。この絶望的な事実に気づかないか、あるいは目を逸らす輩が多すぎる。「かわいい」という言葉を平気で使えるあなたは、きっと猫を愛玩動物として見ている。それは危険な一面を孕んでいるだろう。「かわいい」という言葉は、人形にも、芸術品にも、日用品の装飾にも使える。生物/無生物の如何を問わず使用可能な言葉を安易に使うと、猫が生きていることを忘却する可能性が高まる場合があると思う。猫を物と見なす立場に立てば、増えすぎた猫を効率的に次々と殺しても良い。不要になった人形や割れたコップが廃棄可能であるように、使い終わった玩具である猫も廃棄すればいい、と、そういうことになる。そういうことを理解できないで猫を捨てる輩は、決まって「かわいそう」「いい人に見つけてもらいな」「わたしには飼えないの、経済的な面で余裕がないの」と言い訳をする。それらの感情は、「猫は生き物だなんて、子供でも知っている常識よ。当然、わたくしだって猫を生き物として見ているに決まっているわ。何か問題でも?」という偉そうな態度が、「悲しみ」という化けの皮をかぶって表に出た状態である。「かわいそう」は猫を見下しているし、前提として猫を支配しているゆえに出る言葉だ。「いい人に見つけてもらいな」は猫を物々交換できる対象として認知している証だ。「経済的な面でわたしには飼う余裕がない」という言葉には、命とカネは等価交換可能であるという致命的な幻想に依拠した資本主義の成れの果てが見て取れる。この発想こそ、現代の人間たちがカネに支配されていて、人員カットや恋愛における害悪な損得勘定が蔓延し、「それで仕方ない」と投げ捨てる、資本主義社会構造全体をなす根幹部分に埋め込まれた時限爆弾である。なぜ時限爆弾かというと、カネと命は交換できないに決まっているからである。もっと言えば、命と交換できるものが何なのか人類は未だ知らないはずだからである。それをごまかし続けられるのは、どのくらいの期間なのだろうか。
まとめ
猫は物ではない。生き物である。人間が生き物を見るとき、そこには「命」が宿るべき場合がある。ゴキブリには「命」など宿るまい。しかし猫はどうだろうか。大多数の人には、特に現代の若者や中年は、「命」が宿るのではないだろうか。無論私も猫には命が宿っているものだという大前提の思想がある。猫の命と真剣に向き合い、真剣に考えることを、これからも続けていきたい。そんなこともできない輩は、人間の命のことを考えるには100年早いと思う。
また、「命」には差があると考えている。もし地震で倒壊した塀の下敷きになっている「私の飼い猫」と「知らない人」の二者が同時に目に入れば、迷わず前者を助けて安全な場所まで避難する。「知らない人」のことは、私はそのまま知らないで放置するだろう。「人間の命が最優先」という固い常識は、「命には差がある」という個人的思想によって脆く儚く破壊されうるものと考える。
猫との関係 島尾 @shimaoshimao
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