第2話

 学校と塾とバイト。生活のメインは変わらないはずなのに、それまで何をそんなに忙しくしていたんだろう。ハルカさんが休止してから、僕の生活はずっと暇な気がした。

 せめて自分の気持ちに見合うくらい深刻なことが自分の身にも起こってほしかったのに、日常は僕に構わず平和に進んでいた。

 心配しているとか、待っているとか、一抹の望みを託してLINEに送ってみようかと一瞬考えたけれど、そしてそれが本来の使い方なのだけれど、今さらそうは送れなかった。きっと届かないのだという無力感を自分に突きつけるだけでしかなかった。

 今考えていることを書く気にはもっとなれなかった。トーク画面は開かないまま画面の下の方に流れていった。


 あっという間に制服が夏服になって、私服はTシャツ一枚で過ごすようになった。

 ハルカさんがいないだけでライブに行かないのも不誠実だと思い、voyageのライブには一度だけ行った。結局楽しいより虚しくなってしまってだめだった。松田さんが僕を心配、というか憐れんで、チェキ券一枚いる? とまで言ってくれたけど感謝して断った。

「活動してればこういうこともあるよ。休んだらちゃんと戻ってくるって事務所が言ってるんだから、あんま深読みしすぎない方がいいよ」

 背中を叩かれてそう言われ、出てきた返事が自分でも笑ってしまうくらい弱々しい声だった。またね、と松田さんが言ってくれる。

 ライブハウスを出ると外は蒸し暑い夜だった。グリーンのTシャツをひと夏着倒す想像をしていたちょっと前の自分が、何も知らないバカに思えた。


 三人体制のvoyageだって嫌いにはなれなかった。パワーのみなぎったライブは三人でも充分に見応えがあった。

 そんな中にいたライブのハルカさんを思う。

 本気のハルカさん。

 帰宅部で、ほとほどにバイトして、音楽を聴くのはちょっと好きだったけど、何にも本気になったことのなかった僕に、何かを本気でやるってこういうことだと全身で見せつけてきた。

 ああやって振り切って動きまくるのは、アイドルに限らず誰にでもできることじゃない。ライブのために体を投げ打つことができる人だ。ライブで生きなきゃいけない人だ。

 ライブ後のハルカさんのことも思う。チェキ会のハルカさんを。彼女は頬の高いところに小さなほくろがあって、チェキ会くらい近くで笑うのを見た時にだけ、それが目立って見える。その時の僕は特別なものを見てしまった気分だった。でも今は、そんな人間らしいところなんて知らなくて良かった。彼女が普通の人間で、本当は普通の女の子で、傷ついたり弱ったりすることもある人間だなんて考えたくなかった。ずっとライブが本当の姿なのだと、チェキ会やそれ以外の姿なんておまけみたいなものだと勝手に思っていたかった。


 voyageにメンバー個人のSNSアカウントはない。公式アカウントにメンバーからの投稿もあるが、プロフィール欄には「スタッフが管理しています」とある。投稿するのは主にアリナとミオ、次にユウ、ハルカさんはほんのたまにだけ。その頻度まで「スタッフが管理」はしないだろうけど、そういうアイドルらしいファンサービスが得意なのはアリナとミオの二人なのだ。愛嬌の赤黄色、パフォーマンスの青緑、なんて言われる。心配かけてごめんねなんて投稿を休止中のハルカさんがするとは思えない。


 休止以降、僕は界隈のSNSをなるべく見ないようにしていた。たくさんあるはずの応援の言葉より、余計な雑談と憶測ばかりが悪目立ちして僕の目に入った。

「特攻隊長ついに爆死?」「ぶっちゃけセンターアリナで三人のがバランス良くねw」「これを機にハルカもアイドルらしくなるべき」「無理してあのキャラ作ってたんじゃないのかな~」

 正統派アイドルを求める人たちと、ハルカさんのアイドルらしくない部分を評価する人たちの間で、元からあった意見の対立が過熱しているらしかった。

 あんなのはアイドルじゃないという意見。だからいいという意見。それがハルカさんファンとそれ以外、という構図ならまだわかりやすいものの、ファンの中でも「あれはやりすぎ」と言う人もいたし、ハルカさん個人を特別応援しているわけではないけれどvoyageには彼女が必要だ、と言う人もいた。彼女のパフォーマンスは嫌いな人には痛々しい破天荒キャラに見え、好きな人にはのびのびとした自由さに見えるらしかった。

 それは薄暗いライブハウスのざわめきみたいだった。近くにいるけど顔のよく見えない人たちが、手を伸ばせば届くような近さのステージを前にして、好き勝手なことを言っているようだった。松田さんみたいにメンバーみんな好き、という応援のしかたをする人ばかりではない。僕だって、ハルカさんが一番かっこいいだろなんでわかんないんだよ、という気持ちがある時点で他の人たちと同じなのだった。

 voyageは地下アイドルの中ではそこそこの集客を得ており、けれどアイドルの世界全体ではまだまだ小さいものだった。もっと売れるためにはハルカさんの個性が必要と言う人と、地下アイドルだから許されているのだと言う人がいた。

 雰囲気だけでハルカさんは純粋に歌やダンスが上手いわけじゃないという意見もあれば、その雰囲気も含めての上手さなのだという意見もあった。

 ハルカのパフォーマンスが好きならアイドルじゃなくてもいいだろという意見があり、普通のアイドルが好きならvoyageじゃなくてもいいだろ、という意見があった。

 自分が何を好きで何を信じていたいのか、しばしばわからなくなって嫌になった。ただ一つの正解なんてあるはずがないのだから、考えるだけ疲弊した。ハルカさん本人が見ないことを願った。それを見るのはステージ上のハルカさんではなく、穏やかな人間らしい彼女だと思うと辛かった。


 塾もバイトもない日、取り残されたように放課後の廊下を歩いていると、ぷらぷらと教室から出てきた人間と目が合った。

「あれぇ、渡辺」

 相手が僕を見て言った。

「おー、山本」

 僕が返した。一年の時に同じクラスだった山本だ。僕と同じく部活をやっていなくて、音楽を好きな奴で、僕もvoyageにハマる前は割といろんな音楽を聴く方だったからクラスで結構話をしていた。

「暇なら購買行かない?」

 山本は僕を誘うと返事も聞かずに購買に向かった。暇な僕も後に続く。一年の時と変わらず、彼は首にヘッドホンを下げている。最初はそれが音楽好きのキャラ付けみたいに思えてちょっと失笑していたけど、アイドルを見ているとそういうことをあほらしいとも思わなくなっていた。

 二人で購買の紙パックのカフェオレを買い、中庭のベンチに座った。曇り空が真っ白で眩しく、外はムッとする気温だった。グラウンドの運動部の声が遠くに聞こえる。

「最近何してんの」

「バイトばっか」

「あー俺も」

 訊ねておいて山本は特に僕の近況に興味を持たず、これ最近聴いているやつ、とスマホから音楽を流し始めた。へえ、とだけ返事をして僕も耳を傾ける。なんてバンド? と聞くと、つまらなさそうに解説してくれた。好きなものを勝手に聴かせてくるけど無理に勧めてはこないところが、気楽で付き合いやすい奴だった。voyageのことは隠してもいないけど、言いもしなかった。

 山本は自分で音楽を流しておいて退屈そうにあくびをする。グラウンドの声が遠くの方から届く。静かな中庭にスマホのスピーカーの音が響く。

 二人ともいろんなものを持て余しているな、と思った。時間とか。何かを好きな気持ちとか。

 聞こえてくる運動部の声が暑苦しかった。


 ベッドに寝転んで音楽をかけていると、スピーカーからの音は上から降りそそぐように聞こえてくる。別に山本に触発されてというわけではないけど、久々にvoyage以外のいろんな音楽を聴いている。以前好きだった音楽を久々に聴いてみたら、今だってやっぱり好きだった。

 バンドでもシンガーでもアイドルでも何でも、好きな音楽を聴いていると頭の中がそれでひたひたに満たされて、体全部が包まれていく感覚になる。それだけで心強かった。誰かに勝てる強さではないけど確かな心強さだった。

 そしてやっぱり、僕はvoyageが好きでハルカさんの作る世界が好きだと思った。どこがどう好きとかじゃなくて、ただ好きだと思った。ライブでハルカさんが歌い、それを見て僕がかっこいいと、そう思っただけじゃないか。正しいかどうか、必要かどうか、解釈するのも評価するのも全部その後だ。自分が好きだと思ったことが、何より確かなことじゃないかと思った。それを誰かに揺らがされてたまるかと思った。

 じっとしていられなくなり、飛び起きてスマホを掴んだ。トーク画面を開き、今考えたことを言葉にならないまま書いていった。誰に読まれなくなって、僕が書いたということも確かなことだなと思った。

 書いて、送信してしまった。

 指が触れてしまったのではない。ちゃんと間違いなく送信ボタンを押した。文字は僕の手を離れ、送信済みの画面になった。

 そうしてみると頭がすっきりしていた。簡単なことだったと思った。そこに既読がつくだろうかと、全然考えなかった。


 期間としては長くもあり短くもあった休止だった。公式から大朗報の「お知らせ」。

 メンバー、ハルカは…来月二十六日のライブより活動を再開…今後とも四人のvoyageを…

 今度は気が急いて飛び飛びでしか読めなかった。

 よし。よしっ! っしゃ!

 バンザーイなんて喜び方はできずにとにかく深く安心していた。再開、の文字を何度も目に焼き付ける。再開だし、再会だ。今すぐ走り出せそうな気持ちなのに、ふらふらとその場に座りこみそうにもなった。


 三人体制でも四人体制でも、会場にはやっぱりレッドとイエローのTシャツが多い。僕はグリーンのペンライトを握る。

「復帰おめでとー」

 顔を合わせた松田さんが僕に言う。へへ、と変な照れ笑いが出た。別に僕がおめでたいわけじゃないですよと答えたけれど、確かに言われたい言葉があるとすればそれだった。自分のことのように喜ぶ、って言葉があるように、僕のことのように祝ってくれる人がいるのはありがたいことだった。お祝いにチェキ券一枚ください、と言ってみたらやだよと断られたけど。

「俺も今日はハルカと撮るつもり」

「僕とスリーショットにします?」

「最悪じゃん。ぜってーやだ」

 松田さんも三人体制の時より楽しそうに見えた。松田さんは、ハルカさんのことはどういうふうに見ているんだろうなとふと思う。後で聞いてみようかな。客観的な意見をくれるかもしれない。

 会場の照明がすうっと落ちて、ざわめきが静まった。

 ステージの奥から強く照明が照らされた。メンバーが一人一人、逆光の中をシルエットになって登場した。長いツインテールをゆらめかせるあの影はアリナ。それより頭半分くらい背が低い影はミオ、すっと背筋を伸ばしてステージを歩くボブカットのユウ。

 そして、ステージには四人が揃う。登場したハルカさんは、一度立ち止まり逆光のままこちらに手を振った。観客が弾けるようにペンライトの光を振った。ハルカさんが笑ったかどうかは見えなかった。

 奇襲攻撃みたいに曲が始まった。

 これを待っていたのだと僕は思った。部屋で何度も聴いていたハルカさんの声が、僕の中に直接流れ込んだ。その声を発する生身の体がすぐそこにあることにぞくぞくしていた。ハルカさんは最初からフルスロットルだった。ステージ全部の空気を巻き込んで、全部を自分のものにしようとしているみたいだった。

「心配した?」

 数曲終わってMCになった時、めずらしく始めにハルカさんが口をひらいた。既に汗をかいたおでこに前髪が貼りついているのが見えた。グリーンのペンライトを持った観客は、一瞬息を飲んで歓声をあげた。他の三人は心得ていたようで、それぞれ自分の立ち位置にいて何も口を挟まず、目が合った観客にちょっと微笑んだりした。

「変な憶測とかネットニュースに惑わされないで」

 やっぱハルカさんだと思ったのは、語りかけるというよりは、煽っているような口調だったからだ。グリーンのペンライトの観客が光を振って答えた。待ってたよ! とか、大丈夫! と誰かが叫ぶのも聞こえた。ハルカさんはそれに嬉しそうに微笑んで、なんてことは全くせずにフル無視で続けた。

「だってネットニュース見て私のこと好きになった人いる? 嫌いなのに今日ここに来た人いる? ライブが好きだから今日来たんでしょ?」

 声に熱が帯びた。煽り立てているとわかった観客から歓声があげられた。いつものメンバー紹介とお決まりのコール&レスポンスもなく次の曲にいくらしかった。

「私はライブが好きでここに立っています。ライブが好きってことより確かなことはありません。みんなそうでしょ? ライブ見に来てくれたんでしょ? まだまだもっといけるよね?」

 歓声の中で曲が始まった。

 彼女の視界をグリーンで埋め尽くしてやろうと、僕はペンライトを振りまくった。飛び交うペンライトの光に彩られながら、ハルカさんは一人一人を見据えているようにも、もっと遠いところを見ているようにも思えた。

 ペンライトはどの色も淡く光って輪郭がなく、ぼんやりと滲んでひと固まりに見えた。夜に見る遠くの賑やかな夜景に似ていた。見えるものと聞こえるものを感じ取ることで僕は精一杯だった。照明に照らされグリーンの衣装を着てマイクを握ったハルカさんがライブをする。それを見た僕が叫ぶ。もうそれしかわからなかったし、それ以外どうでも良かった。

 自分の好きなものを直接、つまり誰かの手を介して伝えられたものではなく、自分で直接見て聴けることは幸せなことだと思った。

 これが終わったらトーク画面は消そう、と思った。読まれたかどうかなんて知らなくていいと思った。もっと確かなことは目の前にあり、自分の中にあった。

 もう書かなくていいなと思った。全部忘れたくなくて書いていたけど、忘れてしまうこともその思い出の一部だと思った。今感じていることがこうして自分の中にあって、それが少しずつ風化していって、そうして何かをすごく好きですごく楽しかったってことだけがずっと先に残ればいい。そういうのを何回でも繰り返そう。薄く何重にも重ねていこうと思った。

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ペンライトの遥かな光 芳岡 海 @miyamakanan

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