第5話

 いつの間に眠ってしまったのだろう――と思ったが、こんな会話があったことは覚えている。


「ベッドまで運びましょうか?」

「階段を踏み外して死にかねないですから」


「でも、もう眠ってしまいそうですよ。オレンジジュースを飲んだからですかね」

「カフェオレにしておけば、よかったですわ。このままだと、飲みかけのオレンジジュースをベロベロ舐められても、気付かない……こわいですわ」


「そんなことしませんから」

「あなたはヘンタイ。あなたはドヘンタイ。ここで眠ったら……」


「じゃあ、お嬢様はここで寝てください。ぼくは、下のソファーを借りるので」

「もう、無理ですわ……おやすみなさい」

「ちょっ、ちょっと! お嬢様!」


 ――あれ? じゃあ、なんでぼくまで一緒に寝てるの? どういういきさつ?


     *     *     *


「ねえ、あのとき、なんで一緒に寝たんだっけ?」


 椅子を回転させると、ソファーの上で寝転んで、ファッション誌を読んでいる杏華きょうかがいる。


「あのときってなんですの? なんでもかんでも、ひとと思考を共有できると思っているんですの?」


 ぼくが「あのとき」のことを説明すると、杏華の顔はみるみる赤くなっていった。


「あのときはっ! 陽くんがっ! わたくしを抱きしめて寝てたから、観念してそのまま眠ってしまったんですのっ!」

「えっ? そうだっけ? じゃあ、ぼくたちの初めてって――」

「違うっ! ただ一緒に寝ただけっ!」


 ああ……なんとなく思いだしてきた。寝る前にオレンジジュースを飲むのは健康に悪そう――みたいな理由から、ぼくが飲むことになったんだった。


 うーん……でも、ほんとうにそうだっただろうか?


 まあ、ここは後で書くことにして、もう夕方だし、夜ごはんの準備をしよう。


「昨日言った通り、ハンバーグでいいよね?」

「チーズ・イン、を忘れないでくださいまし」


「はいはい」

「それって……赤ちゃんプレイをしたいっていうシグナルですの?」


「なんでそうなるの?」

「だって……急に『あのとき』の話をしはじめましたし……」


「ええと、暇だから、『あの日』のことを小説――というより自叙伝なのかな?……にしてたんだよ」

「えっ!」


 バッと起きあがった杏華は、ソファーからこちらをキッとにらむ。


「ネタが尽きたからって、わたくしをヒロインにしたエッチな小説を書こうとしているんですの? いくらわたくしが魅力的だからといって、それを公衆に流布させようと目論もくろむなんて……」

「違う、違う。もう仕事が片付いたから、文章の練習がてら、『あの日』のことを小説にして書いてただけだよ」


「……どこにも出さないでくださいまし」

「分かってるよ。ぼくたちだけの想い出にしておきたいからね」

「ななななななっ! そういうのはいいですからっ!」


 フライパンの上で、子ども用のような小さなハンバーグがふたつ、熱をたくわえはじめている。


「いまのうちに言っておきますわよ。明日はお寿司、明後日はステーキ、明明後日しあさってはパスタが夜ごはんですからね?」

「覚えてるよ。でも……野菜もたくさん食べなさい。あと焼き魚とかも……骨が取れないとか言ってちゃダメだよ。だから明明後日しあさっては、やっぱりさばにするからね」


「いや」

「いやじゃない」


 杏華のわがままは、いつまでもなおりそうもないけれど、もし将来、子どもが生まれたとしたら、もう少し「我慢」を覚えてほしいな――難しそうだけど。


「明日、穴子を食べますわ。みっつくらい」

「あれは、焼いているんじゃなくて、炙っているんだよ」


 杏華は、ぼくから顔をそむける。「ぷいっ」という擬音が、よく似合う。

「じゃあ、明日焼き魚にすればいいじゃありませんの?」


 ハンバーグをひとつずつひっくり返す。杏華が納得してくれる焼き目だ。


「明日は、お寿司じゃないとダメなんだよ」

「どうしてですの?――って、言うまでもないですわね」


「うん。ぼくたちにとって大事な日だからね」

「来年も、再来年も、お寿司で決まりですわね。ごはんを作り終わったら、手帳に書いておきなさい」


「ずっと覚えてるから大丈夫だよ」

「ほんとうかしら?」


 覚えているに決まっているじゃないか。


     *     *     *


 ボコボコにされた後、感情まかせに言ったあの「告白」が、真に受けられてしまったのだ――というと、ちょっと語弊があるかもしれない。


 ぼくたちは、眠りからさめて、静かな朝の優しい朝陽を浴びながら、こんな会話をしたのだ。


「もう一度、わたくしの目を見て告白をしてくれたら……考えてあげなくもないですわ」

「じゃあ、言いますね。だからお嬢様、決して顔をそらさないでくださいね」


「分かりましたわ」

 お嬢様は、じっとこちらを見つめる。目を合わせてくる。


「ぼくは、お嬢様のことが大好きです。できることなら、結婚して、幸せな家庭を築きたいくらいに。だから、ぼくと付き合ってくださいませんか?」

「そんなにストレートに言われると……」


「真っ赤ですよ?」

「朝陽のせいですわ。あなただって、顔が赤いですわよ」


「ぼくは、朝陽のせいではないですよ」

「ずるいですわ、そういうの……でも、いまは、告白を受け入れることはできませんが、もし、その気持ちが、わたくしが結婚できるようになったときにも変わらないのなら……喜んで、お受けしますわ」


「大好きです、お嬢様」

「もう言わなくていいですっ!」


「せっかくですから、何度でも言わせてください。大好きですよ、お嬢様」

「わたくしも……わたくしも、気付いたら好きになっていましたわ……って、抱きしめないで――もう……しかたないですわね。いまだけですわよ、いまだけ……」


     *     *     *


 大好きなひとに告白をした日は――そのきっかけとなった前日は、ぼくたちにとって特別な日なのだ。


 ナイフをいれるとあふれでてくるチーズを上品にすくいとって、一口サイズのハンバーグに乗せて食べる。「おいしいですわ」と言って、杏華は笑った。

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一本炙り穴子ひと皿 紫鳥コウ @Smilitary

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