第4話
新幹線から在来線に乗り継ぐ方が、圧倒的に早いのに、車で6時間もかけてきたのは、お嬢様の願望だから――だと、ご主人様からは承っている。
「ご苦労様。大変な目にあったね」
二人掛けのソファーに深く腰を下ろしているご主人様は、応急手当をした跡があるぼくを前にして、気の毒そうな顔を見せていた。
「事情は聞いたけれど、おおかた、
「お嬢様は、そう仰っていましたか?」
「いや、本人は言わないけれど、そういう性格というか、なんというかね。向こう見ずなところがあるからね、あの子は」
そこがかわいいんですけどね――と言いたくなる。
親父いわく「憎しみあいながら愛しあう関係が一番長続きする」らしいが、それを聞いての第一印象は、「えっ、親父って母さんのこと憎んでるの?」だった。
でも、お嬢様の運転手をしはじめてから、この言葉の意味がなんとなく分かるようになった。
憎しみもし、愛しもするというのは、ようは心情のバランスが丁度よいのだ。どちらかに極端に振れないからこそ、関係性は「平熱」の健康体でいられるのだ。
だから、ぼくとお嬢様は、長続きする関係になれると思うのだけれど、ぼくは親父の代打のバイトのような立ち位置だし、
一夏の青春――という感じがする。
「何時間も運転をして疲れただろう。今日はもう上がりなさい。屋根裏部屋に、ふとんが敷いてあるから」
屋根裏部屋……? 絶対に狭いでしょ? そんなところに押し込むの?
――と思っていたのだが、三角柱を横にしたような部屋ではあるけれど、天井は高いし、でんぐり返しができる広さがあるし、側面には窓がついていて、月明かりに照らされた海が、しっかりと見える。
だからたぶん、朝陽も思いっきり差し込んでくるだろうから、否が応でも早起きさせられることだろう。
シーツも掛け布団も、清潔でさわり心地が良い。すぐにでも眠りに落ちそうだ。半月も優しくぼくを見守ってくれている。
(ぼくもそうだけど、お嬢様も、悪い夢を見るかもしれないな)
どうせなら、ふたりで愛し合う夢でも見れないものかね。
「あなたが夢にでてきましたわよ。血の池に溺れていていい気味でしたわ」
「ぼくも見ました……お嬢様が(血の池で)ひいひい言っている夢を」
「なっ、ななっ――なにを言ってますの? セクハラですわよ!」
「えっ?」
「この色好み! 破廉恥! 勘違い男! 八大十六小地獄に頭から墜ちなさい!」
「お嬢様!」
「……なんですの?」
「たとえ地獄の底で喘ぎ苦しもうとも、永遠の愛を誓います。ぼくと――」
「そんなっ……突然に……って――急に抱きしめて……もう」
「お嬢様。顔をそらさないでください」
「恥ずかしいわ……」
「そのお顔を見せてください」
「まだ、準備が……」
――おい! なんだよこの妄想! 眠れなくなっただろ!
と、叶わぬ恋をこじらせたときにしがちな妄想を繰り広げたのち、なんとか眠ろうとふとんのなかでもじもじしていたのだが、だれかが
たぶん、お嬢様だろう。苦労して昇っているのだとアピールしている。「手を差しだしなさい」という命令が聞こえてくるようだ。起き上がり、手を差しのばして、残り二段のところで、ぐっと引きあげた。
「どうなさいました? 夜這いしにきてくれたんですか?」
「そんなわけないでしょう。自分をかいかぶりすぎです。あなたに夜這いにくるのは、死神か悪魔か、逃れられない悲惨な宿命だけですわ」
「どうぞこちらへ」
でんぐり返しができるくらいに広い部屋ではあるのだけれど、ソファーも椅子もない。座る場所といえば地べたくらいだけれど、木の床は冷たくなっているし、ふとんの上が一番温かい。
「絶対に、押し倒さないでくださいまし。もし、わたくしの身体に触れたら、大声を上げますから」
月明かりのおかげで、お嬢様の顔がはっきりと見える。身体に触れたら……と言うけれど、お嬢様の方から距離を詰めてくる。運転席と助手席の距離よりずっと近くまで。
「どうされたんです? こんな深夜に」
「怪我は……痛みますよね?」
「痛まないと思うんですか?」
「そういう返し、嫌いです」
「ぼくもそうです。とくにお嬢様には言いたくありません」
「でも、言ってますわよね……」
お嬢様は、海ではなく砂浜を――というより窓枠を見ているのだと思う。それくらい、うつむいている。
「抱きしめていいです?」
「なんでいいと思ったんですの?」
「手を握っていいですか?」
「だから、なんでいいと思っているんですの?」
ぼくから少し離れていくお嬢様。
「殴られすぎて、ヘンタイ度が上がったのかしらね」
辺りが静かになるたびに、海のさざめきが、かすかに聞こえてくる。ぼくたちの目の前にあるこの海は、水平線のところで行き止まりになっているかのように見える。ぼくたちだけの海に思えてしまう。
「あっ、そうだ」
部屋の隅の方へと手を伸ばすと、すんでの所でリュックがこちら側へと倒れた。そして、果汁百パーセントのオレンジジュースが、こちらへ転がってきた。パックのカフェオレだけは、自分の手で取るしかなかった。
「どっちを飲みますか?」
オレンジジュースとカフェオレをお嬢様に差しだす。
「忘れていましたわ」
「飲みたいって言われたから買ったのですが……」
「違いますわ」
お嬢様は、掛け布団がかかった足首を見つめている。
「お礼を言うのを……忘れていましたわ」
「そうでしたっけ?」
「たしか、きっと……忘れていましたわ」
ボコボコにされたことと、お嬢様にむちゃくちゃなことを言ったことしか、記憶にない。
「ありがとう」
ぼくの方に身体を向けて、はっきりと素直にお嬢様は言った。
「どういたしまして」
お嬢様の手は冷たくなっていた。その手を、ふとんのなかに埋めた。そして手放した。しかしお嬢様は、ぼくの手首をにぎった。その小さな手を、ぼくの手の甲へと滑らせていき、ぴったりと手をかさねてきた。
お嬢様と繋いだ手は、ふとんのなかに隠れている。右手から伝わってくる「幸せ」の温度が、しっかりと感じられる。
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