第3話

 山道を抜けて市中へ入る手前で、コンビニを見つけた。


 お嬢様はなにを飲みます?――なんて聞かずに、勝手にコンビニの駐車場へと入っていく。


「……果汁百パーセントのなにかをよろしく」

「承知致しました」


「あたなの頭脳じゃ、百パーセントの意味を解するのは難しいでしょうから、カフェオレでもかまいませんけど」

「承知致しました」


 オレンジジュースとカフェオレを買って車に戻ってみると、車の周りにやからが群がっていた。お嬢様がふるえているのが、夜目よめにも分かる。


 お金がほしいのなら、この小銭だらけになった財布を、思いっきり横顔にぶつけてやってもいいんだけど。


「お邪魔ですので、どいてもらえませんかね?」

「おっ、このの連れか? 軟弱な身体してんな。じゃ、ここからは、運転手交代といこうか。あばよ」


 けっこううまいこと言う奴だなと思ったが、その右ストレートはあまり痛くなかった。たぶん、明日には腫れているだろうけど。


 決して手を上げてはならない。紳士であれ。

 親父からはそう言いつけられている。


「お邪魔ですので、どいてもらえませんかね?」

「なんだこいつ。サンドバッグにしていいタイプか?」


 この世にそんな「タイプ」の人間はいない。

 ぼくは「殴られるままにいて、相手の同情を引き出し、『もう行こうぜ、こいつ気味悪いから』と言わせるタイプ」の運転手代理だ。


 ――で、輩たちは「もう行こうぜ、こいつゾンビみたいで気味がわりい」と捨て台詞を残して、夜闇に消えていった。


 ずっと助手席で泣いているお嬢様。


「ねんねんころりん――とか歌ってあげましょうか」

 軽口を言っても、泣きじゃくっている。


「ぼくの弟の夢を高らかにうたいあげましょうか?」

 泣きやまない。


「オリジナルの民謡をうたいましょうか」

 泣きやまない。


 夜になっているぶん、さっきので負った怪我がはっきりと見えない。見えてたら、手がつけられないくらい泣いてるよ、きっと。


「オレンジジュースとカフェオレ、どっちを飲みます?」

 ぼくの言葉が聞こえないのだろうか。両手で顔を覆って泣いている。


「よし、お嬢様の父上と母君に『ど叱られ』するかもしれませんが、やけになりますね、ぼく。やけになるというか、この際だから言いますけど、ぼく、お嬢様のことが大好きです。もし、金持ちの家系だったら、お嬢様と結婚したいくらいです。幸せな家庭を築きたい。くそ生意気なところもあるけど、そういうところも子どもらしくてかわいいし、しゃべっていて気を遣いませんし――高校生になに言ってんだよって話しですよね、交番に行きます?――あっ、引き返して廃墟を探索します? もうしりません、お嬢様のことなんて、もうしりません。はい、ぼくは思いの丈をぶちまけました。好きです、好きです、好きです、大好きです! はい、フラれました。さらば、二十代のぼく。残りの五年は、残響し続けるお嬢様の声だけで生きていきます。以上!」

「…………」


「あっ、お嬢様目をつむってください。愛のホテルが見えてきましたので」

「…………」


「夏目漱石の長篇小説でしりとりしましょう。ぼくからですね。『明暗』――はい、終わりです。ぼくって、しりとりが弱いんですよ」

「うるさい、黙って。ほんとうにきらい。どうしたの? 急に饒舌になって、意味の分からないことを言い出して……」


 怒りに震えているのか、泣いたあとの余韻よいんに身震いしているのかは分からない。お嬢様が、どういう表情をしているのかも、うかがい知れない。


「すべてが、ベリーベリーポップ・アンド・グロテスクなんですよ。ぼくは、意味が分からないことを考えるし、饒舌なんですよ。くそ食らえです。常識、倫理、道徳に反するあらゆる悪すべてが」

「そのわりには悪口を言いますわね」


 お嬢様は、泣きながらせせら笑った。


「だから、自分のことが嫌いなんですよ。常識と倫理と道徳のために生きたいのに、ときにはずれてしまう。そう感じるたびに、やけになるんですよ。やけになったら、すべてがどうでもよくなるんです」

「落ち着きはらっていう言葉ではないですわ……もう、あなたまで泣いてしまったら……わたくしは」


「泣いてないですよ。お嬢様を目に入れたら痛かっただけです」

「目に入れても痛くないのではなくて?」


「常識的に考えて、目に入れたら痛いです……月が綺麗ですね」

「接写した月ってこわくありませんこと?」


「文明技術が、口説き文句をひとつ殺しましたね」

「でも……今日の月は綺麗なようです」


「告白してます?」

 少しの沈黙のあと、お嬢様は開きなおったような調子で言う。


「さあ……でも半月のようですから」

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