第肆拾肆話 海のデュエル
低水温期の冬のイシモチは、陸から然して離れてはいない近場の砂泥底に群れを為している。
大洗港付近の海底地形は、比較的〈遠浅〉になっている。遠浅とは、岸辺から沖までの水が浅い状態の事で、遠浅の大洗の海は、岸から〈一海里〉、すなわち、一.八五二キロメートル辺りまでは、水深十五メートル以下と緩やかで、その深さの海が、港から大洗サンビーチの方に向かって湾曲しているのだ。
だが、住吉大社の神使である兎が神通力で操縦している、磯辺愛海を乗せた船が停船しているのは、もう少し沖合、水深三〇メートル前後の地点であった。
船上の愛海が仕掛けに使ったムツ針とは、針の先が軸の方に向かって内側に曲がっている針の事で、こういった形状の針を〈ネムリバリ〉という。たしかに、このネムリバリは、その形状ゆえに、魚の針掛かりはあまりよくはないのだが、その反面、根掛かりがし難く、掛かった魚が針から外れにくい、という特徴がある。
大洗沖への移動中に、愛海は、木製のエサ箱に、『マルキュー』から出ている「グリップパウダー」を振り掛けておいた。グリップパウダーは、石粉と魚粉が配合されている混合粉で、その粉を、愛海は、使うべきエサ全体に絡めた。
粉を使う目的は、ムシエサ特有のヌル付きを抑え、エサを針に取り付け易くする為なので、ただ単に、指先に石粉を付けてイソメを刺す、という方法もある。だが、このグリップパウダーには、滑り止め効果のみならず、集魚効果もあって、釣果アップにも繋がるので、愛海は、この製品を以前から好んで使ってきたのであった。
粉を塗したアオイソメの口の下辺りを、親指と人差し指の腹で押すと、アオイソメが口を開く。その時、イソメの口の中に針を入れ、それを外に刺し抜く。これを〈チョン掛け〉と言って、これだけでも、イシモチ釣りの餌の付け方としては十分なのだが、磯辺家の場合、祖父も父も、さらに、二、三回ほど針先でエサを縫い刺してゆき〈チモト〉にまでエサを通す方法を採っている。ちなみに、〈チ〉とは針の事で、チモトとは〈チ元〉、すなわち、ハリスが結び付けられている針の元の事である。とまれ、このように縫い刺す事によって、簡単に魚に餌をもってかれないようにするのが、磯辺家流の餌の付け方なのだ。
「そんでな、イキがイいアオってメッサ動くから、針に刺す時は、針の方ではなく、エサの方を動かして縫ってゆくのがコツなんやで、ピョン吉」
このように神使の兎に語った後で、愛海は、針から垂れている長いアオイソメを、五から六センチの長さにカットした。イシモチ釣りの場合、チョン掛けをして、イソメは切らないままにする釣り人も多いのだが、指三本の長さで切るのもまた、磯辺家のやり方であった。そして、この磯辺家流の方法で、愛海は、航行中の揺れる船の上で、手際よく、三本の針に活き餌を取り付けていったのである。
「イソメはな、針に付ける時にもメッチャメチャ動くんやけど、海中でも、めっさクヨクヨってするんやで。そやから、ほんま、釣りはイキエしか勝たんで、ギジエとか逃げやろ、知らんけど」
このように愛海は確信を抱いて独り言ちたのである。
「マナミん、なんで、そんなにイソメを垂らし残してるピョン?」
愛海がエサを付けている様子を見ながら、神卯は疑問を抱いたようである。
「えっ! ピョン吉、知らんの? すみよっさんの神使なのに」
「自分、〈無病息災〉が専門なので、専門外の海関連は詳しくないピョンよね」
「まじかよ。しゃぁない、教えたるわ。アオを使う時は、こんな風に針の下のエサの残っとるトコ、ここ〈タラシ〉ゆうんやけど、イシモチを狙う場合には、タラシを長く残すんや」
「なにゆえピョン?」
「それはな、あんなデッカイ口しとるのに、イシモチは、エサを丸のみせえへんのや。エサを口に入れたり吐いたりしながらチョボチョボかじっとるそうなんや。だから、エサを長めにしとくんやで」
「なるほどピョン」
「まあ、針が付いている部分も含めて、一気に丸呑みする場合もあるんやけど、それは偶々や。がっつり釣果をあげるなら、エサは縫い刺し、タラシは指三本っちゅうエサ付けが大事なんや。基礎が大事って、『すらだん』でもゆうとったしな」
「へえピョン」
〈探見力〉の神通力で魚群を確認できた愛海は、仕掛けを落とすや神卯に語り出した。
「そもそもイシモチはな、海底を群れて泳ぎ回っとるのが好きやから、イシモチ釣りは海の底までオモリを落とせば十分なんや。今までは、ジイちゃんの船に乗って、オトンの指示で、水深三〇ぐらいんとこで釣っとったから、ピョン吉が水深が分からんってなった時は、魚群探知もできんって思っとったし、もうツンだぁ~ってなったわ」
「ゴメンゴメン、マナみん。ところで、どうやったら仕掛けが底に着いたって分かるピョン?」
「海の底にオモリが着けば、トンって感覚がするし、それ以上落ちないから簡単に分かるんやで。そんな風に仕掛けが底に着いたら、余った糸を巻き取って、糸をピンとまっすぐにするんや。それとな。イキエは、生きとるから、変に誘いを掛けなくても、海中でウネウネって勝手に動くから、下手に誘おうって思って、変に竿を動かしたりせずに、ただアタリが来るのを待てばええんや。誘うかどうかは、ケースバイケースやけどな。あとな、船って水上でユラユラって動くから、仕掛けが底から離れ過ぎんように、こまめに、オモリが底に着いているかどうか確認する必要があるんやで」
「なるほどピョン」
「で、イシモチが掛かると、ガガガァ~ンって、分かりやすいアタリが竿の先にくるんや」
「ほおピョン」
「でもな、ピョン吉。一回目のアタリが来ても、いきなりリールを巻き上げちゃアカンのや」
「なんでピョン?」
「一回目のアタリがきても、その時点じゃ、イシモチは、チマチマ、アオをかじっとるだけで、まだ〈乗って〉ないかもしれへんからや」
「『のる』?」
「ガッツリと針が掛かっと重くなっとる事や。つまりな、アタリがあったら、落ち着いて、魚が乗っとるのかを確認するために、先ずはちゃんと〈聞〉かなアカンのや」
「『きく』?」
「魚がエサを食っとるのか確かめるために。竿を少し持ち上げて、糸の張り具合を確かめてみるんや。そんで、魚が乗っ取るような重みが感じられたら、そのまま迷わずに竿を煽って、アワセ、つまり、しっかりと魚の口に針を食い込ませるようにするんや」
「もしも、魚が乗ってなかったら、どうすればよいピョン?」
「重さが感じられなかったら、まだ掛かってない証拠やから、その場合は〈送り込む〉んや」
「『おくりこむ』?」
「ちょっと上げた仕掛けを戻す事や。そんで、魚が十分にエサを飲み込むのを待って、次のアタリが来たら〈聞きアワセ〉、これを繰り返すんや」
「なるほどピョン」
「でな、そんでもアカン場合は、一回完全に仕掛けを引き上げるんや」
「なんでピョン?」
「エサだけが、イシモチにカジり取られてる場合もあるんで、定期的で小まめなエサチェックが必要なんやで」
「けっこう忙しい釣りピョンね」
「そのとお……って」
神卯との対話の最中に、愛海の竿の穂先がググッと曲がった。
「いきなり、アタリが来たっ! やっぱ、すみよっさんの力、半端ないわ」
せっかちな愛海は、分かっているのに〈聞き〉忘れて、アワセに失敗し、バラしてしまう事がたびたびあった。だが、この日の愛海は、一度目のアタリがきても、そこで慌てずに〈聞き合わせ〉ができた。
おそらくそれは、直前に、船釣りに詳しくない神使の兎と質疑応答を繰り返した事によって、イシモチ釣りのイロハをを自分でも再確認した事が功を奏したのだろう。
アタリが来た後に〈聞いて〉みようと、愛海は、静かに竿をゆっくりあげてみたが、魚が乗っている感じがしなかったので、聞いて、合わせて、送り出し、といった駆け引きを三度繰り返した後で、竿のしなり、糸の張り、魚が針に完全に掛った重みが感じられた。
「これは、乗ったでぇぇぇ!」
愛海は、慌てずに、電動リールを使って、イシモチを巻き上げていった。
「よっしゃ、まずは一尾目ゲットやでっ!」
だが――
もうすぐ、イシモチが海面に顔を出そうとしたまさにその時であった。
愛海の竿が大きくしなり、仕掛けが海面に引っ張られ出したのだ。
愛海が覗き込んでみると、海の中にイシモチではない動物の姿が見止められた。
「な、なんやっ! い、いったいっ!」
海面に上がってきたのは鳥であった。
その鳥は海に潜って、海底に棲む魚を釣り人が釣り上げるその瞬間を狙って、イシモチを掻っ攫っていったのだ。
魚がよく釣れると言われる日の出の前後一時間の〈朝マズメ〉にして、潮も満潮後の〈下げ潮七分〉という、魚が活性化し、釣果を上げる絶好の時間帯、愛海の竿はアタリを続けたものの、釣り上げるイシモチを狙う海鳥との闘いに、愛海は挑まざるを得なくなってしまったのである。
召喚乙女の〈釣之巫女〉争奪勝ち抜き〈競釣〉 隠井 迅 @kraijean
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