泣かない季節
黒本聖南
◆◆◆
島には島の神がいる。神には愛した人間がいた。
人の姿をした神は、設けられた社の中で、誰にも邪魔されることなく愛した人間と蜜月を過ごし、幾人もの子を産み落として、愛した人間と子らが無事に生きていけるようにと、雨を降らし、土地を肥やし、作物を実らせる。
神はただの神であり、幸せな心地のままに永遠を盲信していた。自身がそうであるのだから、愛した人間もまたそうなのだろうと、数多の人の死を見送りながら身勝手に神は思った。
やがて、愛した人間は死んだ。
最初の一週間、神は動かなかった。いくら我が子や孫が呼び掛けても、島民が話し掛けても、一言たりとも返事をせず、愛した人間の死体を凝視する。
次の一週間は狂ったように死体へ語り掛け、次の一週間は冷たい死体に過度に触れ、次の一週間は能面のような顔で死体と共寝をし、次の一週間は自身の肌を切り裂いて死体に塗り込み、次の一週間はひたすら死体に血を飲ませ──最後の一週間はようやく立ち上がって、外に飛び出し泣き叫んだ。
島民と子孫はこの時になってようやく、愛した人間の死体を焼くことができた。神の恩恵か、血の臭いが漂う死体はどこも腐っておらず、肌艶も生前と遜色ないほどに良かった。今にも起きそうだったが、上下しない胸を見て、そのまま死体は焼かれる。
以来、神は姿を消し、島には雨が降り続けた。
愛した人間を失った痛みを、子孫や島民にぶつけるかのように、時に弱く、時に激しく、雨は降る。子孫達の中には、雨と共に神の声を聞く者もいた。
──あの人を返してと。
狂ったように、恋慕うように、泣きながら、ずっと聞こえてくるのだ。後に雨は『
子孫は島民から特別視されるが、神の声が聞こえる日常を不快に思う者は多く、経済力のある者は島から出ていき、それができない者は残るしかなかった。──
物心ついた頃には神の声を聞いていた涙。もう慣れたもので、雨音の一種だと聞き流し、傘の重さに辟易しながら外を歩くのがいつもの日常だった。
涙の他には、母と兄と弟妹が聞こえる。神の血を引いてない父と、姉だけは聞こえないようで、幼い頃は姉からどういう風に叫んでいるのかとしつこく訊かれ、うんざりしたのを涙はよく覚えている。
──あの声が聞こえないって、どういうものなの?
家の中でも小さく声が耳に届き、耳栓をしていても容赦なく聞こえてくる。聞き流し続けるにも限度があった。
この島を出れば、聞かずに済むのか。
島には高校がなく、通いたければ島を出て本土に行かなければならない。中学生の涙は家族との別離に目を瞑り、ひたすら勉学に励み、なんとか合格できた。二ヶ月後、何も起きなければ、問題なく高校生になれるはずだった。
そんなある日、雨が止んだ。
稀にあることらしい。最後に止んだのは四十三年前、周期は特にない。ただ、神が泣かない季節が到来したというだけのこと。一年以上続くこともあれば、三ヶ月で終わることもあったとか。
涙は生まれて初めて、傘も持たずに外を歩いた。傘で塞がってきた手が空いている。涙は何でも持てるのだ。嬉しさのあまりスキップしてしまった。
もうずっとこのままでもいい。今まで降り過ぎたんだ、それなりに雨水も溜まっているはず。自分が進学するまではもう降らないでくれと願いながら跳ね回っていると──腕を掴まれた。
視線を向ければ母だった。
「行こう」
「どこに?」
「涙雨の神様のお社に。雨を降らしてくれとお願いしないと」
「……何で」
涙は手を振りほどきたかったが、母の力は思いの外強く、されるがまま。やがてどこかへと引きずられていく。
「私達をはじめとした聞こえる人達はね、神様の声が聞こえるから、聞こえない人より多くご飯が食べられて、色んなことが許されているの。思い当たることがあるでしょう?」
確かに、涙にはあった。
希望の高校の推薦枠は一つしかなく、涙は無事に合格した。──涙と共に推薦を狙っていた生徒が辞退したおかげで。成績はそちらの方が良かったが、神の声は聞こえなかった。
「私達は、お返しをしないといけない。神様に泣いてくださいって、いっぱいお願いするの」
「い、いつまで」
「また泣いてくださるまで、ずっとよ」
「……高校、どうしよう。人いっぱいいるし、私、いなくても」
「涙」
母は涙の名前を口にすると足を止め、ゆっくりと振り返り、優しい笑みを浮かべる。
「諦めなさい」
それだけ言うと、母は再び涙を引きずった。涙はもう何も言わず、抵抗もしない。
──姉になりたかった。
姉になれば、そんなことをしなくてもいいのにと、高校にも無事に行けたのにと、柔らかな陽光の下俯いて、姉を、そして不謹慎にも神を、静かに呪った。
泣かない季節 黒本聖南 @black_book
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