第43話 溺れるほどの愛(2)

       *


 結婚式を終え、晴れて夫婦となったふたりは、これから初夜を迎える。

 皇帝の部屋と皇妃の部屋を繋いでいる内扉の前で、フランはごくりと唾を飲んだ。


 このような通り道があることは知っていたが、いつもライズは用事があるときにはきちんと正面の出入り口から訪ねてきていたし、内扉には施錠がなされていたので一度も使ったことはない。

 今夜から床を共にしようと約束を交わしたときに、初めてふたつの部屋の間に「夫婦の間」というものがあることを知らされた。そこは、いわゆる共同の寝室であるらしい。


 念入りに肌を磨き、すでに就寝の準備を整えたフランは、思い切ってドアノブに手をかけ、鍵のはずされた扉を開けてそっと中を覗いた。ライズがまだ来ていないことを確認し、わずかに緊張を緩めて部屋の中へと歩みを進める。


 この特別な敷居をまたぐ日が来るなんて、想像もしていなかった。彼から言われるまで思いつきもしなかったくらいだ。

 少し明かりを落とした部屋の中央には、ふたりで寝ても余りあるキングサイズのベッドが置かれている。それ以外に落ち着けるような場所は見当たらなかったため、ちょこんとベッドサイドに腰かけて待つことにした。


 美しくベッドメイクされた高貴な夫婦のための寝所。ちらりと視線を横に流せば、ふたり分の枕とさらさらの真っ白なシーツが、あからさまに羞恥心を煽る。

 クローゼットの奥にしまい込まれたあの恥ずかしい夜着は身に着けてこなかったが、精一杯おしゃれをして、一歩も二歩も背伸びをしてきたつもりだけれど。


(本当に、今日からここで、ライズ様と一緒に眠るのかしら……?)


 そう思ったら異常に心臓が高鳴りだし、顔が火照ってきた。いったん出直したほうがいいような気もしてくる。このままでは待っている間に心臓が破れてしまいそうだ。

 怖気づき、腰を浮かせかけたそのとき、フランの部屋とは反対側にある扉が音を立てて開いた。びくっと体が震えて、座ったままのお尻が浮き上がる。


「フラン。待たせたか?」

「はっ、いえ、全然! い、今、来たところで……」


 どぎまぎしながら顔を向けると、バスローブを纏ったライズの姿が目に飛び込んできた。入浴を終えたばかりなのか、タオルで髪を拭きながら爽やかに近づいてくる。

 そんな状態では、いつもより露出が多いのは必然。バランスよく鍛え上げられた胸筋、彫像のように割れた腹筋がバスローブの合わせ目からしっかりと覗いていた。


 ドキッと舞い上がりつつ、その肉体美に目が釘づけになってしまう。けれどもすぐにそんな自分がはしたなく思えて、顔を赤らめうつむいた。

 フランのそばに到着したライズは、そのまま隣に腰を下ろす。ベッドスプリングが揺れて、ぎしりと音を立てた。

 心臓の動きが一段と激しくなり、いつ限界がくるのかと心配になってしまう。


「湯冷めしていないか?」

「だっ、大丈夫です。ちゃんと温まってきたので」


 視線をはずしたままそう答えると、彼の太腿のあたりの布地にポタッと水滴が落ちるのが見えた。ハッと顔を上げれば彼の髪はまだ濡れていて、きらりと星屑のような雫が滴り落ちている。


「ライズ様のほうこそ、風邪をお引きになったら大変です……!」


 フランはライズからタオルを受け取ると、ベッドによじ上って後方に回り、彼の髪を乾かす手伝いを買って出た。

 ありがとう、と素直に言われて、なにやら甘酸っぱいものが胸に広がる。

 たあいない話をしながら柔らかな金の髪に触れ、タオルで水分を吸い取っていくうちに、だんだんと気持ちも落ち着いてきた。


「今日は疲れただろう。あんな重いドレスを身に着けて、一日中動き回ったんだ」

「いえ、不思議と疲れはないんです。ただ嬉しくて、こんなにも幸せで、なんだか申し訳なくなるくらい……」


 満ち足りた気持ちに呼応するように、フランの体の中のマナもようやく復調の兆しを見せていた。

 クリムトによれば、回復が遅れたのはストレスによるものだったのではないかとのこと。メンタルが大きく作用するマナにおいて、フランの心の持ち様が大きく影響するらしい。

 能力を取り戻したことをライズは喜んでくれたが、そのことでフランは新たな憂いを抱えることになった。

 増えるのも減るのも不安定で、思ったより繊細なマナ。彼が特別だと言ってくれた力が、もしもなくなってしまったら――それでも彼は自分を必要としてくれるのだろうか。


「どうした?」


 彼が、わずかな変化を読み取って尋ねてくる。

 夫婦で隠し事はしないと決めたので、正直に胸の内を打ち明けた。すると彼は、うーんと首を傾げてからとびっきりの笑顔を見せ、なんだそんなことかと口にする。


「たしかに、きっかけはあのような出会いだったが、おまえには初めから惹かれるものを感じていたよ。聖獣の姿になれても、なれなくても、結果は同じだったと思う。なんならひとつずつ、惚れているところを列挙してやろうか?」

「えっ、いえ、そんな……」


 それはちょっと恥ずかしい。そう断ったのに、いたずらな口元はにやりと微笑んで、甘い光を瞳に宿す。

 乾かすのはもういいと手を握られ、ライズがベッドに乗り上げて、向き合う形で体を引き寄せられた。ほのかに石鹸の香りがして、湯上りの彼の体温を間近に感じる。


「まず……愛らしい鼻、それから果物のような唇」


 言いながらスマートな仕草で、鼻先と口元に軽く唇を押し当ててきた。どうやら彼は、挙げた箇所にキスをしていくつもりのようだ。


「それに……飴玉みたいな瞳」


 ぎゅっと瞑った瞼の上に、柔らかな口づけが落ちる。


「甘ったるい菓子のような春色の髪も好きだ」


 額にかかる前髪の上にも、ふわりと羽が触れるかのように熱が与えられた。


(も、もう目が回りそう……)


 愛情を言葉と行動で示されるのは嬉しいが、あまりの気恥ずかしさで体が弾けてしまいそうだ。

 全身を真っ赤に染めながら耐えていると、優しく体を押された。

 視界が天井を向いて、支えられながら背中をベッドにつける。その上に身を乗り出してきた彼が、睦言を続けた。


「滑らかで、きめ細かい肌は……例えるならなんだろう。メレンゲか?」

「た、食べ物ばかりじゃないですか……ひゃっ」


 はだけたネグリジェの隙間から胸元に口づけられ、肩を弾ませる。


「それだけではない。私を思いやる優しさや、献身的で困っている者を放っておけないところ。明るくて、健気なところも好きだ。あとは……」

「も、もういいです……! これ以上は耳が溶けちゃいます!」


 泣きそうになって悲鳴を上げれば、目下に見える彼の肩は細かく震えている。くくっと笑いをこらえるような声がした。

 からかわれたと思い頬を膨らませると、ライズは悪かったと言って、気張らない笑顔を見せる。


「すまない。照れているおまえが可愛くて……」


 思わず喉を詰まらせた。その顔でそんなことを言われたら、すべてを許すしかないではないか。

 それから真顔でじっと見つめられ、甘く濃密な空気に一気に引き込まれた。


「好きだ……全部、食べてしまいたいよ」


 顔を寄せてきた彼に耳元で囁かれて、ごくりと喉が鳴る。

 小さく頷くと同時に、強く抱きしめられた。熱い体温、体の重みが心地よい。たまらず逞しい首に手を回し、しがみついた。

 互いに夢中で、溶け合うようにキスを交わす。彼がくれる大きな愛を、ひとつとして逃さぬように。


 めくるめくステキな夜が、幕を開ける。

 疲れて眠りに落ち、朝がきて、そしてまた夜が来ても、終わることのない愛しい日々が、これからも続いていくのだ。



 ――その夜、フランは夢を見た。

 青い海、白い砂浜。天井のない地上の楽園。

 浜辺にたたずむのは、フランによく似た獣人族の少女。

 少女は砂を蹴って駆けだして、ライズによく似た冒険家の青年の胸に飛び込んだ。


『やっと、逢えたね――』



**おわり**

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厄介払いされた聖獣王女ですが、冷徹なはずの皇帝陛下に甘やかされています 岬えいみ @eimi_misaki

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