あの日へ


 彼女は二十年前の私だった。未来に生きている私に、何が出来るっていうんだ? もう相川君のことは過去になってしまった私に。

「どうして私なの?」

「交換手さんがそうしなさいと言うから」

 番号を共有するなんてプライバシーもへったくれもないな。私はため息をついた。

「あの……、未来の私だったら相川君に謝れるって思った」

 真面目か。どうしようもなく真面目でいとおしい、過去だ。

 でも私は彼女の、原田香織の頬を叩いてやるしかないんだ。もう答えは決まってる。

「彼を追いなさい。彼に届くのはもうあなただけなんだ……」

「でも……彼は」

「関係ないよ、私、知ってるよ。原田香織がほんとうは寂しがり屋で相川君のことを想ってること」

 めっちゃ照れくさ……。言ってやらなくちゃ。

「時刻共有サービスをうまく使うの。三時間なら誤差よ、誤差」

 そうだ。私たちに空いた距離は決定的じゃない。テクノロジーで埋められる。あれからふたりの距離はとても遠くなってしまった。もう届かないほどに、だからあの花火をいっしょに見られたなら私は相川君にほんとうのさよならが言える。いや言ってやるんだ。

「ねぇ、香織って呼んでいい?」

 尋ねられてドキッとする。

「いいよ、何?」

「香織さん、相川君のこと、いまも好き?」

 ひとつ息を吐いた。もう言ってしまえ。

「ずっと松井秀喜のことしか喋んない人だけど、好きだよ」

 沈黙ができた。電話口のむこうで彼女が笑った。

「わかった……がんばるよ。相川君を引き止めて、いっしょに花火を見たい」

 見えないけれど花火は今頃フィナーレだろう。

 あの日の相川君にはもう連絡がつかない。それでも過去が変わったはずだ。信じるしかないのだろう。

「時刻共有サービスです」

 まだいたんだ。あなたは? って聞こうとした。

「よく頑張ったね、西村香織さん。交換手の西村香織です」

 良く通る声の割りに年齢を感じさせる威厳いげんがあった。

「そうだったんだ。未来の私が……」

 うまいこと出来てる。未来の私たちがなんとかして原田香織に勇気を出させたんだ。未来の私は低い声で言った。

「すべて過去になってしまうことだった、相川君とのことは」

「未来でもそうなんだ……」

「ええ、私たちがいくら頑張っても彼の時間は、人間の耐えられる時間のにある。肉体は無くなって、彼の意識はずっと記憶の街にいる。すべてあの花火の日で交差点を無くしてしまう。それがとても私は嫌だった。苦しかった。だから過去を変えたいって思った」

「でも知ってるよ。原田香織がうまくやれたとしても時間は戻らない。私たちは私たちの現実を、相川君を亡くした世界を生きるしかない」

 世界に潰されてしまうような気分だ。もうやってられない。

「そうね、でも知ることはできたはずよ。私たちは時のなかで忘れながら生きていく。それが良いことなのか、あなたは知ってるはず」

「良くなんてない……。だって私は、戻りたいよ……」

 くそっ。くやしくて堪らない。

「お願い、相川君に、メッセージを入れさせて」

 何でもいい。ただ伝えたい。相川君に馬鹿だって、お人好しだって、探査機に乗らないでって、そばにいてって……。

「わかったわ、それは今のあなたにしか出来ないこと」

 相川君へのメッセージを残すと、夜空の星が次第に大きく輝いて、一等星が明るく光った。すると硬式球が空から落ちてきた。

「これはいったい?」

「きっと素敵なことよ」

 拾ったら、そのボールは消えてしまった。どこかで子どもたちの笑い声が聞こえた気がした。


 D領域を超えたヘルベイオンからの知らせを聞いたのはずっと後だった。相川君とはそれきりでヘルベイオンの意識は無くなって、機械の返信音しかしなくなったらしい。ダークエネルギーは未知のエネルギーでは無くなって、反発する重力が宇宙を構成するフィラメント構造を支える力なんだとかなんとか。

 私は時刻共有サービスの交換手を勤めて三十年目だ。あの年齢での転職は思い切りが良すぎたと思うが、この職業は気に入っている。

 人が人を思うとき、このサービスがある。

 私は戻らなかった過去を抱きしめて生きている。

 次の仕事だ。

 機器からよく見知った声が響いた。

「私時間、午後三時の相川香織です。貴時間、午前四時の相川透に繋いで貰えますか」

 原田香織が、あの日からの私がどんな思いでこれまでの時間を、相川君との時間を繋いできたか、その苦労は想像しがたい。

 いや、苦労だなんて言えるのはちょっとした負け惜しみだ。

 私は頑張ったんだ。知ってるよ。

 想像するんだ。ホームランアーチを二人で見た感動や、言葉のキャッチボールを繰り返す難しさや、夏は花火を見たこと、繰り返す春は桜を何度だって見て、笑い合って時間を過ごしたのだろう。そういう現実があるんだと思うと勇気が湧いてくる。

 相川君の声は優しかった。

 ――私に気づいて。

 なんて、言わない。あなたがそこにいてくれて嬉しい。

 ヘルベイオンの意識がもうそこにはないと知っている。ヘルベイオンをアプリで眺めるとき、からになった容れ物が宇宙の仕組みを解明してくれると願っている。それまで私が離れた時間を繋ぎ止めるんだ。

 私は交換機を手で押してスライドさせていく。あらゆる時間が複数の現実を結び、私は透君も知らない時間の秘密を手にした。複数の香織たちが合わせ鏡のように時間を連絡させていく。透君の知らないずっと未来と永遠にも近い過去を連結させ、新しい因果律いんがりつを生成し、時間はスピンネットワークを構成した。ふたりの時の流れの速さは逆転する。

 誰でも骨になるのは宿命だ。時の向こう、相川君と出会う。相川君はあっという間におじいちゃんになって、野球の話を繰り返し何回だって彼女にして、一等星も、花火も、桜の木も、遠近法の彼方へ、すべては終わっていく。記憶のなかで広がっていく。

 私は交換機を置いた。もうそろそろ旅立つ時間だ。時間の不思議は私が解くのだ。〈了〉

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