D領域


 相川君の軌道のさきには、何もない。

 いや、ダークエネルギーが支配する空間が広がっている。目に見えない宇宙を支える力が支配する空間に相川君の意識は飛ぶ。そんな未来がいつか来る。

 相川君はいつも通り、松井秀喜まついひできの話を長々と話している。

 時間がない。相川君に何から話せば良いか分からない。相川君、もうあなたは私の手の届かない場所まで行ってしまう。あなたの意識は途絶して、帰ってこない。そのことを伝えるのに、こんなにも勉強しておけば良かったって思ったことはない。

 野球選手の話を楽しそうにする相川君へ言った。

「相川君、もし、連絡が取れないようになったら、どうする?」

 相手に委ねるようなズルさが憎い。

「原田、もう終わりってこと?」

 ちがうよ、私が言いたいのはそんなことじゃない。

「あのね……」

 真実を話した。相川君の声は震えていた。怖いんだ、男の子だって。

「原田、ずっとひとりの時間を過ごしていた俺に君はずっとそばにいてくれたよな」

「うん」

「連絡が途絶えるって、それって死ぬってことなのかな?」

 突然の質問に何も答えられなくなる。

「そうじゃないって思う。三十年後の私から見たら、相川君と私の交差点はなくなるってことなんじゃないかな?」

「そっか、なら今すぐってわけじゃない」

「相川君、もっと楽にしていいんだよ?」

 彼は息を継いでから言った。

「原田、女の子と付き合うってどんな感じなのかな」

 相川君だってそういうこと考えるんだ。ホームランアーチの話より、もっと彼と話がしたくなった。相川君は頬を染めているかもしれない。いろんな彼の顔が見たかった。

「じゃあ、一週間、この香織様がガールフレンドになってあげようか」

「ふふっ……」と彼は笑った。

 それからはずっと電話をして、思い出を作った。ガールフレンド、彼女、そんな響きに満足していた。もうずっとと思っていたことに気づいた。隆也への気持ちもほんとうだし、相川君への気持ちもほんとうだった。

 航空宇宙局の知らせが来たのは寒い朝のことだった。深宇宙探査機ヘルベイオンはダークエネルギーが集中すると言われるD領域へ侵入するらしい。そのあいだの通信は途絶し、相川君からの連絡はできない。これが正式なヘルベイオンの探査の始まりだと担当者は熱っぽく語ったが、取り残された相川君を思うと、ずきずき胸が痛む。

 私は時刻共有サービスを何度も利用したけれど、その通信が一切、彼に通じることはなくなった。松井の話を楽しげにする彼の声が聞きたい。もう何にも私には残されていなかった。

 花火大会の日がまた迫ってくる。打ち上がる大輪の花が、彼とのたったひとつの思い出を蘇らせる。どうして彼は走っていたんだっけ。そうだ、あの日は私と彼が喧嘩した日だった。

 ふたりで示し合わせた時間に彼が三時間遅刻してきた。

 そういう日だった。

 ちょうど彼の時間が私と明確に違うのだと気づいた日だった。

 忘れていた傷が痛み出した。

 記憶の隅でいつも私はひとりで待っていた。あの時間の孤独をなんとか忘れるために生きてきた。相川君がいない時間がこんなに寂しいことだなんて思ってもみなかった。

 待ち合わせなんて似たもの同士の人間しかできない。

 私と彼が違う人間だなんて嫌だった。

 ずっと同じで、そばにいて、未来が続いていくのだと思ってた。

 私は花火大会の日に、彼から逃げ出したんだ。いっしょに花火が見られたのが大人になってからなんて、皮肉だ。

 自分から桜の木の下で彼にさよならを言ったんだ。もう会うことがないって約束まで取り付けて、ふたりにある距離がとても遠いのだと知ったから、彼から逃げ出したんだ。

 ヘルベイオンの軌道がD領域へ入ってから、一年があっという間に過ぎて、二年目の夏が過ぎた。海風の匂いが鼻をくすぐる。もう何も残されていない、暑さもむなしさも退いていかない。

 私は、もうダメだ。缶ビールを片手によろよろ川沿いを歩く。隆也のいる部屋に戻って、抱きしめてもらいたい。紫色の雲が、世界を潰そうとしているみたいだ。

 ヘルベイオンのアプリも、アンインストールしてしまった。私にとっての大切なものはもうどこにもない。

「時刻共有サービスです」

 ふいに鳴りだした電話に驚く。着信はどこからだ。勅使河原からだったら、川に電話を投げ捨ててしまおう。

「……うっ……」

 少女の声だった。めそめそしてる。

「原田香織です、彼と喧嘩しちゃった」

 紛れもなく過去の私だった。

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