一等星の夜


「時刻共有サービスです」

「私時間、午後九時となっていますが、貴時間、午後八時の西村隆也と繋がりますか」

「お待ちください。時刻差、三分となっています」

 花火の余韻よいんが胸の中にある。私は普段の時間に戻ろうとして落ち着こうとする。隆也はきっと今頃電車のなかかもしれない。繋がって、言葉を交わす。いつもの私、いつもの関係、大人同士だ。甘えた声で隆也に愚痴をこぼして日常に帰る。三分差という気軽さが私と隆也との親密さだ。

 きょうはスーパーでお惣菜そうざいを買って帰ろうと思って、隆也に伝えた。隆也は朝食のパンと野菜ジュースを買って帰ると言って、通話が途切れた。

 ホームの電光掲示板が点々とした時刻の列車運行を伝えている。ダイアグラムを人工知能が制御しているとはいえ、私の列車が来るまで遅い。

 アプリで深宇宙探査機の軌道を見ている。

 彼の意識がどうしてるかという思いが脳裏をかすめる。

 その思いはやがて霧のように消え、列車がやってきた。

 時刻共有サービスによって時間の統計情報が集められているからこそ、電車のダイアグラムが人々の時間の最小公倍数的な運行時間システムを維持している。列車に揺られながら、列車の到着時刻を確認している。遠のいていく仕事場近くの雑居ビルの明かりが遠くの山沿いの点々とした街明かりに変わっていく。

 真っ暗にならずに人がいるなら、光もそこにある、安心がそこにある。

 列車を降りて乗り換えるためにもう一度列車を待つ。

 星は見えない。小学生のときに訪れた軽井沢で星はよく見えたと、ふと思う。

 一等星を見に行こうと言ったのは誰だったか。

 相川君だった。彼が一等星をいっしょに見ようって言って、みんなの列から離れていって、手を引かれて、私と相川君は二人きりになった。

 相川君は急にピッチャーみたいなフォームで夜空にボールを投げるふりをした。彼は星しか見てなくて、何も見えてなくて、つまらなくて仕方がなかった。ふたりで先生に怒られて、夜中にいっしょにレモンスカッシュを飲んだ。点々と、何でもないいくつかの記憶が現れては消えていく。

 彼は確かに遠い世界にいる。

 部屋の鍵をくるりと開ける。隆也はシャワーを浴びているらしい。私は買った物を冷蔵庫に入れて、買った卵がひとつ割れていることに気づいた。ちぇっ、とこぼして熱湯の中へ卵を入れた。卵がゆであがる間に、服を着替える。しわの寄ったジャケットにハンガーを通して、テレビをつける。数時間前のニュースのなかの選択肢から、気になるニュースを選んでぼんやりと眺める。

 滅多にかかってこない時刻共有サービスが急に鳴りだした。

「は、はい。西村香織です」

「もしもし、西村香織です」

 同姓同名の人物か? 私は少し考えて言葉を発した。

「なにかご用ですか」

「ちゃんと説明するわ。混乱するよね。私はあなたよ。正真正銘のあなた。正確には三十年後の私だけど……」

 少し戸惑った。

 時刻共有サービスにこんなことができるなんて思いも寄らなかった。私は未来の私と話してるなんて! 

「香織、あなたに話したいことがある。相川君はいなくなる」

 目の前が真っ暗になった。

「私の時代には相川君との時刻共有サービスは出来なくなっている、そのことを伝えたくて……」

「相川君はどこへ?」

 三十年後の私はなにも言わない。鍋がぐつぐつ音を立てている。その音だけが部屋に響いている。

「相川君に会えないってことなんですね……」

 仕方ないかもしれない。相川君は過去の時間を生きてるひとで、遠い、それこそ銀河の果てを進む探査機に同期させられている魂なのだから。

 三十年後の私は気まずそうに黙っている。

 カタカタと卵の殻が鍋に当たる音だけがしている。

 私は受話器を持ったまま、ガスのつまみを回し、ぱっと火が消える。湯気が眼鏡に当たって辺りが何も見えなくなる。眼鏡を取ってぼんやりとした視界のなかで答えを待ってる。

「相川君は私たちの世界から完全に消えてしまうわ。それでもいまを大切にしてちょうだい。私はもうあの瞬間には行けないから」

 あの瞬間ってなんだろう。私は聞き返そうとすると、時刻共有サービスが限度時間いっぱいであることを知らせる。未来の私は相川君と私にとって大切ななにかを知っている。何なのかはわからないままで。

 私は時刻共有サービスがただ時間切れになっていくのを黙って待っていた。三十年後の西村香織に興味さえ湧かなかった。彼女がどんな気持ちで私に連絡してきたのかだけが気がかりだ。すべてが過去になってしまったらと思うと私は怖くなる。

 隆也がシャワーから出てきた。タオルでごしごしと身体を拭き、リビングで茫然と立ち尽くしている私を見ている。目が合ったところで、私は作り笑いをして、お惣菜を冷蔵庫から出した。

 煮物の味はすこし薄かった。

 そこからのテレビのバラエティ番組の笑い声も、隆也の話す声さえも聞こえなかった。隆也には相川君のことは伝えてなかった。彼のことを教えてもいいのかずっと悩んできた。胸が苦しくなって涙が溢れる。

「香織、だいじょうぶ?」

 心配する隆也をよそに私は言葉を濁した。

「うん、分かってる、分かってる……」

 落ち着いたところで温かいお茶を隆也が淹れてくれた。

 私は相川君のことを隆也に話した。どんな反応をされても仕方ない。相川君は私の大切なものの一部で、その思いをずっと抱えて生きてきたんだから。

 隆也は黙って聞いていた。その夜、ベッドで横になって隆也と手を繋いで眠った。

 でも三十年後の私からの不思議な時刻共有サービスの話はしなかった。

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