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 台所でアラームが鳴ると、まずエリが起き、次いでガカが目覚める。


 布団をぬけだしたエリは、枯れ葉のようにちらばった服を掻き集めた。枕につっぷしたガカはきつく目を閉じたまま、つま先立ちで歩き回るエリの気配を感じとる。アラームを止めた。ファンヒーターをつけた。洗面所の板戸を閉めた。シャワーを使う。そこでようやく目蓋を開けた。裸を見ることは禁じられている。


 ガカはまだ眠るべきだ。彼は二交代制の工場で働いている。


 四勤二休と呼ばれるシフト形態で四回日勤のあと二日休み、四回夜勤というローテーションを繰り返している。表向きには。現実には連休が取れることは稀で、昨日の休みは潰れて日勤、今日は夜勤だった。体の内部を繋ぐ糸が細くなる働き方だ。今にも切れそうで、もっと眠らなければ回復しない。


 だが、シャワーの音がしているうちに起きた。毛布をかぶったまま大きな犬のように四つん這いになり、ざらついた壁に縋ってやっと立った。電気のスイッチを押す。


 人工の光は、部屋のかたちと物の置き場を明らかにする。でも、本当に?


 ガカは軽い吐き気をおぼえつつ、せまい室内を見る。人間がつくった人間が住むようの部屋。湿った布団。エリの取りこぼした衣類が、ひえびえとしたフローリングに落ちている。押入れがあるだけで家具はない。かつては和室だったらしく、台所につづくドアの下には、押し入れから地続きの溝の跡が残っている。


 北向きの小さな窓は雪国仕様の二重サッシだが、寒さはこの窓と床下から来る。水道管が張り巡らされた床下は空洞で、アパート入居者は冬季凍結防止のための水抜きを義務づけられている。


 外の暗さは雨戸を開けたことを後悔するほどだった。窓を閉め、黒い鏡に映る自分の影を直視する。そこにはガカのおそろしく醜い姿が映っている。


 闇の中でエリといると、ガカはいつも自分を美化してしまう。なにに喩えてもいけない醜さだった。だが喩えるべきだろう。粘つくヘドロを固めた顔に、紙でできた目や鼻や口、それに眉などを針で止める。塊を地面に落とす。輪郭はゆがみ、すべてのパーツの位置が壊れる。そんな頭部が中肉中背のからだに載っているのを見て、ガカは思う。エリはよくこれに口づけられるものだと。


 生まれつきだ。容貌から身体もしくは知的な障害があると思われがちだが、雇用は一般枠で、三十近くなった今まで大病はしていない。


 服を着て、医療用の大きなマスクを付ける。ドアの先が五畳のせせこましいダイニングキッチンで、向かって右の浴室と左の玄関とをつないでいる。


 ガカはヤカンを火にかけた。


 暖房を入れても寒さはそこら中から迫ってくる。床はつま先がそりかえるほど冷たく、夏に不要と判断したスリッパは、やはり必要らしかった。


 ヤカンの太い注ぎ口から、熱湯を跳ね散らかすようにしてドリップバッグのコーヒーを淹れる。エリがシャワーと着替えを済ませて出てきた。


 訪問ヘルパーだ。社名のロゴが入った薄緑色のポロシャツに、クリーム色のチノパンが規定の制服だが、下にチャコールグレーの肌着を着込んでいた。たっぷりと脂肪のついた体で胸板は厚く、腕と腿は太く、いかにも身が詰まっている。男にしては背が小さく、いつか同級生がおばさんのように見えるおじさん、と嘲った記憶があった。まさしくそのとおりで、エリは十代の頃から正体不明なすがたをしていた。おとなしい性格で、ふとっている以外これといった特徴もないのだが、言動のはしばしに滲み出るしとやかさが、牛糞の薫り漂う田舎では底知れない気味悪さに変わる。


 学校では、かま臭いとはっきり言う者もあった。しかし、そう言い切るには愛想と気遣いが足りないとの声も聞かれた。当時のガカは聞き耳を立てながら、むしろエリが人に媚びるようになったら絶交すると強気に思っていた。


 卒業してすぐ障害者支援施設に勤めていたが、休職の末に辞めて、ヘルパーに転職したと聞いている。そのいきさつをガカはよく知らない。エリから話したがるならともかく、自分からくわしく尋ねようと思えなかった。


 エリはコーヒーの香りを喜んだ。笑うと、むくんだ顔に寄ったほうれい線の影が深くなる。肉を持て余した顔を見るたびに、生まれてから死ぬまで、同じ笑いかたであってほしいとガカは思う。そうなることを半ば確信していた。


 工場から無料でもらえる菓子パンをいくつかテーブルに出すと、エリは席に着いてぽそぽそと祈った。


「天のお父様、御名を心より誉め称えます。多忙な日々の中にも、このような交わりの時を与えてくださりありがとうございます。厳しい冬の朝、まだ暗いうちに起きて冷たい制服をまとうのは堪えることですが、ともに励ましあえる仲間がいて救われています。どうか今日一日の道行きをお守りください」


 それから、今日訪問予定のある利用者の名前をひとりずつ挙げて健康と幸福を祈る。ガカは祈るエリの、湿ったつむじを背後に立ったまま見下ろす。エリの髪は濡れるとうねる。ガカと同じ、安いシャンプーの匂いがする。


 エリの祈りは決まった文言を持たない。教会では信者と声を合わせて定型的な祈りを行うこともあるそうだが、食前の祈りではいつも神に話しかけている。アァメンと締めくくり、やっと食事に手をつける。ガカを見上げておいしいと言った。


 そうして振り向くことで二重顎のねじれ方が複雑化する、というより異常さを増す。その視覚的なずれはガカに性的興奮をもたらす。降ってわいた性欲を、ガカは瞬きの内側にしまう。ただうなずいて、エリの対面に座った。


 七時から一件目のゴミ出しとモーニングケアがあるらしい。下の世話をして、身なりを整え、食事を介助し、服薬を確認し、デイサービスへ送り出すまでを一時間以内に済ませる。


 男の介護士として主に男の利用者を訪問するが、家に来るなら女がいいと煙たがられることも多かった。今日の一件目が、まさにそういう客だそうだ。


 そんなじじい死んだらいがべじゃ、とは口に出して言わなかった。どんな利用者でも、身近に接するひとがいなくなればエリは悲しむ。ガカが人死にを願っていると知ればなお悲しむ。ガカはただ相槌を打つに留めた。


 介護職に就いて、エリは語ることに飢えと怯えを見せるようになった。仕事柄、利用者の傾聴に徹することがほとんどだかららしい。心身の弱ったひとと接するので、誰も傷つけない言葉選びをするようになる。太ったからだをマトリョシカのような入れ子状に固くしているのが目に見えてわかった。ガカが、んだんだとうなずくだけで、それがひとつ開いて、筆で引いたように細い目がガカを見る。聞いてもらえるとわかると、また少し話す。嬉しそうだった。


 エリの丸い顔のなかで、口は驚くほど小さい。サワガニのはさみに似た赤いものを野暮ったく動くのを見ると、ガカは安らいだ。雪の野辺で松雪草がうつむくさまを、自分のほうこそ首が落ちそうなほど下を向いて見ている気がする。


 外は暴風雪だった。二人は駐車場で各々の車の発掘作業にあたった。エリはフロントガラスの氷を解かすためにエンジンをかけ。車体にスノーブラシをかけた。同じく雪を払うガカは風向きに対し、位置取りが悪かった。スキー用のネックウォーマーが、ダウンジャケットが雪にまみれる。


 かすかなクラクションに顔を向けると、エリが車を動かしていた。パワーウィンドウを下げて、真顔で手を振る。ガカはうなずきを返して見送った。


 連日の雪のために車道は白に覆われている。夜は明けていたが靄のかかった太陽は月より大人しい。午前も午後もないとガカは思った。ただ道に除けられた雪の影が、かすかに青みがかっているのが朝らしくはある。


 払って落ちた雪の塊をどかすべきだったが、その前にどうしても休まなくてはならない。


 冷えきったからだを上着も脱がずにヒーターに当てる。ファスナーの金具が熱くなる頃には、単に寝不足による吐き気だったものに、立ち仕事で蓄積した全身の痛みが絡みついていた。

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エリのガカ 春Q @haruno_qka

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