エリのガカ

春Q

***

 平たい皿にクッキーが並べられている。皿は灰色でクッキーの焼き色によく映えた。ふちにローズマリーの枝を輪にしたような飾りがある。


 二人で向かい合わせに座り、それを一枚ずつ交互に自分の口へと運ぶ。噛むと歯型が残ったりほろほろと崩れたり、触感は日によって違うが、総じて甘い。木の実やスパイスが生地に練りこまれていることもある。


 相手より多く取りすぎても、取らなすぎてもいけない。口の動きと飲み込み方を真似し合うようにして、一皿を分けて食べる。


 そこはいつも、薄暗い森の中だった。空は曇っているが無風で、足元の黒い土から生あたたかい湿度が立ち上ってくるのを感じた。それが木々の香りを濃くしていた。天を押し上げる針葉樹の群れは、頭上に真みどりの硬い梢を戴いている。枝には青い球果がぽつぽつと実っていた。


 皿は木製のテーブルの上にあった。四つの角に丸みがつけられ、分厚くニスが塗られている。片側の長辺から肉の繊維に似た木目が静かに広がり、もう片側に流れていた。重いテーブルに、脚の太い椅子が二脚。同じ木から削られたとわかる。向かい合わせに置かれていた。


 皿はテーブルの中央にあった。お互いに近くも遠くもない距離だ。ただ手を伸ばす必要はあった。


 クッキーの甘さに口が乾くと、そばにあるガラスのコップから水を飲んだ。飲むとコップに油脂の痕がつく。唇にまとわりついた細かなかすが水に浮く。それもお互いに見せ合うように飲み、またクッキーを食べる。


 ただ目安として分け合っているだけだ。クッキーの枚数を正確に数えているわけではない。少しだけ余って譲ることもある。譲られることもある。


 ガカとエリはいつも、そのように性的にふれあった。


 ガカは、漢字では係と書く。下の名前は工(タクミ)というので、書類上は「係工」と書かれることになる。間違えて職業を書いていると思われたり、中国籍と誤解されたりする。ガカはガカだ。かつて高校の同級生だったエリが、その呼び方を気に入っている。聖書に「雅歌」という名を持つ書があるから。エリはキリスト教の信徒である。


 だからガカと性的にふれあっていて泣き出すことがあった。聖書には、同性愛を戒める箇所がいくつもある。


 いっさいの光のない冷たい闇の深さに沈むと方角知覚が狂う。転居して半年ほどしか経っておらず、また性的快感に耽っているためでもあるだろう。だが、それ以上にガカはばらばらな肉片となって散らばっている。破裂する水風船のなかから空中に跳ね飛んだ古い水の一滴一滴がガカだった。その刹那にじっと留まりながら、エリを愛撫し続けている。互いの体温と体液で蒸れた布団に全身でくるまったまま。


 エリの性器が手の中で死にたての鼠と化していた。生温かくて柔らかく、ぐったりと濡れている。ガカはその手を皮膚に沿って上らせる。体につぎめはない。腿や腰や胸と名が付け変わっているのは便宜的な言い換え。エリのからだは息にふくらんではちぢみ、ちぢむほどまた大きくふくらんだ。無限に拡がっていくからだを、ガカは打ち粉をされたパン生地のようだと思う。手に余るほど重いのにくっついてこない。熱く濡れそぼっているのが、目。


 夜は透明なものによくさわる。爪がかすっただけで裂けてしまうので、なるべく動かないようにしなくてはならない。


 たとえば母親の寝顔。まだ子供の頃、めずらしく添い寝してくれたことがあった。紐付きの電気の一番小さな明かりのもとでみる母は死体だった。見えないもう半分の顔が腐り、虫が涌いていても不思議はないように思え、ガカは手を伸ばす。ふれる寸前、ガカの小さな爪がなにか透明なものを引き裂いた。稲妻のような叫びとともに虚空から血が噴き出し、ガカの顔に降りかかった。血は熱く生臭く、両目をふさがれた顔に、母を犯していた虫までも這いにじる。自分はまだ死んでいないとガカはかぶりを振って虫を払いのけようとしたが、それが本当かどうかは怪しかった。あんなに叫びながら血を流していたのが、ガカでなければ誰?


 闇の中で、エリの目は鰓のようになる。ぎゅっとつぼみ、うっすらとひらき、指のそばで呼吸する。ガカは呪文のような言葉で許しを求める。許されると口を川魚のそれに変えて目じりを刺激する。涙がまた染み出してくる。口吻でぱくぱくとついばむと、エリの息がにわかに荒くなった。


 ガカの性器はエリの手の中にある。小声で名前を呼びながら、せがむように腰を一度ゆする。ゆっくりと、大きく。ややあってエリが、優しい声を漏らして求めに応じた。


 敷布団と上掛けの閉じた口が、砂を抜かれる蜆のようにやわらかく開く。ガカはエリの広いからだに覆いかぶさった。隙間から入り込んでくる冷気に汗が引き、また戻ってくる。エリの手がガカの性器を刺激していた。


 ガカは喉を震わせて、再び許しを求める。許されるとエリに思いきり顔をうずめる。熱くなって粘りけを増した皮膚は、あるところは吸いついてきて、あるところは重みにつぶれて、山も谷もなくガカの顔をつつんだ。


 エリも許しを求める。許せばやわらかく乾いたものがこわごわと唇にふれる。それがエリの唇だった。今日ガカは取りすぎているので待っていると、エリの舌が口の中に差し入れられる。それは半ば溶けてしまっていて、ガカは舌を蠢かしながら、濡れた土のなかで草の根を掘る気がした。ちぎれそうに細く柔らかいものがふれてはちぎれ、ちぎれてはふれる。大きな音を立ててちぎれたとたんガカは射精する。ひざが軋んだ。内ももで挟んでいるものがエリの腰だと意識して、全身の感覚がそこに集約される。


 手で探ると、真下に子供がいたずらして指を深く押し込んだ痕があった。臍。ガカは子供の手垢を追うようにして小さなくぼみに精液をこすりつけた。すると、エリの平たいからだがゆれた。顔が盛り上がり、かすれた声でガカを呼び、喉ぼとけを吸う。ガカはそんなふうにされるのが、ほかのなによりも好きだ。体をすりよせて求めると、鼻先で輪郭を追っていたエリが、かなり長く口づけてきた。ガカは吸い返す。今日のぶんが終わる。


 眠るふたりは雨に打たれた新聞のようだ。集積所で重なって縛られたまま、ページも文字もよれてふやける。ガカはもう二度と読めない字になる。ガカが胸に回した腕に手を添えて、エリもそうなる。日付のない溶けた繊維に。


 やがて部屋の天井から、巨大な手がぬっと姿をあらわす。五指をすぼめたさまは、黒百合の花に似ている。四隅を確かめる彼女を、ガカはシュラミットと知っていた。シュラミットは男を探しているが、二人を掴むことはできない。シュラミットは空気で、二人は水だから。彼女が泡となって浮かんでは消えていくのを、ガカは目を固く閉じたまま感じている。

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