善意のまち

融木昌

善意のまち

 新幹線から乗り継いだ、緩やかに流れる川筋に沿って山裾を縫うように走るローカル線の駅にようやく到着した。腕を挙げ背筋を伸ばして席を立ち、棚から旅行鞄を下ろす。駅舎より高い位置にある島式のホームに降り立つと、周囲の新緑の山並みに出迎えられたような気分となった。七十となり、会社の実権を息子に譲ってからは妻と旅に出かける気ままな暮らしを送っている。今回は古刹や秘湯がある山あいのこのまちを訪れることにしたのだ。改札を抜け、こぢんまりとした駅前広場に出る。予約しておいた観光タクシーに向おうとしたところで、突然、「助けて」という声とともに若い女性がぶつかってきた。思わず抱き留める。

「この尼!」

 追いかけてきた老年の男が手に持った刃物を振りかざし、女を渡せと声を荒げた。近くにいた人たちは悲鳴を上げて逃げ出し、しかしながら警官はまだ来ない。何か言わなければ。

「落ち着きなさい」

 部下に言うような口調となった。それが逆効果だったかもしれない。男は刃物を突き出し、一歩、二歩と踏み出してきた。女性を庇いながら逃げようとしたとき、飛び出してきた青年が体当たりしてその男を横倒しにしてくれた。

「大丈夫ですか?」

 大勢の人が寄って来る。若い女性は、有難うございましたと何度も頭を下げた。良かったと思う一方で、何もしていないのにと戸惑っている私に、人垣を掻き分け制帽を手にした男が近づいてきた。

「運転手の磯谷(いそたに)です。お怪我もなくよろしゅうございました。ご予定のお寺に参りましょう」

 半ば強引に私と妻をタクシーに案内した。青年に礼を言っていないし、警察はいいのだろうか。その旨を話すが、後は地元の人間に任せておけばよいと磯谷は車を発進させた。還暦ぐらいの年恰好で地元のことはよく分かっているように思われ、とりあえず彼の言うとおりにすることにした。

 最初のお寺は多くの国宝や重要文化財があり、この旅で私が最も楽しみにしていたところの一つだ。山門を入り、石畳の参道を進む。境内はそれほど広くはないが、庭木は小ぎれいに整備されていて心地よい感じを与えていた。正面に本堂、手前左側に阿弥陀堂がある。本堂に祀られているこのお寺のご本尊は薬師如来の最高傑作とされていて、拝観できれば最高なのだが、残念ながら原則非公開で開扉時期が特に定められていない秘仏となっていた。

 磯谷の先導でまずは国宝の阿弥陀堂に向かう。頂部に宝珠を置いた宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根を持つ立派なお堂で、早速、妻は賽銭を入れ、手を合わせた。安産祈願だろう。不妊治療の末、ようやく授かった娘夫婦の子供が再来月、出産の予定となっていたからだ。まだ祈っている妻を置いて先に堂内に入る。須弥壇中央に安置されている阿弥陀如来座像は丸みを帯びた円満なお顔で慈悲深い表情をされている。また、堂内には一部褪色が見られるものの飛天図など色鮮やかな壁画が残されていて、それらに釘付けになっていると突然、磯谷が駆け込んできて予想外のことを口にした。ご本尊を特別に拝観させてくれると言うのだ。耳を疑うが、駅前での若い女性が住職の縁戚にあたり、そのお礼の意味もあるとのことだった。私は小躍りした。思わぬ事件に巻き込まれたが、思いもかけない幸運に恵まれた。

 ご本尊の薬師如来は日光菩薩と月光菩薩を脇侍とした三尊として並ばれていて、細く長い直線的な眼や閉じた小さめの唇など、引き締まったお顔の一方で全体の造形はなだらかな曲線で構成され、また丁寧に刻まれた衣の襞(ひだ)は優雅な波のように見えるなど、評判通りの穏やかさと荘厳さを兼ね備えていた。言葉も出ず、ただただ見惚(みと)れていた。心ゆくまで鑑賞させていただき、住職に感謝申し上げて寺をあとにした。この地方の三大不動の一つとされているお寺にも参拝し、その後宿泊先に向かった。

 宿は老舗の旅館でなかなか予約が取れないということであったが、馴染みの旅行代理店に頼み込んで貴賓室を確保してもらった。広い和室二間に加えてベッドルームがあり、ウッドデッキに続く庭の一角には源泉かけ流しの露天風呂が設(しつら)えてあった。程なく仲居が冷たい抹茶入りのグリーンティーを持ってきた。それは私の好物の一つで、仕事や何かが一段落したときによく飲んでいたのだ。喉が潤ったところで女将(おかみ)が顔を出した。型どおりの挨拶に続けて、巡ってきたお寺の感想を訊いてきた。私は待ってましたとばかりに秘仏について熱っぽく語り、

「本当にラッキーでした。駅前で刃物を持った男に追いかけられている若い女性を助けた、と言っても私ではなく実際は居合わせた青年なんですが、それが縁となって観ることができたのですよ」と付け加えた。

「お怪我はなかったのですね?」

「お陰様で無事でしたが、突然の出来事で本当に驚きました」

「ご夕食は料理長がお客様のために腕によりをかけたお料理を準備いたしておりますので、どうぞご賞味ください」

 そう言うと、女将はあっさり下がっていった。秘仏はともかく駅前での事件に興味を持つのではと思ったが、急に夕食の話をするなど、その話題を避けているような印象すら受けた。

 食事まで少し時間があり私は露天風呂に入ることにした。乳白色のやや熱めの湯に首まですっぽり浸かる。思わず極楽、極楽と呟いてしまった。月並みだと苦笑いするが、有難い仏さまにお会いしてきたのだからあながち間違ってはいないと一人悦に入る。まずはいい一日だったと振り返るなかで駅前での出来事が改めて気になってきた。歳の差があるあの二人にどんな経緯(いきさつ)があったのだろう? 警察には捕まったのだろうか? 青年に謝意を伝えなかったし、やはり中途半端な状態で現場を離れてしまったのはよくなかったのかもしれない。しかし、ここであれこれ考えてもしょうがない。明日、運転手に訊(たず)ねてみることにして風呂を出た。夕食では料理長が直々(じきじき)に挨拶に来て、献立の内容を説明してくれた。女将が言った通り見た目も味も素晴らしく、また鰹のタタキや地元で採れた山菜料理など私の好物も入っていて大満足だった。

 翌朝、食事を済ませ、早めにロビーに出て新聞を広げた。昨日のことが載っているかもしれないと考えたのだ。ところが、全国紙は仕方ないとしても地方紙にも出ていなかった。記事にならなかったのは実害が無かったからだろうか? 首を傾げていると妻がやってきた。

「新聞ですか?」

「駅前でのことが出ていないかと思ったんだが……」

「いろんな事件があるでしょうから」

 彼女はあまり関心を示さず、私が飲んでいるのを見て、コーヒーを注文した。しばらくして仲居がコーヒーとともに気を利かせたのか、これでもご覧くださいとこの地域の観光パンフレットを妻に手渡した。

「子ども科学館建設募金のが混じっているわ」

 パンフレットに挟まっていたようで、また見つけたとばかりに彼女はそのチラシを掲げた。と言うのも阿弥陀堂を始め私たちが訪れたところには必ず科学館建設のための寄付を募るポスターが掲示されていたからだ。

 やがて磯谷が顔を出した。事件のことを訊こうとしたが、私の口が開く前に彼は予定になかった神社への参拝を提案してきた。地元では知る人ぞ知る安産に霊験あらたかなところで特別に祈祷してくれるよう頼んであるという。妻が安産祈願をしていることを知ったのだろうが、それにしてもよく気が利くものだ。牡丹が有名な寺に早く行きたかったのに妻がすぐさまその話に乗ってしまい、仕方なく出発を早めて山の中腹にある神社へと向かう。曲がりくねった道を上ったところに駐車場があり、そこからは階段だった。三十段ほど登ると古色蒼然としているが思いの外、立派な社が目に飛び込んできた。

「あら!」

 手水を取ろうとした妻が指をさした。手水舎の脇に子ども科学館建設募金のポスターの掲示板があったのだ。予算不足なのかもしれないが、人の少ないこんなところにまでとその熱意に感心してしまう。参道を歩み、磯谷の案内で拝殿に昇る。

「ようこそ、お参りいただきました」

 年齢が私ぐらいの宮司がにこやかに出迎えてくれ、胡床に腰を下ろす。祝詞奏上の後、拝礼をして祈祷が終わり、妻は安産のお守りを戴くように受け取った。次は牡丹だと思いきや、車に戻る途中で磯谷と何やら遣り取りをしていた彼女が今度は、

「断層跡がこの近くにあるというので寄ってもいいかしら」と甘えてきた。

 百年ほど前の大地震によって生じたもので、天然記念物指定地として観光パンフレットに紹介されていたという。最近、地震が頻発し、活断層に関する話題が世間を賑わしていたこともあって妻が興味を持ったのかもしれない。お寺を廻る時間がなくなると私は渋い顔をしたが、何とかいたしますと、磯谷は車のドアを開けた。

「磯谷さん、あの刃物の男はどうなったのですか? できれば青年にお礼も言いたいし」

 道すがら昨日の事件のその後を訊ねた。

「申し訳ありません。私も知らないのですが、警察に突き出されたのではないでしょうか。お礼もご心配なさることはないと存じます」

 素っ気ない返答で、男と若い女性の関係など訊くまでもなかった。

 断層跡一帯は公園として保存、整備されており、我々のほかにも数組の観光客が訪れていた。来たからにはと説明板に目を通す。地震の状況や断層がつくり出した地形などについての解説がされていて、なかなか興味深い内容だった。地下の様子を観察できる施設もあり、自然エネルギーの凄さを物語る横ずれ断層の跡を一通り見て回り、ようやく牡丹の寺に向かった。

 さすがに大勢の人がお参りに来ていて、山門を潜ると屋根付きの階段である登廊(のぼりろう)、そして例のポスターが目に入ってきた。まっすぐに延びる登廊の数百の石段の両側に一万株を超える牡丹があり、花びらが幾重にも重なった白や赤、紫などのあでやかな花姿が斜面いっぱいに広がっていた。妻は感嘆の声を上げ、私は幾度も立ち止まりカメラを向けた。最後の方で登廊は左に折れ、それを上がり切った崖の上に本堂があった。荒くなった呼吸を整え、ご本尊の十一面観音菩薩にお参りをする。ここでも妻は長々と手を合わせていた。

「多くのところでお願いできたから、これで安産、間違いなしだわ」

 本堂の前面に張り出した舞台の手すりに手を置き、先ほどの牡丹や新緑を眺めながら、妻は嬉しそうな顔を見せた。

 ところが参拝を終え登廊を下る際、産まれてくる孫の話題で盛り上がり足元がおろそかになったのか妻が段を踏み外し転んでしまった。慌てて引き起こそうとする。しかし、片方の足を挫(くじ)いたみたいでかなり痛がっていた。妻を負ぶって石段を下りる自信はなく、肩を貸すのも共に転んでしまう恐れがあり、さらに運転手は山門付近で待機していてここにはいなかった。どうしたものかと思い悩んでいた私たちに、「どうされましたか?」と後ろから声がした。事情を話すと、妻を負ぶっていくと若い男は腰を屈めた。地元の大学生とのことだった。厚意に甘えることにし、山門からは磯谷の車で評判が高いという整形外科に向かう。休診日だったにもかかわらず遠方からの大事な観光客だと磯谷が掛け合って特別に診てもらえることになった。医師は嫌な顔一つせず親切に対応してくれ、お陰で翌日には痛みがかなり和らいだようだったが、その日の観光は諦め、遅めの朝食をとって帰ることにした。

 磯谷の車で駅まで送ってもらう。その車中で訊きもしないのに磯谷が一昨日の事件のことに触れてきた。

「あの男が持っていた刃物はおもちゃだったそうです。特段の被害もなかったことから警察は厳重に注意して帰したとのことでした。ご放念されてもよろしいかと」

 余計なことを気にするなとやんわり言われているようにも思えたが、磯谷には何かと世話になった。妻が階段を上るのを手助けし、ホームまで見送りに来てくれた彼に丁重に礼を述べ、列車に乗り込んだ。

        *

「あなた、子ども科学館の起工式の招待状が送られてまいりました」

 私は妻が差し出した書状を受け取った。

「順調に進んでいるようだな」

「多額の寄付をされたんですから」

 妻の言い方が嫌味っぽく聞こえた私は口を尖らせた。

「お前も賛成したんだぞ。安産は祈祷などのお陰だとか、あのまちは善意のまちだとか言って」

 先々月、娘は無事に元気な男の子を出産していた。加えて、私が古希を迎えたのを機に、私と私の会社を育ててくれた故郷のまちにお返しの意味を込めて寄付する話が進んでいたところに、今回の件があったため、これも縁だと思い、子ども科学館への寄付を申し出たのだ。

「でも、少し気になることがあるんです」

 妻は、宿の仲居が持ってきた観光パンフレットのなかに子ども科学館建設募金のものが入っていたり、同じ内容のポスターが私たちの訪れた場所に必ず掲示されていたりしたことがわざとらしいと言うのだ。

「それだけまちの人が熱心だということだろう」

「予定外に断層跡を見に行ったでしょう。そこにはポスターはなかったのですよ」

 いずれにしても様々な出来事に遭遇した旅であった。駅前での事件はあれっきりになってしまったが、思い起こしてみると近づいてきた運転手が私たちの名前を確認しなかったことに気が付いた。顔を知らないはずなのにどうして観光タクシーを予約していた客だと分かったのだろうか……。

        *

「うまくいきましたね。部長」

 事務所の一室で、まちの振興協会の職員が語らっていた。部長と呼ばれた男は満面の笑みを浮かべた。

「あのVIP、一億円も寄付してくれるとは」

「秘仏の拝観や特別祈祷のアイデアが利いたんですよ。でも、芝居とは言え、駅前での刃物沙汰はちょっとやり過ぎじゃないですか? VIPも気になっていたようだし」

「秘仏を見せる理屈がいるし、それにインパクトの大きいのを最初にかましておけば、あとの印象が強くなるのさ」

「そういうもんですかね。訪問予定のところにはポスターを準備しておきましたが、急に行くことになった断層公園はどうしようもなかった。勘ぐられなくてよかったですね」

「今更、気が付いたとしても後の祭りさ。しかし、奥さんが転んだときには近くにいた大学生や整形外科の先生がうまく対応してくれた。日頃からVIPに対する善意の提供を呼び掛けておいたことが功を奏したな」

「まち全体がグルだなんて気付かないですよね。女将には貴賓室の予約が入ったら、すぐに連絡してくれるよう念を押しておきます。高額寄付の可能性が高い人物、VIPとして扱うかどうか、また、その人の好みや事情などを調べる必要がありますから」

「これで子ども科学館も住民の税金を使わずに建設できた。このまちは人の善意でいろんな施設が整備されている、言わば善意のまちだな」

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