未陽城シリーズ

平良殿

今夜も悪魔がやってくる

 人の欲をビルとして積み上げて築かれた薄汚い街に、夜毎、悪魔が天使の顔をしてやってくる。

 十二、三歳の少年の形をしたそいつは、たった一度、カビの生えたパンを投げ渡しただけ俺をボスと呼び、毎夜、袋いっぱいの小銭を持ってやってくる。

 初めは、見知らぬ他人の行動に怯えた。この街において無償の施しは存在しない。俺が少年にパンをやったのも、そのパンを齧ったネズミが部屋の隅で死んでいたからだ。けして憐れみからではなかった。

 次は、出所不明な金に怯えた。上層では抗争が続き、殺人はごく普通の、少々危険で報酬のいい仕事に変わっていた。この街には人身売買も兵器密造も、詐欺も強盗もありふれている。金に手をつけることで見知らぬ誰かに報復されるのが怖かった。

 金を使い始めた今となっては、少年がおそろしい。日々の食事に変えても金はまだ余る。女に注ぎ込んでも、酒に変えても、薬を買っても、賭け事で吹き飛ばしても、明日になれば少年は金を持ってやってくる。

「ボス。顔色が悪いですが、どうかなさったんですか?」

 心底心配そうに少年が尋ねる。鈴を転がしたような、耳に心地よい声。なんでもない。酒に焼けた喉で告げれば、彼は血よりも鮮やかな紅い瞳を細めた。

「とてもそうは見えませんよ。ボス、明日はこのお金で医者のところへ行ってください」

 ね、と小首を傾げて少年は俺に袋を握らせる。薬の支払いが滞っていた。明日、この金は売人の手に渡るだろう。俺が日々謎の収入を得ていると知った彼らは、俺に薬の良さを徹底的に教えた後、無慈悲にそれを取り上げた。おかけで俺は金と薬と少年のことばかり考えている。

 質の良い服から覗く白い首と、細い手脚を見つめる。酒と薬と老いでボロボロの俺の身体に対して、彼の身体は若くて健康的だ。顔立ちは整っていて、黒髪は艶やかで、瞳には光が宿っている。俺の知る限り、少年はどんな絵画や彫像よりも理想の人間の形をしていた。

 その首を絞めてやったら、あるいは、この手脚を砕いてやったら、この悪魔も痛みや苦しみを知るのだろうか。虚無から湧き起こった憎しみが囁く。それが、泣きたくなるほどおそろしかった。

「ねえ、ボス。約束してください。明日はちゃんと医者に行くって。ボスにはね、長生きしてほしいんです」

 少年の手が袋から離れていく。俺の手にはずっしりとした金の重みだけが残る。

「だってね、あなたは僕の命の恩人で、この街で唯一、僕に施しをした人ですから」

 出会った時から今に至るまで、少年の口から出る言葉は常にうつくしい。鵜呑みにできない俺は、悪魔の甘言だ、と思った。

 そうでなければ、あまりに惨めだった。

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未陽城シリーズ 平良殿 @hirara_den

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