老いぼれ公爵と没落令嬢の婚姻
ヴィルヘルミナ
老いぼれ公爵と没落令嬢の婚姻
「私には愛する人がいる。君を愛することはないよ」
辺境に建つ公爵の居城に着いた直後、執務室で二人きり。震える手で婚姻届に署名すると、私の祖父と同じ年齢の公爵がそう言って微笑んだ。輝く金髪に青い瞳の公爵は年齢よりも若々しく、父と比べても若く見える。その端正な顔立ちに、ときめきを覚えた瞬間だった。
公爵は十年前に最初の妻を亡くしてから、成人前の若い令嬢を次々と娶っていた。令嬢は何故か数か月で命を落とし、公爵は別の若い妻を迎える。『色狂いの老いぼれ公爵』と呼ばれ、令嬢たちの短命さについて酷い噂が国中に流れていた。
それでも誰も止められなかったのは、公爵が現王の弟であること。そして隣国に接する領地を持ち、国境を護る兵を率いている為。
私の生家の子爵家は、両親と兄の散財と領地の不作続きで没落寸前だった。先祖伝来の美術品や宝石類を売りさばき、売れる物が無くなった時、私は王都の学舎から呼び戻された。
『公爵夫人となるか、娼婦になるか選べ』
それが久々に聞く父の声だった。『老いぼれ公爵』の二十三人目の妻になるか、娼館に行くしか道はないと言われ、私は公爵夫人を選択した。
「あ、あの……それでは、私は何をすれば良いのでしょうか」
公爵には子供がいない。後継者は現王の息子の第二王子と噂されていても、貴族の娘は婚家の血を繋ぐことが至上命令と教えられてきた。
「馬車の旅で疲れているとは思うが、明日から勉強してもらうよ。今日はゆっくり休みなさい」
そう言って、公爵は優しく微笑んだ。
◆
次の日から、本当に勉強の日々が始まった。何故か隣国の言葉や習慣、行儀作法を朝から晩まで数人の教師に叩き込まれる。学舎で学んでいた行儀作法とは違うことに戸惑いながらも、私は新しい学びを楽しんでいた。
五日が経過して、ようやく短い休みが告げられた。城内ならどこにいても良いと言われた私は、書物庫から持ち出した本を抱えて美しい花が咲く庭園へと向かった。
特に美しく花々が咲く場所に建つ白い東屋の中、白い椅子に座ってお茶を飲む公爵の姿が見えた。
毎日の晩餐時には顔を合わせていても、行儀作法の教師が横に付いているので言葉を交わす余裕は無かった。白いテーブルの上には、布のカバーが掛けられたティーポットと二組の白いカップ。公爵のカップは空で、隣の席の前に置かれたカップには淡い桃色の花茶が注がれている。
「おはようございます。本日も良い風が吹いておりますね」
変わった挨拶は隣国の習慣。私の言葉を聞いた公爵は微笑んだ。
「おはよう。今日も良い風だね。……お嬢さんは、今日は休みかな?」
「はい。夕方までの休みを頂きましたので、本を読みたいと思います」
公爵の城の書物庫には、王都の学舎では痛み過ぎて閲覧不可だった貴重な本が、綺麗な状態で揃っており、いつでも持ち出して読んでいいと言われている。
「少し話そうか。一緒にお茶はいかがかな?」
微笑んだ公爵は、籠に用意されていた新しいカップを一つ取り出して、ティーポットのカバーを外す。
「もしよろしければ、私がお注ぎ致します」
「それでは、お願いしよう。精霊用のカップは……これかな」
籠から取り出された小さなカップは、風の精霊のためのもの。風の精霊を信仰する隣国では、お茶好きの精霊にお茶を捧げることが慣習となっている。……それでは、満たされたままのカップは誰の物なのか。
「このお茶を飲む者に、良い風が巡りますように」
隣国の作法通りに花茶をカップに注ぐと、果物と爽やかな花の甘い芳香がふわりと立ち昇る。最初は精霊のため。次に公爵のため、最後は私のため。風が幸運を運んでくることを願う。
私は公爵に指示をされて正面の椅子へと座った。頂いた花茶は、蜂蜜を入れずとも果物の甘さをしっかりと感じてとても美味しい。
気分が落ち着いた私は、公爵に問いかける。
「公爵さま、私は妻ではないのですか?」
「書類上は妻だよ」
ほんわりと微笑む公爵に、胸がどきりと高鳴る。
「あ、あの……その……妻としての義務は……」
それ以上は恥ずかしくて口に出すことはできなかった。
「いやいや、私はもう、歳だからね。お嬢さんがお茶を淹れてくれるだけで十分だ」
笑いながらお茶を飲む姿は、国中で噂されている『色狂いの老いぼれ公爵』とは全く違う。それでは、何故、妻たちはすぐに命を落としてしまうのだろうか。
「……これから話すことは、お嬢さんにとって非常に心痛むことだ」
公爵の微笑みに、私への気遣いが感じられる。短命の理由の話かと、緊張が走る。
「お嬢さんのご両親は、お嬢さんを娼館に売ろうとしていた」
「やはり、そうでしたか」
想像とは違う言葉に驚いて、率直な感想が口から出てしまった。久しぶりに帰った領地の屋敷はがらんとしていて、使用人の数も減っていた。王都の学舎が完全に無料でなければ、おそらく私はもっと早くに売られていた。
「そうか。わかっていたのか。……落ち着いたら、お嬢さんの希望を聞こうと思っていた。お嬢さんは、これから何がしたい? もっと勉強したいというなら隣国の学舎へ送り出す。結婚したいのなら隣国で相応しい相手を探す。ただし、元の生活に戻りたいという希望は聞けないよ。また売られてしまうだけだからね」
公爵の言葉の意味を理解するまで、少しの時間を要した。
「公爵さま……それでは……今までの妻は……」
「皆、様々な理由で娼館に売られる直前の令嬢だった。お金の為だけでなく、病気になった者、父親の後妻から邪魔だと言われた者。……傷物になってしまった者、様々な理由があった」
「皆様は一体どこにいらっしゃるのですか?」
「ほとんど隣国にいるよ。何人かは平民になって我が国にいる」
「どうして、そのようなことをなさっているのですか?」
「私の愛する女性が、お嬢さんたちと同じような境遇で娼館に売られたんだ。危うい所で助けることは出来たが、その時の衝撃で心を病んでしまってね。心が回復するまで、長い長い時間が掛かった。だから、売られる前に助けたいと思っていてね」
明言はしないものの、それは最初の妻のことだろうと察することはできた。
「……娼館を無くしてしまうことはできないのでしょうか」
娼婦とは男性から酷い目にあわされる者だと物語の中では知っていても、具体的に何をされるのかは理解していない。売られる女性を無くすために、公爵なら国中の娼館を潰してしまうこともできるはず。私の言葉を聞いて、公爵は困ったような笑みを浮かべる。
「それは難しいよ。……我々男性というのはね、時々、理性で抑えがたい衝動を持つ時がある。大抵は理性が勝つが、そうでない時には女性にお世話になるしかない。いつでも受け入れて助けてくれる女性がいる娼館は、とてもありがたい場所なんだ」
「それだけでなく、娼婦というのは女性がお金が必要な時に稼げる仕事の一つでもある。一人でも出来る仕事ではあるが、それでは危険だ。客が行為の対価を払ってくれないかもしれないし、人知れず殺されてしまうかもしれない。病気になるかもしれない。娼館は稼ぎたい女性を集めて、そういった危険を管理している場所でもある」
何をするのかはわからずとも、女性と男性の体格差を考えれば、女性が圧倒的に不利であることが理解できた。娼館とは、女性を護る場所でもあるとも言えるのか。
「長く続いてきた物事には、必ず理由がある。物事の一面だけを見て判断をしてしまうと、後から問題が起きる可能性が高い。それに、もしも娼館を全部潰せたとしても、残念ながら私は一人ずつしか助けることはできない。お嬢さんたちを預かって、確実で安全な場所へと送り出すのは結構大変でね」
人間一人を死んだことにして新たな人生を用意することは、想像するだけでも大変なこと。
「公爵さま、それでは、私がここから出ましたら……」
「公爵夫人のお嬢さんは死んだことになって、私は次のお嬢さんを迎えることになる」
私がここから出れば、次の誰かが助かる。それは私の心を奮い立たせた。
必死で勉強した私は、一ヶ月半で日常会話程度の読み書きと行儀作法を習得し、さらには貴重な本を読み終えた。学舎で鉱物学を学びたいという私の希望は通り、裕福な商家の養女になって隣国の学舎へと通うことが決まった。
公爵夫人の私は病気で死亡という届けが出され、生家とは完全に縁が切られた。数少ない友人たちを悲しませるのは心苦しくても、私が自由に生きるためには諦めるしかなかった。
◆
出立の朝、公爵は私が乗る馬車の前まで見送りに来てくれた。
「これが私からの最後の贈り物だ。もしもお金が必要になったら、この
公爵の手で着けられたペンダントには、これまで見たこともない大きさの一粒の金剛石が七色の光を放ち輝いていた。
「ありがとうございます。……公爵さま、この御恩を私はどうお返しすれば良いのでしょうか」
私が生きていることを隠すため、歴代の妻たちのことを護るため、手紙や贈り物は今後一切やり取りしないと言われている。
「お嬢さんが幸せになってくれれば、それで私は満足だ。もしも何かを返したいと思うのなら、まずは自分が幸せになって、あふれた幸せを誰かに少しずつ渡してくれたらいい」
「私と同じことをしなくていいんだよ。例えば自分で自分の機嫌を良くして、いつも笑顔でいること。それだけでも周囲の人間は幸せになれるからね」
春の木漏れ日のような優しい笑顔で、公爵は私の門出を見送ってくれた。
◆
公爵は三十人の妻を娶った後、最期は微笑みながら眠るように息を引き取った。
密かに行われた公爵の葬儀には、国内外から二十九人の元妻が集まった。葬儀の為の黒いドレスは様々でも、全員の胸元には大きな一粒の金剛石のペンダントが輝いている。
白い花が揺れる花畑の傍らに作られた森の中の墓地。最初の妻の墓の隣に公爵は埋葬された。
「わたくし、実は初恋が公爵さまでしたの」
「……私もです。何度も告白致しましたけれど、妻は一人だとおっしゃって」
「そうそう。公爵さまの妻は最期までお一人でしたのよねぇ」
懐かしいと、元妻たちは笑い合う。
「公爵さまは、本当に素敵な方でした」
私の言葉で、その場にいた全員が笑顔で頷いた。
これが、三十人の妻を娶った『色狂いの老いぼれ公爵』の真実の物語。
自らは泥を被り、人を助けた功績は隠されたまま、歴史の中へと沈み行く。
せめてこの物語が、多くの人へと届きますように。
老いぼれ公爵と没落令嬢の婚姻 ヴィルヘルミナ @Wilhelmina
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