兄の親友
@yurayurawater
兄の親友に恋したらダメですか
「酔っぱらった
これが、
「一緒に飲んでいる時は量をコントロールしてやれるが、仕事先の飲み会なんかだったら最悪だ。人のいいお前は、周りに合わせてどんどん飲んでるんだろ。酒を覚えたばっかりのくせに」
彼は煙草を忌々しそうに口の端に咥え、火をつけた。
確かに、わたしはついつい杯を重ねてしまう方だと思う。みんなでおしゃべりするのも楽しいし、あんまり無理してるつもりはないんだけど。
今も、お水の入ったコップをぐいっと渡されて、
「早く飲め。明日の朝、多少はマシになるから」と
無理矢理口へと持っていかされた。彼の大きな手に包まれていた小さなコップは、わたしの手のひらのなかだと普通の大きさだ。わたしは目をぱちくりさせる。
「とうごさん、手、おっきいね」
「はぁ? なに馬鹿なこと言ってんだ。早く飲めっつの。……まったく」
アイツもなんでこんな小娘俺に預けてイタリアなんか行くんだよ! と彼はため息混じりの紫煙をふうっと吐いた。
アイツ、とはわたしの兄だ。お兄ちゃんは今年三十歳。駅前の洋食屋さんでシェフとして働いていたが、イタリアで料理の修行をして、自分の店を持つんだ!という野望を抱き、三十代に突入する直前の去年秋、イタリアに修行に行ってしまった。
八歳違いの妹のわたしを置いて。
両親を早くに亡くしてから、兄はわたしのことを精いっぱい大切に面倒見てくれた。わたしが卒業し、めでたく就職が決まったところで、やっとお兄ちゃんは自分の道を進み始めることを決心したのだ。
だから、お兄ちゃんのこと、ものすごく応援しているし、絶対心配かけないって決めている。もう成人して就職したのだからわたしだって大人だ。
けれども根が心配性のお兄ちゃんは、自分が面倒見ることができない代わりに、斗悟さんにわたしを託した。
幼稚園からの幼馴染で、大親友の彼に。
「お水、おいしいねえー。斗悟さんがいれてくれたから」
「誰が入れてもいっしょだ。あっ、バカ! そこで寝るな」
フローリングの冷たさがひやっとして最高に気持ちいい。靴を脱ぐのすらめんどくさかったので、このまま寝てしまいたい。むにゃむにゃと丸まろうとしていると、ぐいっと身体を起こされた。
「寝るなって言ってるだろ。早く服脱げ。それ、大事なやつだろ?」
彼は慌ててワンピースの裾を持ち上げた。わたしが踏んでしまいそうになったから。
「うーん……そう、だいじだよ。このわんぴ……お兄ちゃんと、とうごさんがたんじょうびに買ってくれた」
「染みつけてないだろうな……。明日の朝ちゃんと見とかないと」
斗悟さんは真面目な目つきで、ワンピースをチェックしている。少し日に焼けた、精悍な顔立ち。整った鼻筋は彫刻のようで、長いまつ毛に覆われた黒褐色の瞳はどこまでもクールだ。
いくつも店舗を手掛ける外食産業グループの社長が、八つも下の親友の妹の洗濯事情を心配しているなんて誰も想像できないだろう。
「明日の朝メシは? 炊飯器セットしてるのか?……してないよな、やっぱり」
そう言いながら彼は広くて綺麗なキッチンへと入っていく。ここは、彼の家なのだ。
私たち三人は家族のように仲が良かった。兄は、幼稚園の頃から妹の面倒を見るのが義務だと思っていたけれど、なぜか幼い斗悟さんもそう思っていて、それが今まで続いている。それは、高校、大学、就職して彼が自分で起業し大成功した今でも変わらなかった。
だから、兄の「頼む。少しでいいから、楓の様子をたまに見てやってくれないか」という願いにあっさり、
「心配だから俺のマンションに住まわせる。一人暮らしなんて問題外だ」と答えたのだ。もう一人の兄として。それが斗悟さんの考えであり、覚悟だった。
だからどんなに、あの馬鹿兄貴はお前みたいな子供を置いて夢を追いかけた、と悪態をついても、彼がわたしの兄と、わたしをほんとうに大切に思っていてくれているのは明白で、とてもとてもありがたくて、そして。
少し切ない。
わたしはずっとずっとずっと、大好きだった。小さな頃から、斗悟さんに恋していた。年上だからとか、彼はわたしをイモウトとしか見てない、とか、そんなことどうでも良かった。大人になったら、もっと綺麗になって、ちゃんと女のひととして見てもらうんだ。
そして、お嫁さんになるんだ。
そう思っていたけれど、お兄ちゃんが行ってしまって、彼が一緒に住むと提案してきた時、わたしと斗悟さんの間は擬似兄妹のようになってしまったのだ。
今までよりすごく近い。だって一緒に住んでるんだもの。でも、遠い。彼は「お兄さん」になろうとしてるから。
大理石でできた綺麗なキッチンでお米を洗っている、ジャケットを脱いだ斗悟さんのスーツの後ろ姿を見つめた。まくり上げたシャツの袖からは、引き締まった腕がのぞいている。
「二日酔いの朝は、食欲なくてもちゃんと食えよ。俺は朝早いから一緒には無理だからな。わかったか」
敏腕起業家がこんなふうにお米を研いで明日のご飯の心配をしているなんて、みんな思わないだろう。会社での彼はどこまでクールで、スマートなのだから。この前なんて、雑誌にまで取り上げられていた。
「……ちょっとだけ、口が悪いってこと、知ってるのはわたしとお兄ちゃんだけなんだから……」
酔いの回った頭で、わたしは誰にいうともなしに呟いてしまった。
「誰が口が悪いって?」
彼がすたすたとこちらにやってくる。タオルで手を拭いて、その指でわたしのおでこをぴっと弾いた。
「や、やめてよ。何にも言ってないもん」
「嘘だ。なんか悪口きこえたぞ。そんなこと言ってないではやくそれ、脱いで着替えろ」
そう言って口の端をあげる。わたしの大好きな笑い方。
途端に恥ずかしくなって、わたしはワタワタと背中のファスナーに手をやった。でも、なかなか届かない。手は空しく空を舞うだけだ。
「……ほんっと。オマエは。じっとしてろ」
彼は大きくため息をついてから、手早くファスナーをおろし始めた。
「く、くすぐったい…!やめてよ斗悟さんー!」
背中にあたる指がくすぐったい。わたしはくすくすわらって身をよじる。
「ほんとおまえ、タチ悪すぎだ……。兄貴にあとできっちりと料金請求するからな」
「ふふ…」
親友に絶対そんなことしないのに、眉を吊り上げている彼がなんだか可愛らしい。わたしはだんだんと眠たくなってきた。
✳︎✳︎✳︎✳︎
彼女のくすくす笑いはやがて、寝息に変わっていく。
この子は立ったまま、寝ることができるらしい。
「おいおい、もうちょっとだから起きとけ!」
「んー ヤダ!」
くるりとこちらを振り返って、楓は俺の首に腕を巻きつけてきた。
「つれてって、おふとん…」
酔いで潤んだ瞳を向けられる。甘い酒の匂いにまじって、彼女の優しい香りがふわりと俺を包む。
なにかがこみ上げそうになるのを必死に抑えて、おさえこみまくって俺は、彼女の膝をかかえ、ぐいっと抱き上げた。お姫様抱っこというのは照れ臭いから、荷物みたいに片手で担ぐ。
そんなに苦ではないのは、日頃時間があればジムに行っているおかげだ。
三十の男がいつでも大事なものを守れるように、と必死に考えた結果が身体を鍛えることだったが、今のところ、酔った親友の妹を抱え上げることにしか使っていない。
「わぁ、高い!じめんがたかいねえ…… 斗悟さん、せがたかいねえ」
ふわふわした声が背中で聞こえる。
「俺は別に、そんなに高くない」
こいつの兄貴の方が3センチ高いし、筋力もあるはずだ。大事な友であり、ライバルでもある。そして、俺の大切なひとと血が繋がっているという、喉から手が出るほど欲しいものをこの世で唯一持っている男。
突然沸いた、灰色の感情を遮るように、俺は彼女を抱き直した。
「高いよ、背、がっちりしてて、だいすき」
酔いに任せて好き勝手なことを呟く楓を無視して、ベッドルームのドアを乱暴に開ける。
彼女が引っ越してくる時に大きなベッドを買い足した。余っている部屋を彼女の部屋に作り替えるのはとても楽しく、新しい事業を手掛けるのと同じくらい気分が高揚した。
部屋を見た彼女の嬉しそうな悲鳴をきっと俺はずっと忘れない。
でも最近はすこし、苦しい。
スプリングの効いたマットに彼女をゆっくりおろしてやろうとすると、楓は首に回した手に力を入れ、離れようとしない。
「おい、はなせ」
「ヤダ」
「酔いすぎだよ、オマエは。こんなんでよく無事に毎回帰ってこれるよな。俺が車で迎えに行けるときはいいが、そのうち誰かに持ち帰りされるぞ」
ふふふ
不意に彼女は笑い出した。
「そんなことみんなしないよ。むしろ、してくれたらいいのに」
「はぁ?何言ってる?」
彼女はするすると俺から降りると、自分でベッドに突っ伏した。 うつ伏せになった口元から、声が漏れる。
「……誰かにお持ち帰りされたら、そのほうが全然いいってことだよ」
「……意味がわからないな」
「わかんないならそれでいい……」
くぐもった声に。少し震えている肩に。
拳を、にぎりしめる。
「楓」
「……もう寝ました」
「かえで」
答えはない。俺は、大きくため息をついた。
「……女性が、そんな風にいうもんじゃない。だいじにしなきゃ、」
「斗悟さんじゃないなら、誰だっていいんだから、誰だって一緒だよ。大事でもなんでもない」
「おまえは、だいじな、預かりものだ。アイツの。だから……」
彼女は答えない。もう、眠ってしまったのだろうか。
静かに一歩近づくと、肩口からすやすやと穏やかな寝息が聞こえる。
下着姿の楓は、柔らかな肌を酒の色に染めている。剥き出しの肩のまあるくなめらかなラインと、キャミソールの紐がかかった肩甲骨が妙に艶めかしい。
いつの間に、こんなに綺麗になったのだろう。
とうごおにいちゃん、と呼ばれていたのが、いつからか斗悟さん、と他人行儀になった。尊敬と憧れの眼差しを目にいっぱい溜めて俺と兄を追いかけてきていた少女は、ある日その視線に甘さを滲ませていた。
それに気づいているのを知られないよう、自分の義務を毎日確認するようになった。
彼女の幸せだけを願っていなければならない。アイツの、兄の代わりになれるように。
俺は、決して見せるつもりのない感情を覆うように、背中まで布団をかけてやった。
頬に触れそうになる指をぎゅっと、押しとどめる。そして部屋を出た。
後ろ手に締めたドアの向こうから漏れるすすり泣き。
聞こえないふりをする自分に、俺は、いつか嫌気がさすのだろうか。
兄の親友 @yurayurawater
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