第2話

 うっそうとした森の中をしばし進むと、そこには古びた御堂があった。


 もう何年、何十年と人の手が一切施されていないこの場所は、よく出るという。


 そんな噂の真偽を確かめたものの、結局なにもなかったことに蒼依が落胆したのは言うまでもない。


 それはさておき。


 人気のないこの場所は、これからすべきことにとって絶好の場所だった。


 誰にも迷惑をかけることもなければ、敷地もそれなりにある。


 空間による制限を受けることもなく、思う存分に全力を発揮できる環境だ。


 もちろん、それは目前にいるこの女性とて同じく言えること。



「――、それでは改めてお尋ねしてもよろしいでしょうか?」


「どうぞ」



 すでに腰のそれに手をかけた蒼依に対し、女性はというと依然妖艶な笑みを浮かべたままであった。


(よっぽど余裕があると見える……)


 蒼依は、ついに腰からそれをすらりと抜いた。


 刃長はおよそ二尺三寸七分約71cmと、重ねが分厚くまさしく剛刀と呼ぶに相応しい白刃が特徴的だ。


 この葦太刀に特にこれといった銘はない。どこぞの質屋で格安で売っていた、いわば無銘の太刀である。


 名のある刀匠のそれと比較すれば知名度はおろか、雅さの欠片もない無骨な造りでこそあるものの、優れた耐久性と切れ味を誇る。


 手にして以来ずっと、蒼依の半身としていつも彼の傍らにあった。


 蒼依がそんな太刀を抜いた。


 女性はというと……先程となんら変わった様子はなし。


 妖艶な笑みを保持して、蒼依のことを愛おしそうにただじっと見つめるのみだった。


 太刀を抜けば少しは恐怖するかと思いきや、彼女にはそれが全くと言っていいほどない。


 こうも肝が据わった女性というのは、なかなか珍しくもある。


 身なりこそ白いワンピースが恐ろしく似合っているが、真剣を前にしても余裕であるのは、それだけ腕に自信があるということ。


 これは、油断をした瞬間から負ける。蒼依はそう瞬時に判断して、静かに正眼中段に構えた。



「――、もう。刀をいきなり向けるなんて、ちょっと過激すぎるんじゃないかしら?」


「えぇ、そうでしょうね。あなたが普通の人間だったら、こんなことは私だってしたくありませんよ。ですが、そうでもしないと勝てそうにありませんので、ね」


「もしかして、アタシが君を食べるとか……そんな風に思っちゃってる感じかな?」


「義父さんの言葉を聞けば、そうとしか捉えられませんよ……まぁいいです。それよりもあなたに一つ、お尋ねしたいことがあります」


「訪ねたいこと? なにかしら? アタシのことだったらなんでも聞いて?」


「……残念ながら聞きたいとはあなたのことじゃありません。あなたは、たった一振りで敵を八つに裂いてしまう剣士について知っていますか?」


「……えっと、ごめん。なにそれ?」


「あ、知らないみたいですので大丈夫です。どうかお気になさらずに」


「いやいや! 普通に気になっちゃうからねそれ!」



 この女もどうやら知らないらしい。蒼依は小さくため息を吐いた。



「……なんだか、ものすごく馬鹿にされてない?」


「気のせいです――とりあえず、今の話は忘れてください。それで、結局のところ私をどうしたいのか……それについて教えていただけないのでしたら、こちらとしてもそれなりの抵抗はさせていただきますが……よろしいですか?」



 蒼依のまっすぐな視線が女を貫いた。


 それは人を斬ることになんら躊躇いのない、武人としての瞳だった。


 ぎらぎらとした輝きは炎のようであるというのに、その瞳の奥底に宿る感情は殺意――絶対零度の如き冷たさに、女は柔らかな笑みを返した。


 より厳密にいうのであれば、先程よりもずっと恍惚とした笑みであった。


(本当に、とんでもないバケモノっぽいな……)


 蒼依はそう思う傍らで、ふと口角を釣りあげた。


 怪異を退治する……御伽噺であれば、この手のシチュエーションはなんら珍しいものではない。


 むしろまたか、とそう口走っても過言ではなかろう。


 それほどまでに世に排出こそされた設定だが、よもや自分がそれを担うとは蒼依は想像すらしていなかった。


 怪異は確かに、ここタカマガハラには跋扈している。


 しかしながら彼が今日に至るまでに退治したものといえば、せいぜいが小ぶりなものばかり。


 むろん、小ぶりであるからと油断することなかれ。例え見た目が童ほどであろうと、中身は歴とした怪異であることにはなんら変わりはないのだから。


 油断をすれば手痛い目に遭うのは己自身である。


(今までが雑魚だったら、今から相手にするのはボスキャラってところか……あぁ、このシチュエーションは――)


 なかなかに悪くない。蒼依はふっと、不敵な笑みを浮かべると一歩、静かに前へと出た。



「あぁ……あぁ……! いい、すっごくいいわ! やっぱりあなたを選んでおいてよかった!」


「こちらとしては、選ばれたくなかったんですけどね」


「もう、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。まぁいっか。それじゃあ少しばかり戯れましょう?」


「…………」



 こうして会話を交える間にも、蒼依は着実に己が間合いへと入るべく歩をじりじりと進める。 


 対する女は――やはり動きがまるでない。武装するわけでもなければ、なにか力を行使するわけでもなし。


 両手を小さく広げる姿は、まるで自らの胸にこいと言わんばかりで隙だらけである。


 誘っているのは明白だ。ここで隙だらけだと飛び込む方が愚行というもの。


 蒼依は、至って冷静だった。挑発に乗ることなく、己のリズムを決して損なうことなく。確実に敵手を仕留めるよう、全神経を太刀に集中する。



「――、ッ!」



 蒼依は地を蹴った。


 とんというその足音はとても軽やかなもので、戦場においてはいささか不釣り合いだと言えなくもない。


 単なるステップであれば、およそ三間約5.4mをもあった距離が瞬く間にゼロになることは決してない。


 彼の太刀筋は、例え敵手が女性であろうと一切の手加減がない。


 乱れのないまっすぐできれいな太刀筋は、確実に命を奪うための技であった。


 唐竹斬り――人体において一番堅牢とされている頭蓋骨を両断するのは、決して容易なことではない。


 動かぬ的であるならば――兜割。堅牢な兜をも両断することができたのならば、もはやその者の剣を防ぐ術はなし。


 ありとあらゆる鉄壁の防御さえも、科の太刀筋の前では紙切れのごとくひどく脆い。


 とは言え、常時目まぐるしい速さで動く標的に果たしてそれを実行できるか、となると話はがらりと変わる。


 特に達人同士であれば、それは至難の業に達しよう。


 蒼依は、決して油断するつもりはなかった。


 あのヒデヤスが心底より恐れた相手である。見た目が単なる美しい女性だけでないことは明白だ。


 故に加減は一切せず、初太刀から全身全霊ありったけをこめる。


 この初太刀は脅しのつもりは毛頭ない。


 ほんのちょっとでも刀傷を負えばあっさりと退いてくれるだろう、などという甘い考えが通用する相手ではないのだから。


 女性を斬ることに、蒼依も人の子だ。ためらいや罪悪感の一つぐらいは多少なりにもある。


 しかし、この時の蒼依の胸中にはそれがまるでなかった。


(このまま倒れてくれればそれでよし……倒れなかったら……)


 その時は、死ぬまで刃を振るうまで。


 蒼依の唐竹斬りは、まっすぐと女性の頭頂部へと落ちる。


 ひゅん、という鋭い風切音が一つ鳴った。その鋭さから彼の太刀筋が、いかに鋭利であるかを物語っている。


 直撃すれば、間違いなく勝負はついていただろう――もっとも、当たりさえすれば、の話だが。



「――、うん。とってもいい太刀筋。私を殺すのにまるでためらいがない」


「……………」



 やはりこうなったか、と蒼依は胸中でもそりと呟いた。

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