桎梏

石堂十愛

第1話 はじまり

この桜が朽ちる頃、私の命も尽きるだろう。愛しいあの者への想いもまた、塵へとかわるのだ。

 


「その桜に触れてはいけないよ」

 祖母は昴の手を引きもときた道を歩き出した。

 乾いた祖母の手は急に汗ばみ、幼い昴にもその緊張は伝わった。

「この山に、この季節になると現れる妖木なんだよ」

 背負ったカゴの中には、さっきまで二人で集めていたキノコがつまっている。枯れ木の中のその桜はあまりにも鮮やかで、まるでそこだけ時間の流れが止まっているかのようだった。

「妖木ってなに?」

 昴は幾度となく振り返りながら、だんだんと足早になる祖母に歩幅を合わせた。

「もののけだ。人でないのに人に関わろうとしてくる」

「悪いもの?」

「おっかないものだ。」

「あんなにキレイなのに?」

「キレイだからおっかないんだよ。」

 祖母はふと立ち止まり、昴の両肩を両手で掴んだ。

「あの桜は女だ。男は特に魅入られやすい。決して近づいてはいけないよ。約束だよ。」

 昴はそっと頷く。

「見たことも、誰にも話さないようにね。」

「うん。」

 祖母は再び昴の手を取ると、さっきよりも強く握りしめたまま、足速に歩き出した。

 

 ※

 

「またあの夢だ」

 昴はベツトから半身を起こすと、枕元にあった煙草に火をつけた。

 幼い頃、祖母と山で見た桜の夢。

 枯木だらけの山の中、満開に咲き乱れる一本の桜の大木。

 あれから何度も同じ季節にあの山に入ったが、その桜に出逢うことはなかった。

「なんで今頃こんな夢…」

 昴は今年で二十一歳になる。あの山での出来事が夢でなければ、丁度十年前の出来事だ。

 その後気になって調べたことなのだが、春以外に咲く桜は結構あって、さして珍しい事でもないようだった。不断桜をはじめとし、十月桜、四季桜など全国にも名所はあるし実際に幾つかの場所には昴自身も足を運んだ。

 だが、どの桜もあの山で見た程の華やかさはなかった。

 自分の記憶が美化されているだけかもしれないと思っていたが、夢の中で見るあの桜はやはり実際に見たどれよりも華やかで、美しく、幻想的であった。

 しばらく外を見つめてぼぅっとしていたが、携帯の着信音で現実に引き戻された。

「はい」

「昴?」

「うん?」

 母親からだった。昴は地元の秋田県を離れ、今は東京で一人暮らしをしている。上京してまだ一年程だが、母の声が妙に懐かしく感じた。

「おばあちゃんが亡くなったの」

 悲報だった。

「うん」

 最近はよく祖母と桜の夢を見るせいか、不思議と驚きはなく、あまりに冷静な自分にうんざりした。あの夢は虫の知らせだったのだろうか。

「今日、すぐ帰るよ」

「駅まで迎えに行くから、近くにまできたら連絡ちょうだいね」

「わかった」

 電話を切ってからしばらくまたぼぅっとした。脳裏にはあの満開の桜が舞い乱れている。もう十一月だというのにふと桜の香りがした気がした。

 

 ※

 

 ヴェネツィアはイタリア屈指の観光地として知られ、その美しさに移住者も多いと聞く。

 百十七の島々からなり、百五十の運河を四百の橋が結ぶ。避難民の作り上げた水の都である。

 花梨はリアルト橋に佇み、行き交うゴンドラを目で追っていた。

「ボンジョルノ」

 橋の上を行き交う人々が気さくに声をかけては通り過ぎていく。

「ボンジョルノ」

 花梨はそれに笑顔で応える。

 まったく知らない人と気軽に挨拶を交わすことにも、ここ一週間で随分慣れた。

 ヴェネツィアは豊かな街だ。食を慈しみ、人々の笑顔は絶えることなく、ここには忘れかけた何かがある気がした。

 ふと自分の住む東京を思い出し、花梨は失笑した。

「何してるの?」

 突然の日本語に花梨は少し驚いた。振り向くとそこには、背丈の高い一人の青年が立っていた。深くかぶった帽子の合間から大きな栗色の瞳がのぞく。おそらく日本人だろうが、彫りの深い美しい顔立ちをしている。

「観光」

 花梨は男を見据えてそう答えた。

「少し話さない?」

 男はそう言うと、帽子を脱いで花梨に一礼した。

「結構です」

 花梨はまた、川の方へ体を向き直す。男は少し困ったような顔をしながら、花梨の横に肩を並べた。

「ゴンドラが好きなの?」

「珍しいだけ。日本にはないから。」

「でも朝からずっとここに立ってるよね」

 花梨が怪訝な視線を向けると、男はニッコリと笑って川の向こうを指さした。

「僕はあそこで働いてるから、この橋はよく見える」

 男の指さした先にはゴンドラ乗り場があるようだった。

「ゴンドリエーレ?」

 花梨はなんとなく問い返す。

 ゴンドリエーレとは、いわゆるゴンドラの漕ぎ手の事でヴェネツィアでは立派な職業である。ヴェネツィアという街には車が走っていない。つまり移動はヴァポレット(水上バス)かゴンドラ、もしくは徒歩ということになる。

「まさか。観光客の通訳やガイドをしてるんだ」

 男はまた屈託のない笑顔を花梨に向けた。

「暇なんですか?」 

「今は昼休み」

「私と話しているとお昼休みがなくなりますよ」

「構わない。君と話してみたかったんだ。」

「女性の一人旅は、現地に知り合いがいるか、失恋旅行だと思っていたけど君はどちらでもないみたい」

「なんでそんなこと分かるんですか」

「なんとなく」

 確かに花梨はここに知り合いがいるわけでもないし、失恋もしていない。このヴェネツィアという街に、ただ会いに来たのだ。それも突然思い立って。

「今君はフリーだから昼食くらいはいいよね?ディナー じゃないし。」

「なんですか、いきなり」

 旅行先で日本人にナンパをされることは珍しくないが、ここまであっけらかんとした男は初めてだった。しかも「君」という人称代名詞を使っても違和感がない不思議な男だ。

「僕、今日は朝から君とランチをすると決めてたんだ」

 男はおそらく三十は過ぎていると思うが、「僕」という人称代名詞を使っても違和感がないようだ。

「彼氏がいるので」 

「嘘だね。」

「本当です」

「嘘つきは三日で飽きる」

「飽きるのは美人で、嘘つきは泥棒のはじまりです。」

「そうだっけ?」

 海外の生活が長いのか、少し、日本語が不自由な印象をうける。

「知ってる?」

 男は花梨をじっとり見つめた。一瞬何かデジャヴのような感覚に陥る。

「俺は君がものすごくタイプだから、口説かないと一生後悔する」

「そんなこと言われても困ります。」

 ふと時計を見ると男に声をかけられてから、もう十五分以上経っている。

「お昼休みがなくなりますよ?」

「うん。だから早く食べに行こう」

「だから何で」

「行こう」

 男は花梨の言葉を遮ると、手を取って走り出した。

「ちょっと…」

 手をふりほどけないほどの力です男はどんどん進んでいく。

「おいしいカフェがあるんだ」

 男は嬉しそうに花梨の手をひいて、ひたすらと走る。ずっと走っているうちに食事くらいならしてもいいかなという気になってくるから不思議だ。そういえば、今日は朝から何も食べていない。

「朝からずっとあそこにいたんだもん。おなかは空いてるでしょ?」

 男は花梨の心を見透かしたようにいたずらっぽく笑った。

「だから」

「ここ」

 ヴェネツィアの街をしばらく走り、男は突然足を止めた。花梨は勢いあまって男の背中にぶつかる。

「大丈夫?」

「急に止まらないで」

 ふと見上げるとそこの二階にはこじんまりとした佇まいのカフェがあった。

「可愛いお店で料理もおいしいんだ。」

 一階は全て壁になっていてどこから入るのかさっぱりわからない。ここは建物の裏側なのだろうか。

 男はおもむろに石壁に手を当てて、くるりと回転させた。

「ここから入るんだ」

 石造の扉はいとも簡単に開き、男は花梨の手を引いたまま店内へ足を踏み入れる。

「僕のお気に入りの場所」

 一階はバーになっているようで、まだ昼過ぎだと言うのに楽しそうにお酒を飲み交わしている現地の人で溢れている。

「こっち、こっち」

 男は花梨の手を引いて狭い階段を登っていく。建物が古いせいか足場が悪く、階段も所々崩れているようだ。

「気をつけて」

「平気」

 そう言いながらも、男に手を引いてもらっていなかったら躓きそうな自分に失笑する。ヴェネツィアという街はユネスコの文化遺産登録基準6つすべてを満たしている数少ない世界遺産の一つで、歴史、文化ともに大変重要な街と評価されている。建物の修復にも多くの場合届出が必要で、改装には時間がかかるため少しくらいの崩れの場合は直さないことも多いらしい。

「さぁ、どうぞ」

 男がステンドグラスの扉を開けると、そこには緑豊かなテラスが広がっていた。一階とは随分と違う雰囲気である。

「こういう場所は現地の人しか知らないから、きっといい想い出になるよ」

 男は一番奥まった所にあるテーブルの椅子をひくと花梨に座るように促した。

 席に着いた瞬間、なんだか懐かしい花の香りがした。

 

 

 ※

 


 東北新幹線の乗り場には、平日だといのに人が溢れていた。東京は本当に人が多い。はじめて東京に来た日は、こんなところで生活していけるのか不安に思ったものだが、今では人が多いのにも慣れたし、複雑怪奇な駅の作りや、多すぎる出入口もだいたいは把握しているから不思議だ。

「すみません」

 昴が振り向くと、銀座六丁目にいそうな女性がじっと自分のことを見つめていた。

「京都に行きたいんだけど」

「京都ですか?新幹線はのぞみなので東北新幹線より奥ですね。あっちです。」

「ありがとう」

 女性はじっと昴を見つめている。

「あの何か?」

「すみません。知っている人にとてもよく似ていたから、つい。」

「そうですか」

「じゃあ失礼します」

 昴が新幹線の乗り口に向かおうとした時、ふいに女性が昴の腕を掴んだ。

「あの桜に今度は会えるわ。だから元気出してね。」

 昴は女性の言葉の意味が理解できず硬直した。人間が驚いて言葉を失うというのはこういうことなのかもしれない。

「急にごめんなさい。じゃあ。」

 女性は昴の腕を離すと足早に走り去った。あまりのことにしばらくその場に立ちすくんだが、自分が乗る予定の新幹線ガイダンスで慌てて入口を通過した。

「あの女性は桜のことを知ってた?」

 新幹線の席に着いてから、疑問が浮かぶ。昴にとっては見たこともない女性で、おそらく普段の生活でも縁遠いタイプである。共通の友人になり得るような人も思い当たらないし、何より桜のことは誰にも話していない。

 久々の故郷で、あの桜にまた会えるのだろうか?昴の中での疑問が、確信に変わりつつあった。大宮に到着し、また人が流れ込んできた。

「あれ?昴君?」

 新幹線の車内通路を歩いてきた男性に声をかけられた。

「博道おじさん」

「久しぶりだね。そっか、いま東京にいるだったか?婆ちゃん残念だったなぁ。」

 博道おじさんは、母の兄で今は埼玉で事業を営んでいる。

「あいつも大変だろうから、少しでも早く行って家のことでも手伝おうかと思ってな」

 あいつとは母のことである。

「ありがとうございます。駅まで母が迎えに来るので一緒に帰りましょう。」

「うん。頼むわ。ありがとう。隣いい?一人で新幹線は退屈だなぁと思ってたんだ。」

「どうぞ」

「昴君はいくつになったんだった?」

「二十一です。」

「お、じゃあお酒は飲める年だな。何か飲もう。ビール?ハイボール?」

「じゃあビールで」

 タイミングを見計らったように入ってきた車内販売の台車から博道は、ビール二つとつまみを購入し、昴に手渡した。

「ありがとうございます」

「あんなに小さかったのに、もうお酒飲めるのかぁ。なんかあっという間だな。婆ちゃんも年取るわけだ。帰るのはいつ振り?」

「一年振りです。」

「昔はよく山で遊んだけどなぁ。なんかすっかりこっちの生活に馴染んじゃって、野生が薄れてる気がするよ」

「あの」

「ん?」

「おじさんはあの山で秋に咲く桜を見たことはありますか?」

 唐突な質問に、博道は少し驚いたような顔をして昴を見返した。

「小さい頃お婆ちゃんと一緒に見た記憶があるんですが、今日もその夢を見て、そしたら母から電話がなりました」

「そりゃ、虫の知らせだなぁ。」

 博道は少し遠い目をしながら、ビールを口に含んだ。

「俺は桜を見たことはないけど、見たって言ってる奴は何人かいたぞ」

「そうなんですか?」

「ただ、そう言ってた奴はみんないなくなった。引っ越したりしてなぁ。連絡先も知らないし、本当にその桜があるのか、今となっては分からないなぁ。」

「地元の人はみんな知ってる話なんですか?」

「都市伝説みたいなもんだな。田舎の神隠しや狐つきと一緒だ。秋に咲く桜が人を狂わせるって話だ。」 

「地元なのに、そんな話全然知りませんでした。」

「聞かなきゃ知らないし、年寄りは好んでは話さないからなぁ。」

「あの時はすごく疑問に思って、何度もお婆ちゃんに聞いたんですが…」

「婆ちゃんからは、見たことを誰にも話すなって言われたんだろ?」

「はい。」

「婆ちゃんは色々見える人だったから。俺はよく知らないけど。イタコみたいな仕事もしてたらしいぞ」

「そうなんですか?」

「あの辺じゃ有名な人だったらしい。」

 祖母が亡くなってはじめて、祖母の「人となり」が見えた気がした。

「昔亡くなった爺ちゃんが婆ちゃんの夢枕にたって、杖を燃やしてくれってせがんだことがあってなぁ。あの世で杖が必要だったらしいんだけど、墓の前で燃やすの手伝わされたよ。お焚き上げするとあの世に届くんだって。今考えると笑い話だなぁ。」

 博道は懐かしい記憶が蘇ったのが、柔らかく笑った。

「そういえば、雄物川の石を持ち帰った時、すぐ戻してこいって、お婆ちゃんにすごい怒られました」

「川の石には色々憑いてるらしいからなぁ。それは俺も昔怒られたことあるなぁ。」

 博道はまた柔らかく笑った。秋田県南部には怪談話が多い。そして、目に見えないものを信じない人の方が少ない風土だ。家族が亡くなったら、その年その家の子供は一年間海や山へ行っては行けない。学校行事ももちろん不参加になる。家族や学校にとってそれが「当たり前」なのだ。海や山に行くと「連れていかれる」というのが理由らしい。誰かが亡くなったら降霊会を設けて「失せ物」を探したりもする。目に見えないものと共存しているのだ。それは人々に語られるだけで、実態はないのかもしれない。だが、昴が見た桜のように存在する場合もあるのだと思う。人の想いや念というのは侮れない。想像しうることは現実になるし、信じていることはそれが常識であるように感じられる。自分にとっては普通だと思っていることが、他の地域の人からするとミステリアスに映ることがしばしばある。

 大宮を過ぎると次は仙台である。随分と長い距離、この新幹線は何処にも止まらないのだ。昴は窓の外に視線を移し、ビールを口に含み、少しずつ都会から田舎に変わる景色を眺めていた。

 

 

 ※

 

 

「レインカーネーションって知ってる?」

 真向かいに腰掛けた男は花梨に向かってそうささやいた。

「輪廻?」

 花梨は頬杖をつきながら答える。

「信じる?」

「信じない」

 花梨は即答する。

「運命とか憧れない?」

「憧れない」

「僕は信じてるし、憧れる」

「もう決まっている運命や、自分が自分でない頃の記憶があるなんて信じられない」

「もしその事実を知る機会に恵まれたらどうする?」

「どうもしない」

「どうもしないって」

 男は腹を抱えて笑っている。

「相変わらずだなぁ。」

「相変わらずの意味が分かりませんけど、だいたいおかしいじゃないですか。自分が違う人間だった頃のことを覚えてる現世の人がいるなんて」

「あり得るよ」そんな事例はたくさんあるし、小さい頃から昔の記憶を持ってる子供だっているでしょ?前世とは違うけど、臓器移植でその人の記憶が移ることもあるよね?」

「でも、生と死については生きているうちは予測でしかないと思います。死んでみないと本当のことはわからないし」

「相変わらず、真面目すぎ。」

 男の栗色の瞳が花梨を見据える。少し目にかかった前髪が風に揺れた。この男とは初対面なはずなのにそんな気がしない。この男が前世の自分のことを知っているとでも言うのだろうか。花梨は不思議な感覚で男を見つめた。

「この香りなんでしたっけ?」

「桜だね。懐かしい。日本の香りだ。」

 ヴェネチアにも桜があるのか、とふと思った。

「ローマには桜並木もあるよ。今度行こう」男はまた、美しく微笑んだ。

「なんであなたと…」

「僕は君に一目惚れしたんだ。約束をしたらニ度目の可能性があるでしょ?」

「私はもう明日帰国しますし、あなたはここに住んでいるんですよね?またいつ私がこっちに来るか分かりませんよ?」

「うーん。僕はいつまででも待てるし、待ちきれなくなったら日本に行くよ。そしたら日本で桜を見よう」

「不確かな約束はしません」

「相変わらず、頑固だね」

 男はまた屈託なく笑った。また、相変わらずという表現をする。花梨はこの男には絶対に会ったことがない。色素が薄くモデルのような出立ちでかなり目を惹くタイプだ。もし幼い頃に会っていたとしても覚えている自信がある。

「君は今生で僕と会うのは今が初めてだよ」

 男はまた、花梨の心を見透かしたような発言をした。

「今日の夜、もうひとり懐かしい人と会うことになると思う。君と彼女は気が合わないけど、僕と彼女は仲良しなんだ」

 男は少し懐かしむように視線を流して、また微笑んだ。なにやら楽しそうである。

「彼女はもうひとりを、僕は君をすごく大切に思ってる。」

「彼女って?」

 気になるところで、料理が運ばれてきた。

「これはイル グラン フリトインっていうフライにした魚とポレンの料理だよ。食べてみて」

 男は美しい所作で取り分けをしてくれる。

「ここのはすごくおいしい。君は炭水化物は昔からあまりとらないから、こういう方が好きでしょう?」

 確かに炭水化物は苦手で、惣菜やお肉が好きだ。ただ、フライは好物である。なぜ彼がそんなことを知っているのか、疑問しかないのだが。

「こっちはディスコ ヴォランテ。君の好きな茄子とハム、しかもモッツァレラチーズ入り」

 男は花梨がチーズを好きなことも知っているようだ。

「バッカラマンテカートも外せないね」

「干しダラのムースですね。ここ数日よく食べてました」

「名物だからね、でもここのは更においしいよ」

 男はそう言いながらプロセッコをさっと持ち上げて花梨に促した。

「乾杯」

 男が柔らかく微笑むと場が華やかになった。男の乾杯に合わせて近くの客席の人たちが次々と乾杯をする。これは外国だからなのか、この男がもつ能力なのか、花梨には図りかねるが、世の中には、ただそこにいて微笑むだけで雰囲気を柔らかく華やかにする人というのが存在する。そしてそういう人は甘い蜜がある花のように人を寄せつけるのだ。

「君が僕を苦手なのは今生も変わらなそうだね」

 男は悪戯っぽく笑い、花梨の鼻をやさしく弾いた。

「苦手?まぁ確かにコントロールできない人は苦手ですが、嫌いではないですよ。本当に嫌だったら食事はしないし」

 たぶん気のせいだとは思うが、花梨の一言に一瞬男の瞳が潤んだように見えた。 

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