守ってなんか、いない

あき

とくべつ

 灰色の雲が視界の見渡す限り先の先まであたりを浮かんでいる。ふとした拍子に雨粒が降り注いでしまいそうな雨模様。学校が終わり、帰路へ着いている俺は残念ながら傘を持ち合わせていない。

 いくらか歩みを早めてみたけど、放課後の気怠さに負けて普段の速度でアスファルトの道を歩いた。


 十月末にもなるといくらか寒くもなってくる。日常のなかで徐々に白さが足されていくのを何となく肌で感じる。

 不意に漏らした吐息が、空中で混ざって霧散していく。まだ白息にはならない。近いうちに迎えにいかなければならない季節のことを想うと、既に身震いしそうになる。


 耳から流れてくる足音を聞いているうちに、いつの間にか家の前に立っていた。

 歩き終わるとともに、訪れることのなかった雨天にささやかな感謝を告げた。


 


 夕暮れ時、カーテンが開かれている窓から未だに雨を落とそうとしない雲たちを眺めながら、ソファの肘掛けを枕代わりにして寝そべっている。

 テレビ台の近くに積まれているレンタルビデオ屋のDVDは、まだ半分すらエンドクレジットに辿り着いていない。このままでは滞納行きは免れない。だけど、いまはそれを手に取りはしなかった。


 俺はソファの上で仰向けになり、夕飯を用意しているであろう妹の調理音に耳を傾けながら、瞼を閉じた。

 しかし、それからすぐに「たまねぎがない!」と台所から発したであろう声で瞼を開けることになった。天井が映し出される。

 叫びというよりかは、悲痛な感情が読み取れるような声だった。

 俺がそちらに視線を向けると、すでにあちらは俺に視線を向けていた。つまり、そういうことだろう。

 妹は俺にうんうんと精一杯頷いた。うんうんと頷き返す。「たまねぎがない」と、もう一度妹は繰り返した。


「そりゃ大変だ」


「買いにいかないと、たまねぎがない」


 至極当たり前のことを彼女は言う。玉葱が人参みたいに足が生えることがあれば、買いにいかなくとも調理されるために遊びに来てくれる可能性があっただろうか。そんなの、わかりきっている。


「いってらっしゃい」


 となると俺がすることは、妹が近くのスーパーマーケットへ出掛けるのを見送ることぐらいだ。


「たまねぎ、ない」


「ないみたいだな」


「このままでは、お兄ちゃんはカレー抜きになってしまう」


「それは困った」


 観念してソファから立ち上がると、俺は財布と鍵だけ手に取った。部屋着はそのままに冬用のアウターを着る。無精。


 結局、妹もコートを着てついてくることになった。それは始めから必然かのように思えた。

 傘立てからビニールの傘を取り出したあとに妹にも促したけど、彼女は手ぶらで外へ出た。俺は紺色の傘に変えた。

 鍵を回したあとに空を見上げると、やはり降り出しそうという気持ちは、止まるどころか増幅していった。

 

 いまのところ持て余している傘を、左右で持ち替えたり掴む部位を変えたり手で弄っていると、妹はとなりで鼻歌をうたいはじめた。

 聞き覚えのあるフレーズが流れてきて、思い出すために頭のなかで繰り返す。喉にすら届かない。


 スーパーマーケットの青果売り場で玉葱を手に取り、それからお店をゆらゆらと回った。

 割引されたお惣菜とか冷蔵庫からなくなりそうな卵をカゴに入れて、ついでに俺たちの好きなお菓子を適当につまんだ。

 玉葱だけのはずが、いつの間にかお会計は三桁を超えていた。

 レジ袋にすべてを詰め込んで俺たちはスーパーマーケットを出た。外は暗くなっていて、すでに街灯が点いていた。

 

 水滴に打たれた気がして空を眺めると、それは思い過ごしではなく、ぽつぽつと静かに空は泣き始めた。小さい雨。

 妹は、渡した傘をさすと俺のそばへやってきて、俺たちは肩を寄せ合って、歩調を合わせた。妹は俺の身長に合わせて腕を伸ばす。そこらへんに置かれているビニールの傘よりも一回り大きい紺色の傘は、俺たちを包み込んでくれた。


「これくらいの雨だと傘をささなくてもあまり変わらないな」


「小糠雨だもんね」


「こぬかあめ?」


「霧のような雨」


「初めて知った」


「米糠からきてるんだって」


「霧雨とは何が違うんだ?」


 しばらく妹はうーんと頭を捻ったあとに、「わからない」と言ったが、何故だか楽しげだった。


「でもわたしは小糠雨のほうが好き」


 妹はほどなくして、季節外れにも「Last Christmas」をうたいはじめた。ひとつひとつ丁寧に言葉を発するように。


 薄暗いどこにでもあるような町で彼女はうたっている。なぜだか、澱んだ汚い世界のなかにいて、そのなかで妹のすがたが際立っているように感じた。

 ふと、去年も同じようなことを考えていたような気がして首を巡らすが、曖昧模糊とした記憶しか持ち合わせていない。いまはなおざりにしとくべきかもしれない。


「もうすこしで冬だな」


「さむくなるね」


「その曲が似合うようになるな」


「名曲は時期に関わらずいつ聴いても名曲だけどね」


「たしかに」


 それに、珍しいものでもない。口ずさむ妹も、濁った雲も、たわいもない話も、いままで幾つも流れてきていた。特別なことじゃないと思える。

 それを口にしてしまえば、不変的な日常の有り難みを知らないと叱られてしまうかもしれない。


 俺には、特別なことじゃないと思えることがどれだけ特別かなんてわからない。

 でも、妹がうたわなくなるような、うたえなくなるような未来には、いつまでもならないでいてほしいと、思っている。


 家に近づく頃には、土砂降りの雨が降り注いだ。まるで我慢の限界だと言わんばかりに、突拍子もなくシャワーのように地上へ撒き散らした。

 子どものように子どもの妹ははしゃいでいた。傘をたたんで雨を浴びようとしたときは流石に止めたけれど、それも悪くないなと思ったのは内緒にしておいた。



 雨はまだ降り続けるなか、両親から遅くなると知らせの電話が訪れたのは二十時を過ぎてからだった。

 それを妹に伝えると、すぐに夕食の準備を始めた。


「手伝う」


「うん、お願い」


 妹は表情にすら見せなかった。気丈に振る舞うことすら許されないのかと思うぐらいに、あまりに普段通りで。色鮮やかに飾られたおめでたい部屋とは乖離していた。


「ごめんねお兄ちゃん。お腹空いてるの我慢してくれてたのに」


「そんなの一緒だろ。そこじゃない」


「ううん、仕事だから。"仕方ないよ"」

 

 寂しくないはずない。悲しくないはずない。妹の気持ちを踏み躙ったのは、間違いなく、俺たちの両親。

 少なくとも、いくらか連絡を急いでさえいてくれれば期待をせずに済んだ。


 果たして、本当に仕事が理由なのだろうか。華やいだまちのなかをふらついているのかもしれないし、やましい遊びでもしているのかもしれない。

 だが、それはいま考えることじゃないし、疑うことじゃない。思考を放棄してもしなくても、今日がとくべつな日から、ふつうの日に戻るだけだ。

 疑いも考えもすべて杞憂で、俺が最低な人間だと認めることになればそれでいい。


「肉多めで」


「よろしい」


 俺はやるせない気持ちを抱えながら、大袈裟に、カラフルに施された装飾たちを眺めた。




 かぼちゃで象られたジャック・オー・ランタン。中身がくり抜かれ、代わりに火が灯された蝋燭が置かれてある。


 本来、ジャック・オー・ランタンはかぼちゃで作られるのではなく、カブで作るのだという。

 そのカブは、亡き人の頭蓋骨を模したものであると伝えられている。


 そして、なかで蝋燭を灯すことで死者の魂が宿り、死者を生き返ったものとして扱い、家族で頭蓋骨を囲んで祝す風習がある、と妹は俺に教えてくれた。

 ハロウィン用のかぼちゃを二人で買いに出掛けたのはそれから間もなくしてからだった。

 妹は「ちょうどいいね」と言っていた。ハロウィンの日は、母の誕生日でもあった。


 いまは使われていない、畳が敷かれている和室の部屋に入ると、やはり独特な懐かしい香りが漂ってくる。誘われるように妹も入ってくる。その香りが懐かしいと思うのは、そこにはもう居ない祖父母の姿がふわりと見えそうになるから。


 仏壇におかれている祖父母の写真は、屈託なく笑っている。せめて、妹のことを見ていてくれたらいいのだけれど。

 俺が線香を炊くと、となりで見ていた妹もそれに続いた。おりんを鳴らし、俺たちはいつものように手を合わせた。




 秒針が12の数字を指すと、時刻は午後十一時。いつもと変わらない家のなか、いつもより溜まっているゴミ箱。視聴している映画は半分は進んだだろうか。妹はソファの上で眠りかけていた。


「そこで寝たら体が痛くなるからやめとけ」


「寝ないよ」


 うとうととしていて、既に瞼を開いているよりも閉じている時間のほうが長い。DVDの映像や音声にも気付いていないように思えてくる。

 灰色の毛布をかけようとしたら、妹は無防備にそれを受け入れた。


「なんでここで寝るんだよ」


「寝ないから」


「……テレビは消すか?」


「……お願い」


 俺はテレビ周りを片付けようと立ち上がると、一呼吸おいてから"あと一時間だけ"と、妹はそう言った。ただ、それは俺に向けた言葉でも自分に向けて言ったわけでもなくて、無意識のうちに、こぼれるように吐いた言葉のようだった。


「わかった」


 リビングの明かりをすべて消して、キッチンの明かりだけを付ける。オレンジ色の淡い光がリビングから微かに感じるが、ジャック・オー・ランタンのなかで灯されている光はそれ以上に柔らかかった。俺はソファを背もたれにして床に腰掛け、近くに置いてあった読みかけの本を開いた。


「ねえ、お兄ちゃん」


「なに?」


「わたしね、ほんとはここで寝るつもりでした」


「知ってる」


「わかってたか」


「いいよ、寝てても」


「……うん」


 それからしばらくは、本のページを捲る音だけが静寂のなかを通った。ふと蝋燭に目をやると、もうすぐ溶けおわるころだった。


「お兄ちゃん」


「ん」


「寂しくないよ、わたし」


「……」


「ちょっと悲しいけど、でも、それだけ。元々はわたしがお母さんとお父さんに早く帰ってきてってわがまま言っただけだし」


「わがままじゃ、ない」


「ううん、この際どっちだっていいの。大事なのは、ここにいるのがわたしだけじゃないってこと」


 温かい感触がうなじから感じた。指先がなぞるように触れてきて、いつの間にか喉元を爪を立てるように撫でられる。だけど、爪の鋭さは感じられない。


「くすぐったいよ」


「ねむたいもん」


「……関係ないから」


 右頬を手のひらで包まれて、何度も離れては触れてを繰り返されて、鼻や耳や髪も関わっていく。盲目の少女が触れたものがなにかを確かめるためにべたべたと手を押し付けるような、それと似た妹の手つきは、やっぱりくすぐったさを感じさせる。


「去年と似てるね」


「そうだっけ」


「学ばないよね、わたし」


「そうかな」


「ねえ、お兄ちゃん」


「ん」


「一緒にいてくれて、ありがとう」


「……お礼なんて、そんなの」


「わたしにとっては、とくべつ」


 とくべつ。


「べつに、俺は」


 そんなの、帰る場所が同じだからで、家族だからで、ハロウィンの日だからで、母の誕生日だからで、妹だからで、当たり前だから。

 

 お礼を言われることなんか、何も、していない。

 何も……。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 妹にとって、俺は良い兄としていることが出来ただろうか。


 妹の手は俺の体から力が抜けるように滑り落ちていった。後ろを振り返ると、もう妹の目は開くことはなかった。

 二度と開くことはなかった。と三文小説のなかの文章に書かれてもおかしくないぐらい安らかに。


 俺は季節外れにも「Last Christmas」を口ずさんだ。名曲はいつの時期にうたっても名曲だった。どこかから音痴だねと言われた気がした。たぶん後ろ。


 ……音痴。


 ……ああ、そうか。

 この曲を妹に教えたのは、俺だっけ。



 

 去年のハロウィンの日に今日みたいな用意をして、でも両親は帰ってこなくて、それでも妹は待ち続けていた。


 ようやく帰ってきたときにはもう日付は変わっていて、両親は酒気を帯びていて、"いつもより"も煙草の臭いを散らしながら開口一番部屋の飾りを汚いと罵り、俺たちは怒鳴られた。


 両親が部屋に眠り落ちにいったあとに泣きじゃくる妹を見て、俺は側にいることしか出来なくて。いなくなってしまった祖父と祖母に今だけでも帰ってきてほしかったけど、それは無理なことだから、だから、うたった。

 子守唄の代わり、じゃないけど、安心してほしかった。いま思えばもっと別のやり方があったはずだし、声を震わせながら音痴とはっきり言われた。


 それでも歌っていくと、少しずつ妹も付いてきてくれた。おぼつかない言葉で、少しずつ。

 その姿が澱んだ汚ない世界のなかであまりにも眩しく目立っていた、ずっとずっと誰よりも。俺はそんな彼女を特等席で眺めている。

 歌い終わると、泣き腫らした目で俺を見ていた。下手だねって笑っていた。

 



 妹が眠ったあと、鍵を回す音が聞こえた。音のする方向に向かっていくと、酒の臭いと、いつもよりきつい煙草の臭いが段々と漂ってきた。

 その正体は吉報か凶報か、妹にとってはどちらの報せなのか。

 俺は、既に決まっていた。


「トリック・オア・トリート」


 使い忘れたその言葉は効力を失ったのか、お菓子が来ることはなかった。悪戯をすることもなかった。ただ、相手の訝しむ面を作り出した。


 誕生日おめでとうとはもう伝えれそうにない。


 

 

 隣で妹が身体を震わせながら白い息を吐いた。横で眺めていると足を滑らせそうになって途端に身体が強張る。


「大丈夫?」


「なんとか」


 誤魔化すように妹の髪に降りかかった雪を手で払うと、背伸びをしながら同じように払ってくれる。

 

 あれから景色はすっかり白くなっていって、今でも雪は細やかに降り続けている。


「楽しみだね」


 新作の映画を観るために、俺たちは街のなかを歩いて映画館へ向かっていた。


「空いてるといいな」


「平日の真っ昼間だよ?」


「すかすかか」


 「すかすかだよ」って妹は笑い返した。その笑顔に少しだけ罪悪感を抱く。


 朝に学校へ向かう前に家で母親と喧嘩して、むしゃくしゃしたという幼稚な理由で財布だけをポケットにしまい外を飛び出した。妹は慌てて着いてきた。制服も着たままだった。

 どこに行くのかと聞かれて、咄嗟に思い浮かんだ映画のタイトルを出すと、それから妹は何も聞かずに隣を歩き出した。


「ちょっとの熱ぐらいじゃ休まないのに、よかったのか」


「こういうときの為に休まなかったから大丈夫」


「まじか」


「まじ」


 かじかむ手のひらを見つめているとその手を握られて、するりと絡み合うように繋がった。妹の手はいつもよりも冷たくて、その原因が俺だということにいつものコートを着ていない妹を見て悟った。


「それにね、お兄ちゃんの喧嘩の原因ってわたしでしょ?」


「……違うよ」


「わたしのために怒ってくれたでしょ」


「……人のために怒れるほど優しくないよ、俺」

 

「……そうかな、そうかも」


「そうだよ」


「でもわたしはそう思ったからいいの。それに、ずる休みは一度ぐらい経験しとかないと」


「……ありがとう」


「こちらこそ」


 繋がれた手と手は少しずつ温かさを足していった。冬の寒さには叶わないけれど、それでも、そんな寒さも悪くないなと思える。


「……あ」


「どうした?」


「いまさら思い出した、忘れてた」


 なにが、と聞こうとすると妹は不敵な笑みを浮かべて、


「トリック・オア・トリート」


 お菓子くれなきゃいたずらするぞ、と彼女は言い放った。


「持ってないよ」


 その言葉は効力を失ったため、お菓子を渡せないし悪戯もされない。


「じゃあいたずらしないとね」


 はずだった。


「……え」


 俺はいたずらをされてしまった。かわいいいたずら。


 妹は「Last Christmas」を楽しげに口ずさんだ。それは街のなかで煌めきと切なさをもたらした。


 家族や学校のことについて思いを馳せながらも、帰りにマフラーぐらいは買ってあげようと思いながら、映画館まで歩みを進めた。

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