そして透明に染まる
稔基 吉央(としもと よしお)
そして透明に染まる
ベッドの真上に据えられた窓から外の様子を覗き見ると、夜の闇はすっかり深くなっていた。わざわざ外なんて見なくても、手元のスマートフォンの時刻表示を見れば外が暗いことなんて分かりきっていたけど、こんな時間に起きたままでいること自体稀な私にとっては、確認しなければならないことのように思えた。
何を持って行けばいいんだろう。
とりあえず、手に持っているスマートフォンを持って行かないことは決まっている。誰かから連絡でも来たら、私の心は休まるどころか、またつまらないことばかり考えてしまいそうだから。そうだ、自販機やコンビニで何か買えるように、少しくらいの小銭は持っておいた方がいいかもしれない。そう考えて財布の中から500円玉を一枚取り出すと、本棚の上に置いておいたコインケースに手を伸ばす。
しかし、私の手は不自然な形のまま中空で静止してしまい、ついには力なく垂れさがってしまった。私は手に握る500円玉を、そのままズボンのポケットに突っ込んだ。
結局、裸のままポケットにしまわれた500円玉を除いて、私は着の身着のまま家を出ることにした。階段で二階まで降りると、どの部屋のドアからも灯りは漏れ出ていなかった。お父さんもお母さんも既に寝ているのだろう。明日は平日だから、仕事がある二人が寝ていることは予想していた。唯一、リビングで寝ていた犬は私の存在に気が付いたようだったけど、吠えることもなくケージの中でおとなしくしていた。そんな彼に私は目配せをしてこのことを黙っているように伝えると、理解したのかしていないのか、目を伏せてまた眠りについた。そして、私はなるべく音を立てないように努めながら玄関へと向かった。
もし見つかってしまうと、私の親はきっとこんな時間の外出なんて許さない。明日は普通に学校だってあるから、そのことについても何か言われるだろう。あの人たちを起こすわけにはいかない。だけど、それは普通のことだ。もしこんな時間に娘が出かけるようなことがあって、それを止めようとしない親がいるなら、きっとそんな家族関係はどこかおかしい。
玄関まで辿り着くと、私は歩きやすいようにスニーカーを選んで手に取った。そして靴紐を結び終えると、音を立てないようにしながらゆっくりとドアの取っ手に手をかける。
しかし、ドアは私の予想に反して開くことはなく、代わりにガンという鈍い音を立てて私が出ていくのを拒んだ。私の心臓がドクンと跳ねる。そして、しばらくの間耳を澄ませて、家族の誰も起きてくる気配のないことを確認して、胸を撫で下ろした。注意を払ってゆっくりと力を込めたから、発生した音自体は大きくなかったけど、ドアが当然開くものだと思い込んでいた私にとっては寝耳に水の出来事だった。防犯対策のために両親のどちらかが閉めるようにしているのだろう。自分が家の中にいるのにドアに鍵がかかっているなんて思いもよらなかった。今度はしっかり鍵を開けてから、再度ドアの取っ手に手をかけ、力を込める。ドアはちゃんと開いてくれた。
外に出ると、つい数週間前までは夜でも不快なくらいの蒸し暑さが漂っていたはずなのに、今私の頬を撫でる風に暑苦しさは感じない。秋の訪れを知らせているのか、それともこの時間に吹く風はいつも誰かに心地よさをもたらすのか。深夜に出歩くことのない私にはどちらか判別がつかなかった。とにかく、散歩日和には違いなかった。
行く当ては何もなかったから、とりあえず南方にある国道近くまで歩いてみることにした。別にどの方角でも良かったけど、北には学校があるからなるべく離れたかったようにも思う。
国道沿いの道にたどり着くと少し驚くことがあった。こんな時間にも関わらず、道路には少なくない数の車が走っていた。それに、都会の住宅街ということもあってか、道は想像していたよりも随分と明るい。夜に対する恐怖が完全に拭い去られたわけではないけど、これなら散歩に集中できると思った。もちろん、散歩を集中して行う必要はないけど、この時の私はそんなことすら知らなかった。ただ、何か普段はしないようなことをして気を紛らわせたかった。ベッドに横になっても、寝入るどころかどんどん頭は冴えていって、考えたくもないことを考えてしまう。
私にとって
だけど、この一年で私たちの関係は少し変わってしまった。
しばらく国道沿いを道なりに歩いていて、またひとつ分かったことがあった。このあたりの地域は私にとっては地元に当たるわけだけど、今日歩いてきた道から受けた印象は、私にとって決して馴染み深いものではなかった。私を受け入れるでもなく、排除するでもない。私という存在がまったく透明になってしまったような感覚。蛍光灯や信号機など、街自体は機能しているのに、私という存在を認識するような人は誰も存在しない。朝とも昼とも違う。この街の夜の顔。
ここで暮らす人たちのうち、何人がこの顔のことを知っているだろう。
そう思うと、目的もなく始めた散歩だったけど、こうやって歩いているだけでも良いような気がしてきた。
おそらく一駅分くらいは歩いただろう所で、何か飲み物が飲みたくなった。近くにちょうど自販機があったので、そこで買おうと近づいてみると、やけに視界がちらちらと明滅していることに気づいた。近くに設置されている街灯が正常に動作していないようだった。自販機自体が明るさを伴っているから最初は気が付かなかったけど、一度意識してしまうと、どうしてかうざったくて仕様がなかった。死にかけの蝉が必死に生きようと藻掻いているようで、どこまでも無機質なのにひどく生々しく映った。近くでよく見ると、その自販機の白い体のあちこちに、何匹かの小さな羽虫が引っ付いていた。私は怖気のようなものを背中に感じて、飲み物を買うこともなく、急いで自販機を離れた。
正直に言うと、もう家に帰ってしまいたい気分になっていた。家に帰ってベッドに横になり、暗闇や、暗闇の中でもぞもぞと動く虫のことなんてただの悪い夢だったのだと、忘れてしまいたかった。だけどできなかった。
美代なら平気なんだろうな、と思ったから。
美代はよく夜に出かけることがあるらしかったから、きっとこんなことで怖がったりはしないだろう。美代と付き合い始めてからしばらくして、彼女の家は両親が離婚しているから、美代と母親の二人暮らしだということを聞いた。その母親は娘が夜遅くに遊び歩いていることについて何も口にしないんだろうか。呆れてしまっているのだろうか。なんにせよ、私は美代のようになりたかった。いつも気怠げにしているのに、やることはしっかりとしていて、器用に立ち回る美代のことが羨ましかった。だから、慣れない夜の散歩も試してみようと思った。
気分転換のための散歩なのに、また彼女のことを考えてしまっていることに気が付いて、つい自嘲的な笑いがこぼれる。気が付けば国道沿いの道もそこそこ歩いたようで、もう地元とは言えないような場所まで辿り着いていた。道はずっと一続きだったはずだけど、私の家の近くと比べると随分横幅が狭くなっていて、車一台通れるかどうかも微妙なくらいだった。街灯の間隔も心なしか開いてきているように感じる。そのせいか、あたりを覆う闇は、さっきよりも空間を侵食している気がする。時計もスマホも持ってきていないので時間は分からないけど、もう少し歩いたら帰ろうと思った。
ふと目の前に街灯とは違った明るさがあることに気付いた。なんだろうと思って近づいてみると、その光の源にはトンネルがあった。トンネルといっても随分と背の低いもので、160㎝の私が手を上に伸ばしてジャンプでもすれば簡単に天井に届きそうなので、背の高い男の人がここを通ろうと思うと少し苦心するかもしれない。だけど横幅は目算でも二メートル弱くらいはあるように見えるので、外観ほどの窮屈さはないように思える。入口には蔦やなにかが絡みついていたので、このトンネルが最近になってできたものではないことが分かった。
こんなところにトンネルなんてあったんだ、と思いながらトンネルの中を覗いてみると、入口の雰囲気とは違って、案外綺麗に整備されていて少し驚いた。こういったトンネルによくある壁の落書きや、蛍光灯が切れているなんてこともなかった。このトンネルに特別魅力を感じたというわけでもないけど、どうせならこのトンネルを抜けてから引き返そうと思った。
トンネルには等間隔に蛍光灯が備え付けられていたから、暗さに困ることはなかった。それどころか夜の闇に慣れた目には明るすぎるくらいで、トンネルの中にいると昼なのか夜なのか分からないくらいだった。入口から出口まですっかり見通せたおかげで、やっぱり見た目ほどの窮屈さは感じなかった。
トンネルの壁で面白いくらいに反響する自分の足音を聞きながら、私はここに来るまでに感じていた恐怖がいくらか和らいでいることに気付いた。それはもちろんこのトンネルのためでもあっただろうけど、未知の場所に行くというどこか冒険めいた行為が、私の心の内の多くを好奇心で占めてしまって、恐怖を隅の方へと追いやったということもありそうだった。
私はこの時になってようやく、散歩の楽しさを知ったように思えた。思えば、高校生最後の夏休みも、毎日塾に通ってばかりで友達と遊びに出かけるなんてことはなかった。だけど、空いた時間で今日みたいに散歩でもしていれば、あの鬱々とした日々のささやかな気分転換くらいにはなっていたかもしれない。
私は高校に入ってすぐに地元では一番の難易度を誇る大学を目指すことにしたから、三年のこの時期に勉強漬けの生活を送ることは想像していた。だけど、想像できていたのはあくまでも自分のことだけだ。たとえば、いつも一緒にいる友達が早々に指定校推薦の枠を勝ち取って、それ以降の高校生活を何のストレスもなく謳歌している様子を見せつけられるなんてことは想像できていなかった。一緒の大学に行くなんてことはないにしても、共に受験勉強の苦労を笑い話のネタにでもしながら高校生活最後の一年を過ごすんだろうなと思っていた。
だから、美代から指定校推薦の話を聞いたとき、私はひどく裏切られたような思いだった。別に約束していたわけでもないし、美代の口から受験勉強の話を聞いたこともほとんどなかったから、こんなのはただの私の我儘であって、美代に非がないことは知っている。そのことが余計に、私の胸の内にある行き場のない感情を膨れ上がらせていった。そして、美代に対してそんな感情を抱いている私自身が、ひどく惨めで矮小な存在であるように思えた。
その感情を上手く処理することができなかった私は、美代と顔を合わせることができなくなった。最初の頃は美代も変わりなく接してくれていたけど、何かにつけて勉強を理由につれない態度をとる私と美代の距離は自然と離れていった。
いつしか私の思考は、散歩に出かける前のものへと戻ってしまっていた。
なんで美代が指定校推薦なんてもらえたんだろう。ドロドロとした得体の知れないものが、胸の奥で渦巻いている。授業態度だって特別良いわけじゃないし、成績だって私の方が良かったのに。それなのに、なんで私だけが頑張って、美代ばっかりが……。
陰鬱な気分を抱えたまま、気が付くと私はトンネルの出口近くまで来てしまっていた。出口の先はどうやら坂になっているようで、ここからでは少しの街灯を除いて、外がどうなっているのか分からなかった。
「……帰ろ」
私はひとつため息を吐いた。
散歩をしていて、目新しさから少しの間思考の渦から抜けることはできたけど、結局はその渦にまた飲まれてしまう。明日は学校がある。それに、かなり歩いて足も疲れていた。私はトンネルの出口を抜けた。
突然、私の目の前が真っ暗になった。
何が起こったのか理解できなかった。今まで見えていたものが急にその姿を消してしまって、あたり一面が夜の闇に飲み込まれた。
はじめは貧血でも起こしたのかと思ったけど、それにしては意識がはっきりしていた。
放心状態のまましばらく経ち、目が少し暗闇に慣れてきて、もしかしてと思った。
「これ、灯り……」
灯りが、全部消えてる?
街灯も何もかも消えてしまっているとすれば、この暗闇にも一応説明がつく。だけど、そんなことってあり得る?
雷や台風なんかで停電が起こるのは聞いたことがあるけど、今は雨のひとつだって降っていない。いや、原因なんて今はどうだっていい。それよりもあたりがこんな暗闇の中、私はどうすれば……。
近くの家の人に助けを求めようにも、こんな時間に私が一人でいる説明はできそうにない。電力が復旧するのを待ってみることも考えたけど、いつ復旧するか分からない中で、この暗闇を私一人で耐えるなんてことはできそうにない。いつの間にか、さっきまでの好奇心や他の醜い感情なんてものは、すっかり恐怖へと置き換わっていた。
もっと良い方法はいくらでもあっただろうけど、この時の私には最良の選択肢を選ぶ余裕なんてなかった。
私は意を決してトンネルの方を振り返った。そして、ひどく後悔した。そこにはさっきまでの不自然なほどの清潔さで満ちたトンネルはなく、ただひたすらに真っ暗な穴があるだけだった。暗闇のせいで出口は見えず、その穴がどこまで続いているのかさえもわからない。今、目の前にあるこのトンネルが、本当に私が通ったものかどうかも疑わしいほどに、その様相は先ほど通った時とは全く異質のものだった。
恐怖に全身を侵されながらも、そのことが余計に私の思考を強烈に前へ前へと押しやった。
早く帰りたい。帰ってしまいたい。
私は恐怖で震える足を一歩、また一歩と暗闇へと踏み出していった。
トンネルの中では、壁に手をつきながらでないと、自分が前に進んでいるのかどうかもわからなかった。トンネルの壁からは、時折ザラザラした感触や、何かを潰したような不快な感触ばかりが伝わってきた。私はそれらを考えないように、ただひたすらに前へ前へと進むことだけに意識を集中させた。だけど、気にしないように気にしないようにと努めていても、そのことが余計に私の意識を絡めとってくる。
暗闇の中で手を伝ってくる感触、やけに反響する自分の足音。それらは何も見えないからこそ、より強烈に私の意識に働きかけてくる。そして生まれた不安は加速度的に私の心臓の拍動を早める。
今、私が手をついているのは本当にトンネルの壁?来るときに見た壁はそんなに汚れてた?
どんどんと私の中の不安は膨らむ。
今、聴こえてくる足音は本当に私の足音?
自分の手を見たり、立ち止まって私以外の誰かの存在を確かめたりなんてことはできなかった。私の頭は考えたくもないのに、いつも最悪のことばかりを考えてしまう。
このトンネルが残り何メートルあるのか分からない。本当に出口に向かって進んでいるのかさえも分からない。恐怖はとうに私の髪の毛から指の先まで、全身の至るところを支配していた。
私は自分でも知らない間に走り出していた。
途中、何度も壁に手をついて方向を確認しながら、必死に両方の脚を回転させた。途中でポケットから500円玉が零れ落ちたけど、最早どうでもよかった。
バタバタと地面を蹴る音は、どれだけ私が脚を速く繰り出そうが、私の近くを付いて来た。そのことが余計に私を煽る。
私は懸命に走った。恐怖に駆られながら、私の頭には彼女のことばかりが思い浮かんでいた。そして、知らないうち、私は彼女に助けを求めていた。
気が付くと、私はトンネルの外にいて、美代に抱きついて泣いていた。
美代は私の涙や鼻水が付くのを嫌がることもなく、私が落ち着くのを、ただ黙って待ってくれていた。しばらくの間そうしていると、だんだんと頭に酸素が回ってきて自分が汗でべとべとになっていることに気付いた。前髪なんてべっとりと額に張り付いている。それに、ずっと抱きついている格好でいることにも次第に恥ずかしくなってきた。
「ご、ごめん。ちょっと変になってて」
私は照れくささをごまかすように、着ていた服の肩の部分で顔中の汁を拭って、美代から離れた。
美代は、「全然いいけど、どうしたの」と笑っていた。
私は美代にここまでの経緯を話した。
美代は私の話を聞き終わるやいなや、いつものようにやさしい顔で笑った。
「あっ、笑うなよ。めちゃくちゃ怖かったのに」
口ではそう言いながらも、ここしばらくできていなかった美代との他愛ないやり取りに、気が付けば恐怖なんてどこかへ行ってしまっていた。
美代も停電の原因は詳しく知らないらしかったけど、どうやら計画停電か何かだったらしいと教えてくれた。ここ数日、新聞もニュースも見てないから、そんなことは全然知らなかった。
すっかり落ち着いた私と美代は、一緒に国道沿いの道を私の家まで歩くことにした。美代は「もう遅いから私の家泊まったら?」と言ってくれたけど、親に黙って出てきていたし、スマホもないからと今日は家に帰ることにした。
道中の美代との会話はとても楽しかった。
あれやこれやの些細な問題なんて気にしないで、会ったばかりの頃のようにただただ会話を楽しんだ。そのことがなんだか夢の中にいるみたいに心地良かった。
そして、気が付くと私は自分の家の近くまで帰ってきていた。
「そういえば、美代って家この辺だっけ」
私は今まで彼女の家に行ったことがなかったので、気になってそう問いかけると、美代は何とも言えない気まずそうな表情になった。
その表情で、美代は私のためにここまで付いてきてくれたんだと思った。
「ごめん、気付かなくて。もう家も近いから、ここら辺でいいよ。付いてきてくれてありがと」
私がそう言うと、美代は少し名残惜しそうな顔をして微笑んだ。多分、私も同じ表情だった。
「明日も学校あるしさ。だから……今日は本当ありがとね」
その言葉を最後にして、私は美代と別れた。その後はよく覚えていない。家に着くとそれまでの疲労が一気に押し寄せてきて、すぐに眠ったと思う。シャツは汗でべとべとだったけど、明日の朝一番にシャワーを浴びればいいやとベッドの中で朧気に考えたような気がする。
そのままベットに横になった私の意識は瞬く間に闇の中へと深く深く沈んでいった。
********
翌朝、私はけたたましい電子音によって目を覚ました。睡眠を妨げる鬱陶しいアラームを止めようと、目を閉じたまま枕の周りを探る。私はスマホを手に取ると、高校入学以来何百回とこなしてきた手つきでアラームを止める。
窓に据え付けられたカーテンの隙間から、朝の陽光が線となって部屋へと漏れてきているのが見えた。
階段で二階まで降りると、お父さんとお母さんはもう起きていて、それぞれコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたり、弁当におかずを詰めたりしていた。ジョンはいち早く私の姿を認めると、ダッシュでまだ階段を降り切っていない私のところまでやってきて、尻尾を振ってくれた。
「おはよ、ジョン」
私が挨拶をすると、お父さんもお母さんも私に気付いたようだった。いつもならそこで朝の挨拶をするはずだけど、今日はなんだかいつもと様子が違う。お父さんはちらと私の方を横目で見て、お母さんはどこか心配そうな表情をしている。私はそんな二人の様子を特に気にすることもなく、「先お風呂入ってくるね」と何気ない調子で言う。朝はいつもシャワーを浴びることにしているから、このこと自体は別に変なことでもなかったと思う。
だけど、一階へと続く階段へと足を向けたところで、お父さんが私に話しかけてきた。
「
私はついジョンの方を向いてしまった。ジョンも何も知らないような顔で私の方を見ていた。
シャワーを浴び終わると、私はお父さんと一緒にダイニングテーブルの席に着いた。お父さんは持っていた新聞紙を折りたたんで、少しの間どうやって話を切り出そうか悩んだようだったが、やがて口を開いた。
「昨日の晩、どこかへ行ってたのか?」
ドキリとした。
「どうしてそう思うの?」
お父さんの話し方からして、おそらく確信に近いものを持っていることは分かったから、変に言い訳をするつもりはなかった。ただ単にそう思う理由が知りたかった。
「お父さんな、いつも寝る前に玄関の鍵が掛かっているか確かめるようにしているんだ」
それだけ聞いて私はすぐに合点が行った。昨日は帰ってきて随分と疲れていたから、いろんなところに気が回っていなかった。当然、出ていく時は掛かっていた鍵を帰ってきて掛け直した記憶はない。ジョンが告げ口をするはずもなかった。私が何も言えないでいるのを見てお父さんは察したようで、「そうか」と重々し気につぶやいた。
「結菜ももう子供じゃないし、夜に遊びに行きたいって気持ちもよく分かる。だけど、もう危ないことはしないでくれ。お父さんもお母さんも心配するから」
至極切実な口調だった。
「……ごめんなさい」
私の心から出た言葉だった。
その言葉を聞いて、お父さんはコーヒーを飲み干すと、それ以上追及しようとはしなかった。
「結菜も、そろそろ学校行く準備始めないと遅れるよ」
キッチンにいる母がテーブルに座ったまま何もできないでいる私に声をかけてくれる。
お母さんも私のことが心配だったに違いないのにあえて何も聞いてこない。大事にされていることが伝わってきて、嬉しかった。
私は小さく「うん」と返事をすると、いつもの朝と同じように学校へ行く支度を始めた。
朝ごはんを食べながら、私は一つ気にかかることがあったので母に聞いてみる。
「そういえばさ、お母さん。昨日の夜に停電ってあった?」
母は少し考えたようだったが、洗い物をしながら答えてくれた。
「さあ、そんな話聞いてないけど」
学校に着いてからは強烈な睡魔との闘いだった。進学校ということもあって、授業中に受験勉強をするくらいは先生にも黙認されていたが、居眠りに関してはそんなこともなく、私は複数の授業に渡って注意を喰らうことになった。そんな調子でほとんど内容の思い出せないような授業の連続も終わり、私の意識としては早々に放課後を迎えた。
私はすぐに教室を飛び出して、二つ隣にある教室へと向かった。教室の前に着くと、ちょうどそこもHRが終わったようで、椅子を引くガラガラという音の少し後に扉が開いた。
ぞろぞろと出てくる人の波の中から、私が目当ての人物を見つけたのと同時に、向こうも私の存在に気付いたようで、近づいてきてくれた。
「一緒に帰ろ」
私がそう言うと、彼女は少し驚いた様子を見せた。
最初のうちはお互いに探り探りの会話が続いた。だけど校門付近に着くころには、私たちはすっかり元の距離感を取り戻していた。
「そういえば、美代っていつも夜どこに行ってるの?」
美代は最初何のことか分かっていないようだったが、すぐに合点がいったようだった。
「ああ、いや別に大したことじゃないよ。お父さんのところに行ってるだけ」
「お父さん?」
「そう。うち親は離婚してるけど、それでもやっぱり私にとって、お父さんはお父さんだからさ。たまに会いに行ってんの」
美代は笑いながら答えてくれた。それだけで、私はなぜ美代の外出が母親から止められないのかが分かった。きっと母親も自分たちの都合で別れたことについて、色々と思うところがあるのだろう。だから娘が父親に会いにいくことを止めない。いや、むしろ……。そう考えると、今まで美代に抱いていた根拠のない想像のあれこれが、いかにくだらないものだったことか。私は途端に申し訳なさでいっぱいになった。
「ごめん」
「あー、いいよいいよ。別に私にとっては気まずいことでもなんでもないからさ」
美代は本当に気にしていないようだった。私が謝ったのは無遠慮な質問をしたことについてだけではなかったけど、それにしたって美代は許してくれたような、そんな気がした。
ついでに私は一つ気になることがあったので、聞いてみることにした。
「でも、わざわざ深夜に行くって大変だね」
私の言葉に美代は不思議そうな顔をした。
「深夜? ううん、深夜じゃないよ。お父さんの仕事が終わってからだから、会いに行くのは遅くても8時とかじゃないかな。あんまり遅くなったら向こうの家に泊まるしね」
ふと、そよ風が私の頬を撫でる。それは夏の生ぬるい風ではなくて、少しひんやりとしていて、確かな秋の訪れを感じさせるものだった。
「ごめん、ちょっと寄り道してもいい?」
私は美代にそう問いかけた。
「こんなところにトンネルなんてあったんだ」
「うん、私も昨日知ったんだ。その時ここに落とし物しちゃってさ」
そう言うと私たちはトンネルの中へと入って行った。
「へー、入口の見た目の割には随分綺麗だね」
美代はそう言いながらトンネルの中を物珍しそうに眺めていた。
「それで、なに落としたの?」
「実は、昨日ここ通ったときに小銭落としちゃって。でも結構時間経ってるし、誰か拾っちゃってるかも」
私はそう言いながらも、きっとそんなのはどこにも落ちていないだろうと思っていた。
果たして、私たちが一往復してもトンネルには小銭どころかごみの一つさえも落ちてはいなかった。
「いやー、なかったね。こんなに綺麗だと毎日誰かが掃除でもしてるんだろうね。きっとその時に拾われたんだよ」
美代はそう言っていたけど、私は別のことを考えていた。だけどそんなことをいくら考えても、明確な答えなんて出るわけもなかった。それに、今となっては些細なことだと思った。
ふと目の前に自販機があるのが目に入った。
「ねえ、あそこでジュース買ってもいい?」
私はそう言って、鞄のポケットからコインケースを取り出した。
そして透明に染まる 稔基 吉央(としもと よしお) @yoshio_itakedaka
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