5


 リビングからまっすぐ伸びる廊下から差し込む光が玄関に影を落として、漸く私は夫が出ていったそこから踵を返す。そういえば洗い物、してなかったな。


 彼が私を見なくなったのは、いつ頃からだろうか。

『三年目の浮気』という言葉は頭に浮かばなかったはずだから、結婚四年から五年目辺りだろう。よく保ったのか、早すぎるのかは分からない。

 何かのきっかけで嫌になったのか、飽きたのか、子供がいつまでも出来ないから見切りをつけようとしているのか。緩やかに冷めていくお湯みたいに交わす言葉も減っていったので、結局のところよく分からない。

 彼はほぼ毎日遅くに帰ってくるようになり、私は一人広い家で彼のご飯を作って待つようになって、そして彼のスマホが何かを受信して光る回数が増えた。

 ああ浮気かもということを感じるようになったし、実際たまたま見えたスマホ画面のポップアップには女性の名前が表示されていた。隠す気もないようだ。

 今日もおそらくその人とどこかに行っているんだろうし、毎晩遅くに帰ってくるのもその人のところに寄っているのだろう。そう気づいても、特に何も感じなかった。ああ、そうなのかというだけだった。浮気された悲しみや、人のものを取った女への恨みなんかも、自分が思っている以上に驚くほどなかった。


 夫を愛していないわけではない。むしろ私は、この世の誰よりも、彼を愛していると言える。


 キッチンに立ち、夫のために作った雑炊の鍋を洗う。掬い取りきれなかった玉子が内側にへばり付いていた。それを菜箸で取り、排水口に投げ捨てる。黄色い物体が音もなく暗い穴に消えた。

 玉子なんてどうでもいい。もっとずっと大事なものは、もう夫の胃の中に深く沈んでいる。私は自分の滑り落ちた横髪を右耳にかけた。

 いつの間にか空は茜に染まり、窓から血を注がれたように部屋が赤く染まる。揺らいだカーテンの向こうで私と夫の服が絡み合うようにうねり、その影が部屋の中をばたばたと踊る。蛇口から出た水道水がざあざあと音を出して鍋をいっぱいにした。

「次は何を作ろうかなぁ。でも、きっとなんでも食べてくれるよね」

 彼は優しいから、私の出した料理はなんでも食べてくれる。いつも少し嫌そうな顔をするくせに、結局最後は律儀にこの小さなテーブルに座って食べてくれる。

 それでいい。そうでないと困る。

 差し込む茜が角度を変え、日が落ちてどこかの高い建物の大きな影が部屋に侵入した。それは私の足元から徐々に這い上がるように、太もも、腰、背中、とうとう頭を飲み込んで真っ暗な部屋に一人きりにさせる。

「早く食べてくれないかな」

 呟きは蛇口の水に負けてどこにも届かずに消えた。

 私はふと気づいて、自分の左手の人差し指に巻いた絆創膏を剥がした。指先の腹が一部抉れたように削ぎ落とされている。けれどすでに血は止まっていて、断面から吹き出ようとした血液が空気に触れて固まり、まるでカットされた赤い宝石がキラキラと輝いているように見えた。

 これは昨日、夫に場所。その時のことを思い出して、自然と口角が上がる。彼は美味しいって言ってくれたのだ、よかった。

 そのまま鍋を洗おうとして、また手が止まる。さっき耳にかけた髪の毛が耳たぶに貼った絆創膏に当たってカサカサとうるさい。耳元のそれが鬱陶しくて、右耳に貼った絆創膏も剥がしてしまった。そこには耳たぶの殆どを削り取ったかのように、そこだけ耳がない。半円状の小さな口に噛みちぎられたみたいになっている。その形を確かめるように指で触ると、指先に少し赤いインクのようなものが付いた。鉄の臭いがぷんと鼻を掠める。私の血だ。まだ止まっていなかったようだが、まぁいい。

 これは今日、夫に場所。最初これを思いついて、それから彼から貰った桜をモチーフにしたピアスを思い出したときのわくわくした胸の高鳴りと、彼がその料理を美味しいと言ってくれたことを思い出し、また胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになる。鼻歌まで出てくる始末だ。


 私は夫を愛している。


 たとえいつか彼が私に見切りをつけて、空白の部分を埋めてくれと離婚届を出してきても構わない。この人が好きなんだと、スマホのポップアップに登場する女を連れてきても、それでも構わない。だって私は夫を愛している。

 たとえ彼が私と離れて私以外の人と人生を歩むとしても、彼が私を全部食べてくれれば済む話だ。心も身体も、私は彼と一緒になるのだから。何も寂しくはないし、何も嫌なことではない。どこかの誰かの隣で名前を呼んで笑う彼の中で、私は生きている。

「また浩平くんのために献立を考えなきゃ」

 彼のために考えた料理と私を、彼は美味しいと言って食べてくれる。それはとても嬉しいことだ。次は何を食べてもらおうかと考えただけで、胸がぎゅっとなるような高鳴りに息が詰まって窒息しそうになる。それはあの日、彼と一緒にパンケーキと抹茶アイスを食べたときのような、きらきらとした初恋にも似た感情だった。

 ゆっくりと鍋に溜まった水を排水口に流す。がぼがぼと口いっぱいに水を注ぎ込まれた排水口が溺れるように鳴いている。

 真っ暗な部屋で彼のために考えた料理を作って、玄関を開けて帰ってくる彼を待つ。だって私は、こんなにも夫を愛しているのだから。


 ああ。早く夫は私を食べきってくれないだろうか。

 耳たぶからじわりと滲んだ血が滴り落ち、ぽたりと床に跳ねてフローリングに染みを作る。

 私は夫を愛している。だから今日も私は、彼のために料理を作る。

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だから今日も私は、彼のために料理を作る。 えんがわなすび @engawanasubi

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