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 バチン! 思ったより大きい音がして夫を起こしてしまわないか心配になった。

 手の中の木箱に入った桜のピアスを見ながら、鋭い痛みで感覚が麻痺してくる右耳に私は一つ息を吐いた。けれど痛みが強くなるにつれ、私はむくむくと膨らんでくる嬉しさに胸が高鳴った。新しい玩具を与えられた子供のように、わくわくして堪らなかった。


 その足でキッチンに向かい、私は少人数用の小さな土鍋を収納スペースから引っ張り出す。もう昼過ぎだ。夫が起きる前に、何か昼食を作らなければと思っていたのだ。

 洗った米と玉子、ちょっとの肉と刻みネギを用意すれば簡単に雑炊が出来上がる。昨晩も遅かったし、これから飲みに出るんだとしたら軽めのものがいいだろう。寝起きにも優しいはずだ。

 そうしてわくわくしたまま出来上がった雑炊を眺めていた時に、夫がのそりと寝室から出てきた。頭の上の方にちょっとだけ寝癖が付いている。

「あ、おはよう。お昼用に雑炊作ったの。軽いものがいいかと思って。食べるでしょう?」

「――うん」

 彼は少し逡巡し、小さく頷く。スウェットから覗く素足がぺたぺたとフローリングを鳴らし、手に持ったスマホが数回何かを受信しながら洗面所に消えるのを横目で見て、お椀によそった雑炊を小さなテーブルに置く。足りないかなと思って焼いた鮭の切り身も添えた。

 洗面所から戻ってきた夫はついでに着替えたらしく、上下スウェット姿から白いシャツに黒のパンツを履いていた。椅子を引いて静かに座った夫は、出された雑炊と鮭を黙々と咀嚼する。筋張った長い指が綺麗な所作で箸を持ち、大きな口へと私が作った料理を誘導する。

「食べないの?」

「先に食べちゃった、ごめんね」

「別に、いいよ」

「そっか。ねぇ、雑炊美味しい?味、濃すぎなかった?」

「おいしいよ」

「よかったぁ」

 壁掛け時計は午後の一時半を少し過ぎたあたりを指している。一緒に食べればよかったかとも思ったが、これは夫のために作った雑炊と焼き鮭だ。私のものではない。目の前で料理を片付けていく夫を黙って見守る。今更、テレビでも付けていれば良かったと思った。

 それから夫が私の作った料理を全て胃に流し込んで立ち上がるまで、特に会話もないままだった。

 彼が一度寝室に入り、手にスマホと財布と鍵を持って戻ってくる。

「行ってくる。晩ご飯いらないから、先に寝てて」

「うん、わかった」

 夕方まではまだ時間あるのにな。そう思ったが口には出さなかった。何しろ私は今嬉しさとわくわくでいっぱいなのだから。

 夫が出て行った玄関を暫く見つめる。彼は結局起きてから出て行くまで一度もこちらを見なかった。だから、きっと私の耳に貼られた絆創膏も気づいてはいなかっただろう。


 彼は家を出るとき、『行ってきます、紗希さん』と言わなくなった。それどころか、最近では名前を呼ばれた記憶も久しい。いつから名前を呼ばれなくなったっけ。

 紗季さん。

 初めて会ったときからずっと紗希さんと改まって呼ばれていたので、自分でも今言う?と思いはしたが、とうとう我慢できずに結婚式の日に聞いてみたのだ。街中の街路樹が色づき始める、秋の初めの頃だ。



「ねえ、なんでいつまでも『紗希さん』呼びなの?浩平くんの方が年上なのに、君が紗希さんって呼ぶから私の方が年上みたいな気になるよ」

 おとぎの国から抜け出したような純白のタキシードを身に着けた彼が、これまた純白の手袋をはめながらきょとんと不思議そうにこちらを見る。式はもう直前で、さっきまでいた双方の両親はすでに控室を出ている。式場のスタッフさんも、時間になったらお呼びしますと出ていったところだ。

 私が好きだと言った金木犀の香りが微かに漂う部屋で、椅子に座ってウエディングドレスの裾を白い花びらのように広げる私を彼が見下ろした。

「え、今言う?」

「ごめん、それ自分でも思ったけど、どうしても気になって」

 で、なんで?ともう一度尋ねたときにはもう彼は半笑いになっている。またどこかのツボにハマりそうらしい。でもまたいつかのように「ぶっ」なんて噴き出そうものなら、せっかく綺麗にしてくれた式場のスタッフさんに申し訳ないので、私はそれ以上言葉を重ねるのを止めて彼が話すのを待つ。

「なんでって、そうだなぁ……。呼び慣れちゃってるってのもあるんだけど、紗季さん大人っぽいから『ちゃん』っていうよりも『さん』って感じだからかなぁ」

「大人っぽいかな」

「うん。俺の方が三歩下がって着いていってる感じ」

「明治時代の夫婦かよ」

「ぶふっ」

 あまり余計なことは言わないと先程決めたばかりなのに無意識に零れ落ちた言葉がやっぱり彼の独特なツボを触ってしまって、結局綺麗にした顔周りとか髪を急いで直してもらわなければならないくらい笑われてしまった。これには私も少し反省した。

「めい、じ……くふっ……!」

「ごめんってば。反省してるから、顔覆っちゃ駄目だって。涙も出さないで」

「いや、ごめん、うん……ふふっ」

 止めようとしてるんだけどねと、笑いを堪えて途切れ途切れに喋るもうすぐ夫になる予定の人を、急いで来てもらったスタッフさんと共に彼が落ち着くのを待つ。化粧道具やら何やらを抱えたスタッフさんに「笑いのツボが極端に浅いところがあるんです、すみません」と言うと、彼女は「楽しい家庭になりそうですね」と言ってくれた。きっと本心から言ってくれたのだろう。それでも彼女も笑いを堪えきれないような顔をしていたので、もういい加減に明治時代から落ち着いてほしい。

 それから漸く笑いも身の回りも整えて落ち着いた彼が、「んんっ」と咳払いして。その瞬間、彼は先程の笑い上戸はいったい何だったんだと思うほどびっくりするくらい格好良く笑って。

「じゃあ、いこうか。紗季さん」

 純白の手袋をはめた手を差し出す。

 ステンドグラスから差し込む光が彼の手のひらに虹を生み出し、私はそれを幸せの切符のように受け取った。

 そうしてこの世の全ての幸せが詰まったような満開の金木犀が空に舞う中、私たちは夫婦になったのだ。

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