3


 翌日、その日私はとても機嫌が良かった。まるで新しい玩具を与えられた子供のように、わくわくして堪らなかった。

 もうすぐ起きる時間であろう夫の昼食用にと作っている雑炊を見ながら、わくわくを見つけた時の嬉しさを思い出す。


 朝起きて、いつものように二人分の洗濯物を洗濯機に放り込んでスイッチを押し、その間にお風呂掃除をした。夫が遅く帰ってくることが増えたため、自然と朝にお風呂を洗うことが習慣になった。

 それから夜の間に溜まった少しの埃を取るために床掃除をし、洗濯機が軽快な音楽を奏でると、脱水してしわくちゃになった服を伸ばしながら洗濯物を干す。天気のいい日は乾燥機は使わず、外干しで済ませていた。太陽の光で乾いた服の方が気持ちいいからだ。

 小さな庭に置いた物干し竿に洗濯物を掛け、漸く朝ご飯を食べる。今日は焼いた食パンに苺のジャムをつけて食べた。夫はまだ起きてこないから、一人分の珈琲を入れて小さなテーブルで飲む。

 そこから見える窓は、庭に植わった少しの植物と白い洗濯物と青い空を切り取っている。それを絵画を眺めるような気持ちで見ながらさあ今日はどうしようと考えていたところ、私の頭にそのことがピンと浮かんだ。


 寝ている夫を起こさないよう、静かにリビングの隅に置いた棚を漁る。確か奥の方に入れておいたはずだと引き出しを引いては戻しを数回繰り返し、漸く見つけた目当てのものを一番下の引き出しから引っ張り出す。

 特に装飾のないその小さな木箱を開け、中にあったそれを見つけたとき私の口から思わず「ああ、あった」と安堵に似た言葉が滑り落ちた。もしかしたら捨ててしまったかもしれないと思い始めていたからだ。

 小さな桜のモチーフが付いたピアス。これを大事に仕舞った過去の私は、ご丁寧にピアッサーも一緒に入れていた。

 これは夫と付き合い始めて半年経った頃、彼からプレゼントされたものだった。



「紗季さん、耳あいてる?」

「はい?」

 彼の家で適当に流したバラエティー番組を見ているとき、唐突にそう尋ねられた。

 耳があいているか。その言葉に私は思わず自分の耳穴を確かめた。耳に指を突っ込み、これがあいているという表現になるのかどうかたっぷり悩んで、それから不思議そうにこちらを見る浩平くんへ視線を移す。

「えっと、穴はあるけど、いずれ鼓膜に当たると思うから、あいてるって表現で合ってるかどうか分からないんだけど」

「ぶっ」

 そこまで言うと彼は盛大に噴き出し、自分の手で顔を覆う。何事かと思ったが、その肩が小刻みに揺れ、更には時折小さな声で「ふっ」とか「くふっ」とか言うもんだから、ああこれは笑われているのかと漸く気づく。

「ちがっ……いや、ごめん……くっ……!」

「落ち着いてどうぞ」

「ふふっ……んんっ! いや、耳の穴じゃなくて、耳にピアスの穴開けてるか聞きたかったんだ」

 ああ、なるほどピアスの。はあ、びっくりしたと言う彼は余程ツボに入ったのか、目尻に溜まった涙をその長くて綺麗な指で拭う。

 ピアスはこれまで一度も開けてこなかった。高校や大学の友達が真似をするようにみんな開けだした頃も、なんだか痛そうだなと思って眺めているだけだった。実際痛かった子もいて、ほらやっぱりと思ったものだ。

 けれどもその痛みを超えた友達の耳に光る可愛らしいピアスを見たとき、それがとても尊いものにも見えた。羨ましかったのかもしれない。

「開けてないよ」

「あ、そうなんだ。うん、いや、ちょっと待ってて」

 そう言って彼は二人で並んで座っていた炬燵から抜け出し、部屋の隅に置いた自分のバッグから何かを取り出して戻ってきた。手には特に装飾のない小さな木箱が握られている。

「これ、似合うと思って買ったんだ。ピアス」

 彼がそっと開けた箱の中には、対になった桜をモチーフにした可愛いピアスがちょこんと収まっていた。私は自分の耳たぶを触る。もちろん、穴は開いていない。

「もしかしてと思って一応穴を開ける道具もあるけど、初めてなら無理しなくていいし、無理して開けようとも思わなくていい。でも――」

 もう片方の手に乗せたピアッサーを見せながら、彼はそこで一度言葉を切った。桜のピアスと、彼と、ピアッサーを順にゆっくり見て、それから私は緩く首を振る。

 窓から差し込む夕日が彼の顔を半分染め上げ、その瞳が茜色にきらきらと輝いている。

「ピアス、憧れだったの」

「ほんとに?いいの?」

「うん」

 正面に体を向けあって座る彼の服の裾をそっと握る。後で皺になるかなとも思ったが、自分が思っている以上にしっかり握っているのか、手を放そうとは思わない。彼が羽のような柔らかさでその手を包む。

「俺に開けさせてくれる?」

 少し目を伏せて顔を覗き込むように見る彼にどうしてか息が詰まって、私は救いを求めるように小さく頷いた。

 彼の長くて綺麗な指が私の右の耳たぶを掬うように触る。それは酷く尊く、神聖な儀式のように思えた。

 部屋に差し込む茜がカーテンをふわりと躍らせる中、目の前の彼に処女を捧げるように私は目を閉じたのだ。

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