紫月 文

 風の心地よいある夏の日、彼は窓の外を見ながら退屈そうに人を待っていた。遅刻するわけにはいかないと余裕を持って来たのだが、まだ予定時間までは三十分ほどある。遅れるよりはましかと思ったが、田舎の古風な料理店の窓際にある二人用の席という場所は、一人でいるには至極退屈な場所であった。


 また、彼のいる場所は退屈なだけではなく、とても静かでもあった。まだ夕食というには早い時間だから他の客もほとんどいない。ただ風鈴の音色だけが、そこにある静けさと見事に調和して彼の耳に届いていた。静寂が鮮明に聞こえ、風鈴のチリンチリンという音は、彼の耳をするりと通り抜けていった。


 ふと、人は変わるものだな、と彼は思った。


 幼少の彼は活発で遊び好きな、どこにでもいる普通の少年だった。ただ、少し活発、というより自由すぎるきらいはあったのかもしれない。台風の日にすら喜んで外に出ていき、帰って来るなり夕食を平らげるとろくに風呂にも入らずに寝てしまうことすらあった。そして、決まって翌日には風邪をひいたものだ。彼の母はそれを怒ることなく看病してくれた。


 しかし、今の彼にそんな過去を思い起こさせるような要素はない。スーツにネクタイと立派なサラリーマンとしての風体で、夏の風物詩に耳を傾け、コーヒーの風味を楽しんでいる。あの頃の活発さは一体どこに行ってしまったのだろうか。自分や母の記憶にはまだ残っているだろうが、しかしそれもいつかは風化し、消滅してしまう。ふと彼の中に一つの疑問が生じたが、それはすぐに一抹の寂しさへと変化した。


 あの頃の私はもうどこにも残っていないのだろうか。


 外では一組の親子連れが道を歩いていた。少年は片手に風船を持ち、もう片方の手は母親の手と繋がれている。おそらく近くの商店街で買い物をした帰りなのだろう。あの少年もいつか大人になり、風船のことなど忘れ去ってしまうのだろうか。そう考えていると不意に強い風が吹き、風船は少年の手から離れていった。一瞬のうちに風船はぐんぐんと空に昇っていき、やがて見えなくなった。


 こうして一つひとつ失っていくのかもしれないな、彼はため息をついてそう思った。そうして飛んで行った風船はもう二度と取り戻せない。


 彼の胸に寂しさが募っていく。考えれば考えるほど、募っていく。大人というのはそんなにも寂しい生き物なのだろうか。しかし、そんな思いを吹き飛ばしてしまうような光景が、彼の目の前にはあった。


 少年は空を見上げ、見えなくなった風船に手を振っていた。


 あたかも、その風船がどこか遠くの銀河まで旅に出るのだと言わんばかりに。




 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 〇 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 夕凪が訪れた。気が付くと、目の前には待ち合わせ相手が座っていた。

 

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紫月 文 @shidukihumi

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