たとえ君と会えなくても

ナナシリア

たとえ君と会えなくても

『ゆーちゃん、引っ越しちゃうんだ』

『そう、なの……』


 『ゆーちゃん』が引っ越したあの時のことは、まるで一昨日見た夢かのようにとても不鮮明に覚えている。


 僕の発した言葉、彼女の発した言葉、彼女の視線、表情、動き、何一つ鮮明に覚えていない。


 ゆーちゃんと僕の仲が良かったのはもう、七、八年も前の話だというから、彼女の本名すら覚えていないのに、僕は彼女に未練しかない。


 彼女は、小学校低学年にしては大人しく、自分の感情を表に出すこともあまりしない静かな子だった。


 ちょうど高校生になるところの今でいえば、落ち着いた子だということで好印象だろうが、当時は小学生だったから、彼女は孤独だった。


 今思い返してみれば、そんな彼女によく似て、自分の感情を表に出すことが苦手だった僕が彼女と仲良くなるのは必然の理だったのかもしれない。


 そんな彼女は、小学二年生が終わる春に家庭の都合で引っ越した。


 これまでも何度か、引っ越すことになって転校した人はいたが、僕と仲の良かった人はいなかったので何とも思っていなかった。


 しかしゆーちゃんは僕と仲が良いどころか僕の大親友であり、たぶん初恋の人でもあった。


 そんな彼女が僕に、転校することを告げたときの表情、悲痛な声、体の震え。


 その印象がよほど強かったのか、当時の他のことはぜんぜん覚えていないのに、そのことだけ記憶に残っていた。


 当時が僕の全盛期だったというだけかもしれないけど。


 それから僕は、小学校から中学校、そして今、中学校から高校へと進学するたび、彼女が入学式にいたらどうしようと、妄想を膨らませることになった。


 彼女がここに戻ってくる可能性が少しでもあるから、両親と妹が引っ越すときも僕だけがこの場所に残った。


 理屈で考えれば、ゆーちゃんは今頃彼氏を作って遊びまわっているということもあり得るが、当時のままの僕の幼い感情が、それを否定していた。


 あれから人と大して関わることをせず、表に出されることも一度だってなかった僕の感情は、まったく成長していなかった。


「もしもゆーちゃんと会えたら、何しよう」


 限りなく低い可能性を口の中で呟いて言霊にでも手伝ってもらおうとしても、何かが変わることはなく、ただ虚しいだけだった。


 そもそも、学校が変わっていないならまだしも、中学、高校と進学してきて、彼女とたまたま出会うなんてことはもはやあり得ない。


 くだらない期待に心の中で唾を吐きかけ、目の前に迫る改札にSuicaをタッチし、遠くに見える自販機に投入するための百四十円を探る。


 百円玉一枚、十円玉二枚、この時点でなにやら怪しくなってきたが財布を探ると、五円玉三枚が見つかる。一円玉が一枚たりともない。


 百足す十かける二足す五かける三。


 小学校に在学していた当時の僕が暗算で解こうと思っても絶対に溶けない問題を、答えを薄々察知しながら解く。


 百三十五。


「なんて運が悪いんだ」


 自販機の目前までたどり着いて、思わずつぶやく。


 この運の悪さなら、高校の入学式でゆーちゃんが突然現れるということはもはや期待できないだろうな。


「何円足りないんですか? 制服からして同じ高校ですよね」


 ぜんぜん聞いたことのない女性の声が聞こえて、思わず振り向くと、そこには自身の言う通り、僕と同じ高校の制服に身を包んだ女子が立っていた。


 僕とは正反対の、豊かな感情で装飾を重ねに重ねたような声だった。


「五円、ですけど……」

「はい、ご縁」


 僕が金額を告げると、何か考えるよりも早く、彼女が持っていた五円玉を僕に差し出した。


 どこかイントネーションに違和感を感じたので、もしかしたら訛りがある地域から来たのかもしれない。


 僕は呆然としながらも、百四十円を自販機に突っ込んでコカ・コーラのボタンを押した。


「ありがとうございます……」

「よかったら仲良くしてください。私、新入生の古瀬優奈です」


 ふるせゆうな。


 どこか懐かしさを帯びたその響きが、目の前の女子と記憶の中のゆーちゃんを重ね合わせた。


 虚空から生まれた衝撃が、十年近い空白を一瞬で埋めた。


 感情をなかなか表に出さない僕は、人生ではじめて、つい驚いてしまった、というような顔になった。


 目の前の彼女は僕の表情の変化を訝しんだ。


「僕は――」

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たとえ君と会えなくても ナナシリア @nanasi20090127

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