第三話
図書館にて、再び。最悪だ その1
「どーーーーして、フられちゃったんですかあ!?」
デリカシーなんか放り捨てたような声がして、僕は目を開けた。点けっ放しにしていたテレビだ。なにもする気になれなくて適当な番組を眺めていたのだけれど、そのままソファで眠ってしまったのだ。
テレビの中で別の男が、それはフった方じゃないとわかんないでしょお、と大きな声で反論する。笑いが起こる。
二人はコンビの芸人で、詳しいところまでは無理だけれど、どうやらいじられている方の男が最近恋人と別れたみたいだ。ほかの出演者もいるトークバラエティ番組で、二人は軽妙なやり取りを続けている。
「どうせ記念日とか忘れたんでしょう」
「ちゃんと毎回ご飯に行ってましたよ!」
「一か月後とか二か月後もですか?」
「行ってました! 毎月焼肉食べてまして」
「○○さん、どう思います?」
司会らしき男が、それまで笑って聞いていた女性に話を振った。笑顔はそのまま、彼女は困ったように肩をすくめて言った。
「……足が臭かった、とか」
「そうかもしれません……」
相方に食ってかかっていた男が突然真顔になってそう言うので、会場には再び大きな笑い声が生じた。
僕もくすりと笑いはしたけれど、そのあと話が段々といやらしい方へ向かっていくとうんざりしてしまい、身体を起こしてリモコンのボタンを押した。
深夜一時だ。ニュース番組でも待とうかとソファに座ったのだから、大体三時間くらい眠っていたことになる。ソファテーブルのマグカップはもちろん冷たくなっている。一応唇をつけてみたのだけれど、残っていたコーヒーはやっぱり不味くて、僕は立ち上がって台所に持っていき、電子レンジに入れた。
祖母の部屋に行ってなにか音楽を借りてこようか、と考える。
僕は祖母の家で暮らしている。
そんな風に書くと僕が家庭内で孤立していて祖母に引き取られたみたいだけれど、実態はもっとシンプルだ。実家からだと学校まで二時間もかかってしまうので、その半分以下の通学時間で済む祖母の家に住んでいるだけだ。
同じような生徒は学年にも何人かいる。ただ一つ、僕が彼らと違うのは、祖母が家を空けているため、実質一人暮らしだということだ。クラシック音楽評論家、翻訳家、コラムニスト、エッセイスト、自称インフルエンサーにして、自称SNSマスター、つまり名の知れた物書きである彼女は、春は音楽祭の季節だとかなんとかで、三か月にも渡る取材旅行に行ってしまった。そんなお金がどこにあったのかと僕は驚いたけれど、SNSによると何回かの連載企画があるとのことで、言ってみれば長期出張みたいなもののようだ。今はオーストリアに泊まっているらしい。
そういうわけなので、週末になると僕はご飯を食べに実家に戻ることもあるし、逆に三つ下で同じ学校に通う妹が訪ねてきたり、あるいは電話で小言を言ってきたりもする。
僕は孤独なんかではないのだ。
もっとも、夜中の一時に妹が電話をかけてくることなんてないし、電子レンジが止まってモーターやファンの音も消えた今、部屋はがらんと静まり返っているのだけれど。
あの手紙、と僕はぼんやりと考える。
心当たりがないのも当然だ。僕へのものではなかったのだから。
広瀬が綾藤に書いたものだとわかると、不可解だったものすべてに納得がいった。
たとえば手紙のあの模様は、僕と鹿野が頭を寄せ合ってもわからなかった、あの薄紫色の模様は藤の花だ。ネットで検索するとすぐに出てきた。藤の花の模様、藤の綾、綾藤、というわけだ。
時間と場所以外ほとんどなにも書かれていなかったのは他人に見られることを恐れたのだろう。
それは自分のためだったのだろうか、それとも綾藤のためだったのだろうか。
配慮の欠けた発言をして、彼女を酷く怒らせてしまった。一言詫びたいところだけれど、もう関わるべきではないと思う。広瀬は僕の顔など見たくもないだろう。
どこで間違えてしまったのだろうか。
油断して綾藤の名前を出してしまったところか、あるいは悪気があったわけではないということをわかってもらおうとして、蛍光灯の件を話そうと考えたところか。もしかすると彼女が僕を覚えているのか知りたくてカマをかけてみたのが悪かったのかもしれない。僕自身、あれで緊張の糸が切れてしまったのを否定できなかった。
本を取り出したのも、失敗といえば失敗だ。あれがなければ広瀬は、自分の計画が破綻してしまったことに気がつくことはなかったはずだ。
いや、それはどうなのだろう。
あのとき本を取り出さなければ、彼女はいつまでも階段に座り続けていたに違いない。そう断言できるくらいに彼女の背中にはなにか一本ぴんと通った芯のようなものを感じたし、それと同時に取り返しのつかないようなことをしでかしそうな気配もあった。そしてそんな彼女を放っておけなくて、きっと僕も座り続けていただろうと思う。
くよくよといくら考えても、僕が彼女を怒らせてしまったのだけは確かだ。僕は彼女が怒るのを初めて見たし、あんな風に激怒で毛を逆立たせるのだって、病院に連れていかれそうになった猫でしか見たことがない。
説明や謝罪に行ってもまた怒らせてしまうだけだろう。なにもなかったふりをして、今まで通りにするのが一番だ。
僕の思考はぐるぐると同じところを回っていたけれど、これにはやむを得ない理由があった。
というのも、こんなになるまで叩きのめされる元凶となった例の手紙を、僕はまだクリアファイルの中に持っていたのだ。
手紙を返すかどうかで困っていた。
どちらを選んでもお互いに嫌な気持ちになることは目に見えている。
それで、自分の行動を悔やむことで現実逃避していたのだ。
ふーーっ、と息を吐くと、マグカップの中身を全部喉に流し込んだ。それでも頭の中のもやもやは晴れない。
先程の芸人たちのやり取りのように、第三者がいればすっきりとした答えが得られるのかもしれない。だけど妹からの電話はなくて、部屋はがらんとしている。
それならば、と意地になった僕は彼らの真似をしてみることにする。ちょうど心に貼り付いて離れてくれない、彼の言葉がある。
「どーして僕がフられた気分になっちゃってるんですかあ」
だけど反論してくれる相方は、僕にはいない。
知能最強な僕なら百合カップルを作るのなんてヨユウだろ! まがた しおみ @shiomimimi3
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