高嶺の花、広瀬葵 その2
だから体育館裏で広瀬を認めたとき、本当に気が動転した。
決心も吹き飛んで、しばらくのあいだ立ち尽くしてしまった。
広瀬が手紙の差出人なのか。ではこれはイタズラで、そういう話をしていた前島が仕掛けたのだろうか、などと思考が走り回ったけれども、なんとか冷静さを取り戻すことができた。
広瀬の様子がおかしいのだ。
最初にはっと息を呑んだときから両手で口を覆ったままだし、大きくて形の良い目は限界まで見開かれている。
ほらね、僕とそっくりじゃないか、と心の中で呟いたあと、僕は彼女に声をかけた。
「もしかして僕を呼び出したのは、君?」
彼女は答えようとして両手を下ろし、けれどどうしても声が出ないようで、代わりに首を細かく横に振った。
「ま、そうだよな、初対面だし。そっちも待ち合わせ?」
ええ、と掠れた声で彼女は答えた。
「そっか。どうしよう……」
彼女はなにか言いたそうにした。説明を求めているのだと僕は気がついた。
「この時間にここに来るようにと呼び出されたんだ。僕の前に誰か来なかった?」
またしても彼女は首を振った。
では僕の差出人はまだ来ていないのか、広瀬がいるのを見てこっそりと帰ってしまったのか。あるいはどこかに隠れてこちらを眺めているのかもしれなかった。
それにしても、見ていて思わず同情してしまうほどに広瀬の動揺は酷かった。
どんなに小さな音でも確認せずにはいられないようで、絶えず視線が動き回っていて、隙あらば僕や体育館の角の方をちらちらと盗み見ていた。
どうやら彼女は呼び出した側らしい。
極度に緊張していたところに、想定外の人間が現れたために気持ちがくじけてしまったようだ。
僕はすこし戻って様子を見に行きたかったのだけれど、一瞬でも目を離すと彼女は逃げていきそうに思われた。それはあまりにも可哀想だった。
「一つだけ、いいかな?」
彼女はぎょっとして固まったけれど、それでもなんとかうなずいた。
「僕の相手が来たら、そこの角を曲がったところに行ってくれないかな。君のときは僕もそうする。絶対に話は聞かない、逆の立場だったら僕は嫌だし、僕の相手も嫌だろうから。どう?」
彼女はまたうなずいた。僕はスマホを取り出して時間を確認してからちょっと微笑んでみせた。
「もう一つ。そこに座らない? どうやら僕の相手には遅刻癖があるらしい」
僕は体育館の裏口へと続く階段の真ん中のあたりに腰を下ろし、すこし離れた場所を指差した。
彼女はためらったけれど、ゆっくりと近づいてきて一つ下の段に座った。
俯いて、膝の上でスカートを強く握りしめる。手の震えを隠そうとしているのだろう、そっとしておいてやった方が良さそうだ。
僕は手持ち無沙汰に正面の柵の向こうの森を眺めた。木々の頭を照らす日の光は段々と黄色くなり、やがて赤みを増していった。
アルバイトの日でなくて良かった。遅刻の連絡をするのも億劫だったし、イタズラが濃厚になった手紙のために月収を減らされたくはなかった。
僕は、イタズラなら誰かがここにいて驚かせてくれるのだろうと決めつけていた。誰も来ないという可能性は考えていなかった。
ちらと広瀬を見ると肩をぐったりとさせてうなだれていた。泣いているのだろう。僕がいるせいで声も出せないのだ。
時計を見るとすでに十七時になっていた。相手になにか用事があったとしても来ていい時間であった。
つまり広瀬はフられてしまったのだ。
こういうとき、どうすればいいのか僕はわからなくなってしまう。
慰めてやればいいのか、励ませばいいのか。背中を撫でてやればいいのだろうか、それとも隣に腰かけて向こうが口を開くのを待つべきなのだろうか。
僕はハンカチを二枚持っている。そのうちきれいな方を差し出してやるのがいいのだろうか、そのときなにか声をかけてやるべきなのか。
僕には経験が足りていない。
一度、学校の保健医に尋ねてみたことがある。
「色々経験して学んでいくしかないのよ」と彼女は言った。「例えば、君が一輪の花を受け取ったとしよう。その相手が女の子か男の子かという極々単純化された違いによってさえも、君の気持ちは変わってくるでしょう。君と相手の関係、時と場合。私は君じゃない。君が色々と経験してすこしずつ知っていくしかないんだ」
ありきたりな結論に、鮮やかで即効性のある言葉を期待していた僕はがっかりしたけれども、同時にありきたりだからこそ、これが真理なのかもしれないといくらか納得もした。多くの人が悩み、たどり着いた結論なのだから。
けれど結局、先生の言葉は役に立たなかった。
僕は放っておけなかったし、経験と割り切ることもできなかったのだ。
もちろん先生もそんなつもりで言ったのではないのだろう、しっかりと考えて選んだ行動が失敗に終わっても無駄にはするな、そんなことを言いたかったはずだ。
そんなことはわかってる。
でも僕は失敗したくないのだ。
考えて、考えて、踏ん切りがつかなくて、また考えて、としてしまう。そうするうちに機を逃す。なにもできない。一番臆病なのだ。
考えているうちに時間が過ぎ、広瀬の漏らした息は湿っぽくなっていた。気がつかないフリをしているのも難しくなって、僕は鞄から本を取り出した。遠くの山の影になっていたけれどそれでもまだなんとか字は見えた。
ページをめくる音で自分を取り戻したのか、広瀬はびくりと身体を震わせて、顔をわずかにこちらへ傾けた。
「なにを────」
後半は聞き取れなかった。なにを読んでいるの、と尋ねているのだろうか。それで彼女の気が紛れるのなら、と僕は広げたまま本を持ち上げて見せた。
けれど暗くて表題もわからないだろうと察した。
「音と言葉。フルトヴェングラー著。ベートーヴェンやワーグナーについての彼の評論をまとめたもの。読む?」
彼女にそれを渡してやりながら、そういえば鹿野にもこんな風にして見せてやったなと考えた。あれがほんの数時間前のことだとはとても思えなかった。鹿野と話してから僕の気持ちはまるで膨らませている途中で手を放したゴム風船のように激しく動き回っていたけれど、今は冷たくなって萎びていた。
「どうして、あなたがこれを持っているの」
広瀬の声には戸惑いと怒りが混じっていた。
「どうしてって、一昨日に新宿で買ったんだよ」
「違うっ!」
彼女はそう叫ぶと勢いよく立ち上がった。
「なんであなたが持っているのよ」
「だから、買ったんだって」
「そうじゃなくて! なんで、あなたが、って聞いてるの」
「落ち着いて。なにが言いたいのかわからない」
「私にもわからないわよ!」
「ちょっ……、そんなに叫んで……。君の待ち人が来てるかもしれないだろ」
我に返らせるつもりで放った言葉の効果は、狙いの半分だけであった。確かに彼女は冷静になったけれど、それは激しい怒りのせいだった。
彼女は冷たく言い放った。
「もう来ないわ」
「まだわかんないだろ。待ってみ? 僕の相手だってまだ来てないくらいなんだから」
「違うのよ。…………私がこの本に手紙をはさんだの」
僕は目を丸くした。
「じゃあやっぱり君が────」
「私が手紙を入れたのはあなたとは別の人の机よ」そう言ってから彼女は自分の頬に触れた。「三時間目のあとの休み時間。窓際に人が集まって掃除したりしていたからそれを見に行くふりをして机の中にあった本に入れたの。確かにあの人の席だった。なのに、どうして────」
それを聞いて思い出したことがあった。
その時間、窓際の蛍光灯が切れているのに気がついた担任の吉田先生が交換に来ていた。先生は背が低く、独力にこだわるところのある女性で、周りには自分より二十センチ、三十センチも高い生徒が何人もいるのに、無理に自分で交換しようとした結果、蛍光灯を落として割ってしまった。
女の子の悲鳴が上がり、僕たちは掃除した。広瀬の言う人だかりはこのときのものだろう。
なんとか授業までには一連の作業が終わって、吉田先生は急いで職員室に帰っていったのだけれど、問題が一つあった。
「いくつかの机が入れ替わっていたんだ。もともと先生の足場として二つ使っていたし、掃除するときにも破片が危ないからって結構大きく動かしたから。君が来たのはそのあとだったんだろう。だから僕の机が綾藤のところにあったんだ」
そこまで言ってしまってから僕ははっと口をつぐんだ。
やらかしてしまった。
蛍光灯のことを説明しだして早々に真実に気がついたのだけれど、話の終わりが見えて安堵した瞬間、決して言わないよう、頭の中で真っ赤なバツをつけていた名前をつい口が読み上げてしまったのだ。
さらりと流せば良かったのだけれど、言葉を切ってしまった以上もう取り返せなかった。
広瀬の顔は、夕闇の中でも青白く見えた。
「えーと、誰にも言わ────」
もうたくさんだとばかりに広瀬は腕を振り上げ、僕に向かって思い切り本を投げつけた。
「いたっ」
なんとか落とさずに済んだけれど、そのあいだに彼女は自分の鞄を引っ掴んで走りだした。追いかけて角を曲がると、駆けていく彼女の背中はずっと小さくなっていた。
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