第二話

高嶺の花、広瀬葵 その1

 一年前の春、前島という生徒が話しかけてきた。

 彼とはその前年、つまり中三のときに同じクラスだった。


「佐鳥、知ってるか? 編入組にすんごい美人がいるんだぜ」


 そのときは彼のにやにや笑いが不愉快でなにも聞かずに追い払ってしまったのだけれど、なぜ特別親しくもない彼が急にそんなことを言ってきたのかはすぐにわかった。

 学年中が彼女の噂をしていた。

 その中で生まれた興奮が、同じ相手と同じ話を繰り返すわけにも、まさか本人に直接ぶつけるわけにもいかずに行き場を失って、まだなにも知らなさそうな僕に向かった、というわけである。

 下劣な親切心であった。

 とはいえ噂の美人には興味がわいたので、前島を探して彼女について教えるよう頼んだ。


「いやあ、佐鳥も好きものだねえ」


 彼は笑いながら僕の肩を叩いて、広瀬葵という名前を告げた。


 次の日、教室移動のため廊下を歩いていると、編入組の教室の扉が開いて女の子が数人出てきた。

 この季節によく見られる奇妙なグループであった。入学したてのころはとにかく話せる相手がほしい。同じ班の人間や近くの席の人間など誰でもいいから話しかけてみて、気の合う、合わないにかかわらずとりあえずは仲良くするものである。

 テレビ番組について話す彼女たちのやけに明るい口ぶりから、そういう努めて作り上げた関係にあるのだろうと思った。

 そのうしろに笑いもせず、彼女たちと一緒に歩いているというよりは、ついていっているといった感じで歩く者がいた。

 前島に教えてもらうまでもない、彼女が広瀬葵であった。


 確かに美人だ。

 伸ばした黒髪が肩の上で乱れることなく背中に流れている。きゅっと結んだ口もとから真面目そうな印象を受けた。塵の方が彼女を避けるのではないかと思ってしまうくらい、清潔できっちりとした制服の着こなしだった。

 彼女は黙って伏し目がちに歩いていたのだけれど、僕の横を通り過ぎるときにすこし上げた目は、先の印象とは逆に楽しげであった。


 と、そのとき彼女は立ち止まってこちらに振り向いた。


 僕たちは目が合った。

 それは電流が走ったなどとしばしば形容されるようなロマンチックなものではなかった。目線の先に偶然にもお互いがいた、というだけだ。

 彼女の大きな瞳は僕の視線を捉えると驚愕の色を浮かべたけれど、それは先程の楽しげな余韻とともに瞬きの中に消えた。

 あとに残ったのは澄んだ瞳だった。


 僕は急に顔が火照るのを感じて、慌てて目をそらした。

 恥ずかしかった。高嶺の花だ、みんな気が引けて話しかけられない、などと噂を聞くうちに僕は、彼女が自分と同じで、そういうくだらない噂話ばかりする人間と距離を置いているのだろうと勝手に思い込んでいたのであった。

 僕の目には失望が広がっていたに違いない。

 けれど広瀬は、憤ることも軽蔑することもなく、まっすぐに僕を見つめ返したのだ。

 彼女の目に、僕はどのように映ったのだろう。噂話をし、身勝手な期待を寄せる生徒たちと変わらなかったのではないか。結局、僕もほかと変わらないのだ。


 そういうわけで僕は、あのまっすぐな瞳に自分を恥じたのであった。


 けれどそんなことがあったとは露も知らない前島は律儀にも話を持ってきてくれた。


「広瀬が告白された」


 彼女を見かけた次の日、前島は僕の机に近づいてきて出し抜けにそう言った。

 前日の件で僕はひどく反省していて、彼に対して気まずい思いがあったし、一方で広瀬の知られざる一面を垣間見たことで好奇心は十分に満たされていたので、彼と話したいわけでも話す必要があるわけでもなかった。

 けれど理由が理由なだけに追い払うわけにもいかず、僕はゴシップがなみなみと耳に注がれるのを甘んじて受け入れたのである。


「八木ってわかるか、去年同じクラスだったんだけど。そっか、じゃあ八木ってのはサッカー部の未来のキャプテンと目されている男で、人づてに広瀬の連絡先をゲットして、教室に呼び出して告白したんだ。前置きなし、たった一言、『好きです』ってな。広瀬はめちゃくちゃびっくりしてさ、それから同じくらいめちゃくちゃすまなさそうに、ごめんなさい、ごめんなさいって謝った。あれが駄目だったんだろうなあ。押せばイケると勘違いさせちゃった。八木は、お試しでいいから付き合ってくれとかなんとか言い出しちゃって、それがまたしつこいんだ、さすがの広瀬も段々冷静になってきて、最後にはきっぱりと『あなたとは付き合えません』って断ったよ」

「まるで見てきたかのように話すけれど」

「見たからな。本人が告るぜ、イケそうだぜって騒いでた。だからみんな知っているし、だからこうやって話しても大丈夫だ」


 そういうわけにはいかないだろう、とデリカシーのなさに呆れる僕の肩を叩いて前島は続けた。


「まあ、なんにせよ、佐鳥には良かったじゃないか」


 ちょうどチャイムが鳴ったので、前島はそう言い残してにやにやしながら帰っていった。


 それからさらに数日が経ったときのことだった。


「広瀬が告白された」


 休み時間に再びやってきた彼は、僕の手によって机から乱暴に押しのけられた尻の向きを変えて通路に突き出し、両手を机について話を続けるのだった。


「今度は成田がやった。え、誰かわからん? 名前は知らなくても顔は知ってるはずだ、背の高くて……、そうだ、去年の文化祭でバンドをやりたいって騒いでたやつ。こいつも八木と同じようにさ────」


 またか、という言葉を僕はぐっと飲み込み、代わりに適当な相槌を打った。

 前島は授業が始まっても僕の机にしがみつくようにして話し続け、結局先生に追い出されてしまった。


 その一週間で広瀬は八木と成田を含む四人に告白されて全員をフり、そのたびに前島は僕の机にやってきて報告した。

 驚いたことに広瀬はフった相手に対してなにもなかったように接しているらしかった。もともと親しくはなかったのだけれど、広瀬は彼らを避けたり無視したりせず、廊下ですれ違うと会釈した。

 人気者の八木をフったことで女子生徒の不興を買ったのではないか、という僕の予想は外れた。彼女は相も変わらずあの女子グループの中にいたし、前島もそういう噂を耳にしなかった。

 たとえ僕たちの耳に入らなかっただけだとしても、少なくとも大っぴらにさせないくらいの人望が彼女にはあったのだ。


 前島が暗い顔をして僕のところにやってきたのは六月になってからだった。珍しく雨は止んでいたけれど、空にはどんよりとした雲がかかっていて、窓を開けても一向に風が入ってこないので、皆がノートを扇子のかわりにしたり、胸元のボタンをいつもより一つ多めに開けたりしていた。


 前島は僕の机にちょこりと座り背中を丸めた。

 のかされたことを忘れたみたいな顔をして毎回そうやって座るので、僕の方が根負けして放っておくようになっていた。


 悲報だ、と彼は言った。


「広瀬、好きなやつがいるんだってさ」

「へえ」

「八木が再アタックして聞き出したんだ」


 うわあ、と僕が眉をひそめたのを見て彼は続けた。


「だろ? あいつデリカシーないからな。なんでモテるのかわからん。広瀬もドン引きだったよ」

「どんな人なんだろう」

「広瀬の好きなやつか? そっちもさっぱり」彼は首を振った。「なんで付き合ってくれないのかって追い詰められて初めて漏らしたんだ。好きな人がいるから、とだけな。ほかのことは絶対に言おうとしなかった」

「いるならさっさと言っておけばよかったのに」

「どうだろ。あの言い方じゃあ俺のことなんじゃないかって勘違いするやつもいるだろうし、もしいつから好きだとか、どんなところが好きだとか話してたら、上手いこと言いくるめようとするやつもいただろう。八木は中学の男かどうか知りたがってたんだけど、俺の勘では、あいつ、疎遠になってるのを突こうとしてたんじゃねえかな」

「八木ってそんなに酷いの?」

「二週間前、別の子に言い寄ってたよ」


 このころすでに広瀬は噂の中心ではなくなっていた。

 もちろん相当に目立ってはいたけれども、真面目で静かな女の子のゴシップなんて何か月ももたないものなのだろう。

 前島もこれ以後来なくなってしまって、廊下でたまたま顔を合わせたときも、物理が全然わからねえ、確率の順列と組み合わせってどう違うんだ、などと絶望的な話をするのみだった。

 僕はそれがすこし寂しく、そのときになってようやく自分が一抜けした気になっていただけだったのだと気がついた。


 数か月が飛んで、夏服から冬服に変わる時期、席替えで僕は廊下側の前から二つ目の席になってしまった。

 休み時間のここには窓際の騒がしさとはまた別の、人のよく通るための鬱陶しさがあった。しかも隣の机に下げられた大きなナップサックのせいで、通行人が僕の机の足を蹴飛ばすため、僕は読書を完全にあきらめて、教室の入口を眺めていることが多くなっていた。


 そこにある日、広瀬の顔がひょっこり現れた。

 僕は内心どきりとしたのだけれど、彼女は教室をぐるりと一周眺めると、がっかりとした表情を浮かべて顔をひっこめた。

 何度かそういうことがあった。

 てっきり例の想い人が僕のクラスにいるのだと思って、あれだろうか、これだろうかとしていたのだけれど、また別の日に彼女がほかの教室でも同じことをするのを見かけた。

 有名人なのだから方々に友人がいるのは変じゃない。


 でもそれよりも別の考えの方が気に入った。

 彼女は窓の外に入れば内が気になり、内にいれば外が気になるタイプなのかもしれない、もしそうならずいぶん前の期待、つまり僕と彼女は似ているのではないかという期待は案外正しかったのかもしれない、などという妄想でしばらく遊んだあと、とうとう僕も彼女から離れてしまった。

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