図書館にて その2

 もう一度だけ手紙に目を通してどうにもならないことを確かめた。


「イタズラ」


 そう断言した。

 鹿野は素っ頓狂な声を上げた。


「えっ。なんでそうなるの」

「見ればわかるよ」


 鹿野は受け取るのをためらったけれども、僕が手紙を摘まんでわざとひらひらとしてみせると、慌てて、けれど慎重に両手を皿みたいにして差し出した。

 彼女は一読してから僕と同じように裏返したり指でこすって本当に一枚だけなのか確かめたりした。


「これだけっていうのは確かに変だけど……」

「あまりにも情報を隠そうとしすぎている。もしラブレター、厳密には違うけど、告白するのできてくださいというのなら同じだろ、ラブレターならどうせ行けば会えるのだから名前くらい書いても大丈夫なはずで、じゃあなぜ書かないのかというと、正体を明かしたときに僕を驚かせようという意図があるからだ」

「……もし佐鳥の手に渡らなかったときに迷惑がかかると感じたのかも」

「これは」と、僕は封筒を指差した。「本にはさんであった。ということは、差出人は僕がこの本を読んでいるのを知っていたんだ。ほら、日を指定していないから、放課後までに読むはずだという確信があったのもわかる。全く見当がつかないけれど、その程度は知れるくらいの近さにいる。だったら他人の冷やかしなんかで僕が動揺するはずなんてないってわかるはずだ」

「そう平然とされるのが嫌だったのかもよ」

「じゃあやっぱり驚かせようとしてるってことになる」

「そうじゃなくって……」

「わかってるよ、わかってる。麗しき乙女心」


 鹿野はため息をついた。


「じゃあイタズラでもラブレターでもないただの呼び出しである可能性は?」

「たとえば?」

「呼び出してボコボコにしてやるぜ、とか」

「メリットがない」

「掃除当番代わって、とか」

「授業が終わって一時間後に?」


 鹿野はうーんと腕を組んで手紙を見つめた。


「でも女の子だね、間違いなく」

「根拠は?」

「字」


 それは僕も気になっていた。

 その字には、普段小さくて丸い字を書く女の子が出来る限りきっちりと美しく書こうとしたようにも、あるいはその逆のようにも見えるぎこちなさがあった。

 どちらにせよ、相手に良く思われたいという気持ちが感じられた。


「ちょっと震えているところもあるけど、書き損じてはいないし、きっと何枚も練習してるよ。それにほら、このライト・パープルは男の子には選べないと思う」


 彼女は触れないように注意しながら模様を指差した。

 今度は僕がうなる番であった。


「いや、寒色系は心理的にどうのこうのって聞いたことがある。そういったことにまで気の回らない人が書いたんじゃないかな」

「もしくはラブレターじゃないか」

「うん」

「でも、男の子だったら線だけとかもっとシンプルな柄にするでしょ。考えて、考えて、この色の花にしたんだよ」

「偏見」

「そう? だったら繊細な心を持った男子生徒を挙げてみてよ」


 僕は黙って首を振った。豊かな胸を張って勝ち誇る鹿野を無視して僕は尋ねた。


「なんの花かわかる?」

「……ううん、植物は詳しくないから。でもライト・パープルと花といえばラベンダーかなあ。全然形が違うけど」

「ラベンダーのラブレター、ね……」

「よくそんなこと言えるね。本当にラブレターだったらどうするのよ」


 そう言って鹿野は呆れたようにくすりと笑い、僕も加わってひとしきり笑ったあと、なんとなく場が白けたようになってしまって、僕たちは自分の本に戻った。


 僕はまだ名前を写し終えていなくて、鷹山遥香という生徒の、鷹という字を確かめているところで止まっていた。

 もし、鷹山遥香が、この五年前の生徒ということしかわからない鷹山遥香が、差出人だったらどうだろう。どんな気持ちで書いて、どんな気持ちで本にはさんだのだろう。

 想像してみる。

 栗色の髪を短い二つ結びにした、人並みによく笑い、平均よりすこし背の高くて、けれどそれゆえにあまり目立たない女の子が、大して話したこともない人間のことを考えながら手紙を書き、机に近づいてそっと中に忍びこませる。

 ラブレターにせよ、イタズラにせよ、いじめっ子に命令されたにせよ、手紙を出すというのはすごく気持ちのこもった行為なのではないだろうか。

 僕にも同じことができるのだろうか。


 そういうことを考えながら鷹山遥香という名前を書いた。

 できる限り丁寧に書いてみたのだけれど、それでも手紙の字の方が誠実に感じられた。


「ねえ」


 鹿野が話しかけてきた。彼女は僕の手が止まるのを待っていたようだ。


「さっきイタズラだって言ったよね。それってラブレターだと認めたようなものじゃないの」

「どういう────」

「だって少なくとも表面上はラブレターに見えるから、ほかのくだらない呼び出しや果たし状じゃなくて、ラブレターに見せかけたイタズラだと判断したんでしょ。しかも話を聞いていると、イタズラだと思ったのもなんか変だっていうあいまいな違和感を根拠にしてるみたいだし」

「それが?」

「……たぶんなんだけど、行こうか迷ってるんでしょ。だから行かない理由を探していて、イタズラだといいなって思ってる」

「かもね」

「だったら行くべきだよ」


 鹿野は静かに言い切った。なにもかも鹿野に見透かされたのだろうと察したけれど、それを明け透けにしない配慮も同時に感じられて嫌な気はしなかった。

 この子はこういう言い方もできるのだ、という新鮮な気持ちもあって、わかったよ、と僕は素直にうなずき、出しっ放しになっていた手紙をもとのように畳んで丁寧に封筒に入れた。

 二人で額を寄せて検分したにもかかわらず手紙にしわがなくてほっとした。


 鹿野が腕時計を見て言った。


「もうすぐ予鈴だし、私、行こうかな。どうなったのか明日教えてよね」


 僕は苦笑いしたけれど、お疲れ、とだけ言って作業に戻った。やがて視界の隅で図書館の扉が静かに開いて、そして閉まった。館内のほかの生徒も帰る支度を始める。


 自分のノルマをやっとのことで終えるとちょうど予鈴が鳴った。

 急がなければならない。見慣れない名前を正確に書き写すのは意外と時間がかかるのだ。


 鹿野といたときの軽い気分はすでに失せて、冷たい水をたっぷりと入れた風船みたいな気持ちになっていた。


「これじゃあなにをやっても駄目だ」


 思ったことをそのまま口に出してみたのだけれど、気持ちは変わらなかった。重苦しい気分のまま鹿野に渡された本を開くと、中に貼られているカードには名前が書かれていなかった。


 五冊とも”当たり”だったのだ。



~~~~~~~~~~~~~~~



 夕方、授業が終わって一時間も経つと、ほとんどの生徒は部活に行くか帰るかして、教室には誰もいなくなってしまう。

 図書館の出口からそのまま高校棟に続く渡り廊下や、その先の高校二年生の廊下には、グラウンドの掛け声や音楽室の下手くそなコントラバスが響いている。

 それらはすぐ近くのはずなのに、輪郭がないせいでどこかずっと遠くのものに感じられる。

 形があるのは、僕の上靴のたてるペタペタという足音だけだ。

 僕は二年生の教室の五つすべてに人がいないことを確かめると、体育館横へと通じる階段を下りた。


 踊り場で手紙を取り出す。

 図書館で確認したかったのだけれど、当番の図書委員が知り合いだったのでできなかったのだ。


「大切なお話があります。放課後、一時間経ってから体育館の裏にきてください」


 鉛筆で書かれた、こんなにも簡単な文章が人の心をかき乱すこともあるのだ。

 封筒を鞄のクリアファイルにしまって再び歩き出した。関節がギシギシと音を立てだしたみたいだった。

 緊張していた。

 なんとか紛らわせようと、昼休みのあれこれを思い出していると、ふとある可能性に思い至った。


 封筒がはさまれているのを見つけたとき、鹿野はなにを思ったのだろう。

 鹿野は、僕が回りくどい方法で彼女に手紙を渡そうとしていると考えたのではないだろうか。

 だとすれば一連の会話に別の意味が生まれるのではないか、背中を押すような発言にはなにか意図があったのではないか。

 鹿野の表情はどうだっただろう、もっとよく見ておくべきだった、もし…………。


 このように疑問から空想が、空想から疑問が、一歩ずつ飛躍を広げながら次から次へと生じていった。

 僕はそれを自覚していたけれど、ふとした瞬間に自分がなにをするつもりなのか思い出すと、苦い冷静さが来る前に妄想の世界へと再び逃げてしまうのであった。


 もし相手が僕を好きだと言ったとき、どう答えるのか僕はすでに決めていたのである。


 風の強い日で、そのせいか体育館横にある柔道場や剣道場の窓はカーテンまで閉ざされていた。

 これ幸いにと僕は急いでいたのだけれど、背中からの強風に白いものが交じっているのに気がついて足を止めた。それは長くは飛ばず、ひらりと道を外れて脇の草むらに落ちた。

 花びらのようだ。

 まさかと思いつつも拾ってみると、やはり桜のように見える。

 振り返ってもそれらしい木は周りにない。なにより、四月の下旬なのである。進学路に植わるソメイヨシノはみんな緑色になっているのだ。

 よくできた造花なのではないか。

 調べてみようと手のひらに乗せると、途端に再びの強風が僕の行く方へと巻き上げていって、それでも僕は目で追っていたのだけれど、すぐに塵と見分けられなくなってしまった。


 そろそろ本当に意を決しないといけなかった。

 僕は軽く息を吐き出すと、ずんずんと歩いて一気に角を曲がった。


 すでに人がいた。

 女の子だ。

 そこにいたのは、僕が想像さえしなかった美少女、学園の高嶺の花、広瀬葵であった。

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