図書館にて その1
廊下を駆けてきた勢いそのままに図書館の扉を押したので、扉の大きな音に僕はぎょっとしてしまった。
そしてそれが鹿野に聞こえただろうと思うと、いかにも急いできたのだとアピールしているように聞こえたかもしれないときまりが悪く感じた。
カウンターの中ではすでに鹿野が作業を始めていた。
「ごめん、遅れた」
変な抑揚のついてしまったその言葉を僕は、またしてもいかにもすぎたと激しく後悔した。
鹿野はすこし顔を上げて言った。
「五冊、代わりにやってよね」
「そんな時間ないよ、遅れてきたからね」
「だったらこれから私も五分遅れるわよ」
彼女は笑いながら自分の机から本を数冊取り上げて寄越した。ありがたかった。先ほどの僕の情けない気持ちは消えた。
鹿野と話すようになってまだ間もないけれど、こちらが謝意を示している限り、怒ったり拗ねてみせたりはするものの、彼女は必ずこうして気持ちよく許してくれた。
彼女のそういうところに僕は好感を持っていた。
僕はノートを取ってきて彼女の向かいに座った。
僕と鹿野は図書委員会に属している。本来ならば割り当てられた曜日の昼休みと放課後にカウンターに座って貸し出しの手続きを行ったり、図書館の見回りをしたりするのが仕事であるのだけれど、僕たちはそれらの活動の代わりに毎日昼休みに雑用をしているのであった。
主な仕事は本に貼られた貸し出しカードのデータをノートに書き写すことである。
このカードはつい四年前まで手作業で貸し出しを行っていた名残で、貸し出し日と借りた生徒の名前が記されている。
だから最近入ってきた本にはカードが貼られていないし、古いものでも借りられていない本のカードにはなにも書かれていない。
書き写さなくていいので、僕たちはこれらを”当たり”と呼んでいた。
鹿野はすぐに自分の仕事を終えて、最近見た映画の話をしだした。中年の男女のラブストーリーで特別派手なシーンはないが、主演二人の自然体な演技が印象に残ったという。
彼女はふと僕の持ってきた本に目を止めた。
「昨日言ってた本?」
それは高名な指揮者の評論集だった。文庫本でも出ているのだけれどそれは完訳ではないため、手に入りにくくなっている完訳版をつい先日探し出して買ったのだった。
僕はうなずいて鹿野にその本を渡した。
「確かこの人ってベートーヴェンとかで有名なんだよね?」
「そ。音は古いけど素晴らしい演奏をいくつも残してる。ワーグナーとかも評判だね、僕の好みは別として。聞いたことは?」
鹿野はページをめくりながら首を振った。
「言ってくれれば今度貸すよ」
一度もクラスが同じになったこともなく話したことさえなかった僕たちが、一緒に委員会の仕事をするようになってすぐに打ち解けたのには、読書という共通項のほかにこの点の作用するところが大きかった。
僕たちは読書以外にもそれぞれ音楽と映画を趣味にしていて、同時に相手の趣味にも興味があったのである。
僕は彼女に古い洋画をいくつか教えてもらった。
知らないものばかりであったけれどどれも面白く、それを好きなシーンとともに素直に伝えると彼女は嬉しそうに、あのシーンは俳優のアドリブなんだけれどそのせいで監督が凄く怒った、そこのカメラワークは実はかなり凝っていてね、といった具合に解説してくれるのであった。
「あれ」
鹿野が声を上げた。
「なにかはさまってる」
洋封筒だった。僕が渡した本の見返しにはさまったその白色は浮いて見える。
ラブレターだ、と直感が告げた。
同時に次々に疑問が生じる。誰が、いつ、どこで。
買ったのは二日前であるから、その前後どちらであるかがまず問題だ。前であるなら誰かも知れない人間のイタズラだし、後であるなら僕へ宛てたものである。それなら買ったときどうだったのか考えるのが早いのだけれど、知った本であることが災いした。普段ならパラパラとめくって試し読みするところを、事前にネットでチェックしてあったので、表紙とタイトルだけで買ってしまったのだ。カバーをかけてもらわなかったので、そこでも判断はできない。
では家に帰ってからはどうか。思い出せない。その日の晩はつまらない件で妹に叱られて疲れてしまい、さっさと寝てしまったのだ。そのときどこに本を置いていたか。思い出せない。
この一瞬の当惑の後、僕はふと目の前に、願望と言ってもいいくらい、ひどく性急で簡単な答えが転がっていることに気がついた。
鹿野なのではないか。
鹿野なら、僕が作業しているあいだに簡単にはさんでしまえたはずだ。こんなことをするとは思えないけれど、そもそもラブレターを出すという行為自体が、日常を飛び越えた大胆極まるものであるので、むしろ不自然である方が自然なのだ。もしかすると僕は、なにか兆候を見逃していたのかもしれない。そわそわとしたところはなかったか、あるいは仕事の本を寄越したときの微笑みに別の思惑が滲んでいなかったか。
そうして僕は、本ごと封筒を受け取る際に鹿野をじろじろと観察したのであるけれど、しかし彼女の瞳の中には女の子らしいきらきらとした好奇の光しか認められないのであった。
ふっと肩の力の抜けた僕は、冷めた、いくらか投げやりな気持ちで封筒を開けた。
中にはやはり白い便箋一枚しか入っていなくて、そこには鉛筆で次のように書かれていた。
「大切なお話があります。放課後、一時間が経ってから体育館の裏にきてください」
これだけだった。
何度か読み返してから裏返して、宛名も送り主の名前もないことを確かめた。封筒は封を閉じられてさえいない。
妙であった。
文章からは書かれていること以上のものは読み取れなかった。差出人がそのように細心の注意を払って書いたのだろう。
ふと、手紙の左上と右下に描かれた薄い紫色の花の模様に目を止めた。
この模様の方が本文よりも差出人について詳しく語っているように思えて、僕はそれを眺めながらこの手紙にどういう意図があるのだろうと考えた。
すこし考えた末に、僕は候補を二つに絞った。
一つ目、やはりラブレターである。けれど心当たりがない。
僕が日常的に会話しているのは鹿野だけで、そしてその鹿野はこんなである。
クラスメイトとは交わした言葉の数よりも一週間に食べるパンの枚数の方が多いくらいで、他クラスの生徒とは言うまでもない。
二つ目、イタズラである。
こちらの方が僕としては助かる。なぜなら差出人が僕の知り合いではなくなるからだ。
僕は疑り深く、慎重で、なんでもこうやって裏まで考え通してしまう。イタズラの標的にするにはあまりにもつまらない。ミスキャストだ。だからこれを出した人間は僕を全く知らないということになる。
どちらにせよ、お手上げだった。
僕のことを知らない人間について、あるいは僕の知らない人間についてなにがわかるというのか。誰かに相談しようにも、もしラブレターであったらと思うと気が引けた。
すっかり参ってしまって、思わずちらりと鹿野を見た。
彼女は最初からわくわくドキドキ、今にも身を乗りだそうといった感じであったけれど、僕の様子からなにかマズいことがあったと察したのか、黙って静かに待っているのであった。
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