第一話

綾藤と古椿

 全国でも一二を争う進学校、私立東山稜寺学園は都心からすこし離れた場所にある。

 離れたと言っても新宿から最寄りの駅まで電車に揺られること一時間弱、そこから歩いて二十分ほどの距離であるので、足腰が多少疲れるもののあまり不便には感じない。

 学校は小高い丘の上にあり、その周囲には木々が生い茂っている。学校から麓へと伸びる道の脇には桜が植えられていて、高地であるおかげか桜たちはちょうど入学式の頃まで耐え切り、きれいな花びらを散らして、新入生を歓迎する。

 けれど、彼らはこの急な坂道を上るのに必死で桜吹雪を楽しむ余裕などないようだ。

 坂道と学校生活に慣れるのに時間がかかるし、二つある校舎のうち桜を見下ろすことのできる手前のものは高校生が使い、中学一年生の教室は奥の方の校舎の一階にあるので、彼らがこの美しさに気がつくのは翌年以降ということになる。


 高校二年生にもなるとこの風景は、大変な人気で、休み時間の窓辺は女子生徒が独占してしまう。

 可哀想なのは僕の隣の席の眼鏡をかけた彼だ。

 窓際の前から五つ目という前過ぎず後ろ過ぎずちょうどいい席をせっかく手に入れられたというのに、その恩恵に与ることのできるのは授業中だけで、休み時間には前の席の女子の友人に自然と追いやられてしまうことが多く、ついには自分から席を立ってほかのクラスの友人に会いに行くようになってしまった。

 彼はそれほど気弱なようには見えないのだけれど、その二人がそれぞれかなりの美人であるのできっと気後れでもしているのだろう。

 彼が自分の席で昼食をとっているのを僕は見たことがない。


 この日もまた、眼鏡の彼は弁当を持って立ち上がった。


「そこ、座っていい?」


 件の美少女、古椿である。彼女もさすがに悪いと思っているのか、このように眼鏡君に一言かけるのだ。


 眼鏡君は小さくうなずき、そそくさと教室を出て行った。

 その背中に向かってお礼の言葉を投げると彼女は、眼鏡君の前の席に座る友人に向き直った。


「じゃあ、百合。昼ご飯食べよっか」


 百合と呼ばれた少女は、うん、と一言答えると、立ち上がって自分と眼鏡君の机を古椿に手伝ってもらいながらくっつけ、そのまま二人で仲良く手を洗いに行った。


 綾藤百合は静かで大人しい美少女である。

 よほどひねくれた者でない限り、初対面で彼女に悪印象を抱くのは難しいのではないだろうか。

 すこし癖はあるもののよく手入れされた長い髪、掴むと折れてしまいそうな細い肩、すっと伸びた上品な眉、そして彼女がいつも浮かべている穏やかな微笑み。

 これらどれか一つだけを取り出しても、そこから全身をそっくりそのまま再現することも簡単だろうと思えるほどに、彼女の容姿は調和していた。

 性格についてはちゃんとはわかっていなかった。

 彼女は常に古椿とともにいて、たまにほかの人間と話すときでも、彼女らしい穏やかで可愛らしいことを述べる程度であった。


 綾藤に比べると、古椿莉菜について僕の知っていることは少々多い。

 例えば、彼女が美貌を自覚していること。

 制服のボタンを二つ外すと、くぼみのある健康的な鎖骨がちらりとのぞき、襟足のすっきりとしたショートヘアをしているのもあって、思わず見とれてしまうような首筋が露になることを彼女は知っている。

 一方で、そうして首筋を見せびらかすのは、昼休みに手を洗いに席を立ってから食事を終えて弁当箱を洗いに行くまでのあいだだけだし、制服の着こなしに関しても、緩すぎるわけではないわが校の規則の範疇に収まっているので、彼女が先生の小言の対象になったことは一度もないはずだ。

 言動についても同じで、ラフなように見えても実は一線を引いた中で自由に選択しているのであって、大声を出しても下品なことは言わない、ペンを回して遊ぶことはあっても机にものを置くときには決して音を立てないなど、奇妙なところで徹底されていた。

 そういう親しみやすい品の良さは、綾藤と並んで立つとより目立ち、そして二人を周囲から切り離していた。


 だから、古椿が僕に話しかけてきたのは非常に珍しいことだったのだ。


「どうしたの?」

「ちょっと」急に向けられた視線に僕はまごついた。「考え事を……」

「考え事をするのにこっちをじろじろと見る必要、ある?」


 おどけるような彼女の口調には、確かに非難するような響きが混じっていた。

 僕はわざとらしく肩をすくめてみせた。

 

「ごめんごめん。正直に言うと、あまりにも美人だから見惚れてたんだ。弁当箱のフタを持ち上げるその仕草はまるで宗教画のようだったよ」


 瞬間、古椿の眉間にシワが刻まれた。


「げっ。佐鳥ってそんなこと言う奴だったんだ。私ら初めて話すよね。それで、それ?」

「なにか勘違いしているみたいだけど」と落ち着き払って僕は言った。「僕は綾藤のことを言ったんだ」


 今度の台詞は効いたみたいだ。僕の言葉は彼女の頬、耳、そして首までもをさっと赤く染め上げた。

 

「そういうことしか言えないわけ?」

「そういうこと”しか”? ファーストコンタクトで僕のなにがわかるって? ……あ。君、もしかして僕のこと」

「はあ? 自意識過剰」

「ん、自意識過剰? なんで君の話になるんだ?」

「……あんたさあ────」

「まあまあ落ち着いて」そう言って綾藤があいだに入る。「まず、莉奈ちゃんがちょっと悪いかな。あんな怖がらせるような言い方するんだもん。佐鳥くんも、からかいすぎ」


 僕は再び肩をすくめ、神妙な顔をして自分の机に置かれたおにぎりの包みを外しにかかった。


「相変わらずだね、佐鳥くん」

「どーも。才気煥発という四字熟語の省略された褒め言葉だと受け取っておくよ」

「二年ぶりかな、同じ班になったとき以来。あのとき莉菜ちゃんは別のクラスだったよね」


 綾藤の言う通り、僕たちが口を利いたのは中学三年生が最後だったのだけれど、そのころから彼女にはこういう押しの強さがあった。普通、会話というのは相手を探りながら進めるものだ。相手が音楽を解しているか、皮肉は通じるか、こちらの意図を言葉だけでなく態度でも示さなければいけないか、そんなことを一つ一つ確かめ、相手の領分に踏み込んだり、あるいは笑顔を保ちながら一歩下がったりする。

 綾藤はそういった詮索の一切を跳ね除けていた。いや、詮索が通用しなかった、と書いた方が正確だ。それが故意なのかそうでないのか、もし故意であるのなら悪意があるのか、それともただ二人の孤独を好んでいるだけなのか、そんなことさえわからなかったのだから。


 中三で同じ班になったとき僕は、こういったことをすぐに察知したのだけれど、だからといって彼女に話しかけるのをやめるわけにはいかなかった。同じ班の残りの二人の仲が良くて、僕と綾藤は放っておかれることが多かったのだ。休み時間なら本がある。だけど理科の実験、音楽のグループ演奏の練習、様々な課外活動なんかのあいだはどうすればいい? 

 結局僕は、砂浜に押し寄せる波のように手を変え品を変え冗談を言い続けることにし、そして綾藤は絶海の孤島であり続けた。

 いや、我ながらこの表現はどうだろう? まあ、要するに、僕は綾藤の表面の部分しか知れなかったということだ。


 僕がなにも言おうとしないのを見て綾藤が続けた。


「いつもはお弁当じゃなかった?」


 寝坊しちゃって、とおにぎりを指差す。百円ショップで買った型に押し込んで形を作り、ふりかけをかけてラップで包んだだけの簡単なものだ。


「あれって佐鳥くんが自分で作ってるんだよね?」

「そ」

「昔から料理得意だよね、覚えてる? 家庭科でオムレツ作ったの。染み一つない真っ黄色なオムレツをフライパンの上でころころさせていたよね」

「そーだっけ?」

「覚えてないの?」

「えっと、誰かがパスタをシンクにひっくり返したとき?」

「違うよ、オムレツは朝ご飯のとき。パンを焼いて、ベーコンを焼いて、レタスをちぎってってしたじゃない」

「よく覚えてるね」

「もちろん覚えてるよ」


 ふっと影が差した。綾藤は言葉を付け加えたけれど、隠し事をするかのようなその性急さは彼女には滅多に見られないものであった。


「だって佐鳥くん、毎日するからってなんでもないように言うんだもん。忘れられないよ」

「悪かったね、怠惰そうな人間で」

「そういうつもりじゃ……」


 綾藤はくすりと笑った。それに合わせて古椿も笑う。

 放っていたことを反省して、僕は古椿に目をやった。


「二人は料理しないの?」

「私は全然」と古椿は唐揚げをつまみ上げ、一口で食べてしまった。「百合はやればできそうだけどね、おばさん、すんごいから。作るのが好きなんだって。私が百合んちに行くたびにご馳走してくれるんだ」

「普通だよ」

「いやいや、このあいだの日曜だって凝ってたよ。昼はフルーツサンドだったでしょ、甘すぎなくて、紅茶を濁らせないような。晩はグラタンにサーモンのキッシュ。もちろん両方とも完全手作り。これがまた絶品で、絶品で」

「さすがにキッシュは冷凍の生地だったけどね」

「ん…………」

「お母さん、言ってたよね。莉奈ちゃんがいるところで」

「あっれー……、そういえば? そんな記憶も……」

「覚えてて話盛ったでしょ」

「…………」

「莉菜ちゃんって、都合が悪くなると露骨に言葉に詰まるよね」

「…………いやいや、大事なのは料理をおいしく作ろうという心構え、気持ちの問題で合って、冷凍食品とか関係なくて、えーと、だからつまり空腹は最高のスパイスだなんていうけれど、それなら作ってあげたいって気持ちは、心の器なんて言葉があるように最高の食器だし、あのとき私はお腹がちょー空いてたから最高のスパイスもあったわけで、つまり……、だから気持ちのこもった料理はおいしいよね」

「日本語がぐちゃぐちゃになってるよ」


 話すうちにすっかり機嫌を取り戻していた古椿は、あれれ、と頭を掻いた。そして笑い声は遠ざかっていったけれど、僕は特に気持ちを悪くすることなく、黙って自分の考えに戻った。

 綾藤と古椿はいつも一緒にいた。同じ電車に乗って登校し、並んで校門から出ていった。一人が日直のときは仕事が終わるまでもう一人が待った。二人は両方の目のように同じものを見ていた。共有していない映像はお互いの顔だけだろう。


 それは楽しいのだろうか。

 僕にも仲のいい友人がいたことはあったけれど、それでもこんなにべったりではなかった。二人とも口数の少ないせいか、談笑するよりもなんとなく近くにいてそれぞれ別のことをしている方が多かった。もちろん話もした。でもそれも、かゆくなった鼻先を指でちょいちょいと撫でるような些細なものだった。

 それは楽しかったのだろうか。わからない。感情は忘れられてしまった。綾藤と古椿は小学校より前から家族ぐるみで付き合いがあるのだという。僕にも幼馴染がいれば二人の気持ちがわかったのだろうか。だとすれば、小学校に上がった時点で僕は、大きなものを永遠に失っていたことになる。


「佐鳥、行かなくていいの?」


 降ってきたような声だった。思わず瞬きして、見ると、古椿が時計を指差していた。


「時間なんじゃないの、図書館の」


 昼休みになって十五分が経とうとしている。僕は慌てて立ち上がった。結局おにぎりは一口も食べられなかった。バタバタと机の上を片付け、ペンケースと本をまとめて引っ掴んで取り出した。机に置く時間も惜しい。


 今にも駆け出そうとする僕を古椿が呼び止めた。


「本、持って行くの」


 僕は言葉の代わりに本を持った手を上げて返事をした。

 それがどうしたのだ、という疑問が追いついてきたけれど、すでに教室を出てしまっていた。

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