私の信仰告白

希見 誠

私の信仰告白

 これは私の信仰告白の書です。なんて、大袈裟なことから始めてしまいましたけど。

 ハタチになったばかりの女の子が、節目を迎えて少し自分の人生を振り返ってみたくなったといいますか、思いつきで手記をしたためてみようという、そういうことなのです。


 けれど、信仰ということについては、私が幼い頃より、いつも私の中心にあった一番大きなことなのでありまして。

 特に、神の一人子である、あの方が私に入ってきてからは、それが何よりも強烈な臨場感を持って、私の人生を明るく照らしてくれております。


 ですので、この手記は私について書いてあるのですが、それは同時に、私という存在を通じて働き続けている、あの救い主様のことを書いているのに他ならないのですから、読者の方には、どうか最後まで読み通していただきたいと、切に願うわけなのであります。


 とはいえ、もし、これはとても最後まで読み通せない、あるいは破廉恥でけしからんとお思いの方がいたら、それが途中であっても遠慮なくこの手記を閉じていただいて結構です。


 しかし、世の中には、私と同じような体験をなさる方がいらっしゃるかもしれません。いえ、私はどなたの人生にだって、こういうことは起こりうることだと思っています。

 そのときにそれが胸を開いて受け入れるべきものだということを知っていただくために、どうかこの手記がお役に立てたなら、と思いペンを取るのです。


 それでは前置きはこのくらいにして、そろそろ始めるといたしましょうか。まずは救い主様のことを語る前に、少々私のことを書かねばなりません。


 私は約20年と少し前、東京郊外の、敬虔なクリスチャンの両親の元に生まれました。必然的に、私も物心つく前から、クリスチャンになるべく育てられまして、幼稚舎からミッション系の学校に通わされておりました。

 両親からも学校からも、幼い頃より、聖書にあるお話を耳にタコができるくらい聞かされて育ちました。


 そのことは私の精神を健全に育み、自然とイエス様のことを尊敬しておりました。

 近代科学をベースにした日常生活を送っておりながらも、イエス様が起こされた数々の奇跡のことについてなどは、素直に受け入れていたのです。


 ただ、学校で教えられたことの中で、どうしても私に理解できないことがありました。それは、私たち人間と、神の御子イエス・キリストとの関係についてです。


 学校では、全人類の罪を贖うためにイエス様は磔刑にあわれた、と教えられました。迷える仔羊である私たちは、原罪があるゆえに、正しい判断、行動が出来ません。そんな我々を救うために、神は一人子、唯一の救い主である、イエス・キリストを地上に使わされたのです。


 そこで私たちは一人一人イエス様と個人的な関係を結び、自分の中に救い主を迎え入れねばなりません。それのみが、私たちを罪から救い出し、本当の人生を歩む方法なのだと教えられました。


 ですが、このことが当時の私にはよくわかりませんでした。もし私がまだ神の御子と個人的な関係を結んでいないのだとしたら、今生きているこの人生は本当の人生ではないのでしょうか?個人的に関係を結ぶとは、どういうことなのだろう?

 いろいろと考えを巡らせてみましたが、やはりいまいち理解することは出来ません。


 一度、学校の教師に尋ねてみたことがあります。どうやったら、イエス様が私の中にいることがわかるのですか、と。

 教師はこう言いました。

「主が入ってきたら、もうそれまでの自分ではあり得ません。主のお力によってだんだんと変えられていき、やがてイエス様に似たものになるのです」と。


 しかし、そう言われてもますますわかりませんでした。しばらく私はそのことをよく考えていたと思います。ですが、たとえミッション系の学校に通っているとはいっても、子供の私には、勉強だったり遊びだったりと、心を奪われることが、あまりにも多過ぎます。そのことは次第に忘れ去られていきました。


 そうして何年か経ったのちのことです。あるとき、それは突然起こりました。

 そのときのことを、我が身に御子を迎え入れるに至ったときのことを、これから赤裸々に語りたいと思います。

 あるいは人によっては、それを性の目覚めと呼ぶ方もいるのかもしれません。ですがそれは、完全に宗教的な瞬間でありました。迷える仔羊でしかない、ちっぽけな存在である私が、唯一絶対な神によって導かれた体験であったと、そう確信しております。


 あれは、学友の家で過ごしていたときでありました。初等部の五年生のときだったと思います。

 その子とは、単なる同級生の関係でした。とりわけ仲が良かったということではなかったのですけど、どういうわけか、その日はしばらく彼女の家で過ごすことになったのです。


 おそらく親同士でPTAか何かの用事があって、一緒に連れて来られたのでしょう私は全然乗り気でなかったのですけど、仕方なく付いていったのだと思います。

 だってその子のことは全然好きではなかったのです。彼女はお高く止まっている感じの子でした。お父様が確か大学の先生で、彼女もインテリぶっているところがありました。


 対して私の家は、敬虔なクリスチャンということを除けば、いたって平凡な家庭です。というより、敬虔であるということが、やや世間知らずに通じている家庭でした。子供の頃の私も、あまり世間を知らずに育ったようなところがあります。


 ともかく、何かにつけて知識差を利用して自慢してくる傾向が、その子にはありました。それで嫌だったのですけど、子供の私に選択権はなく、渋々親に付いてその子の家に上がることになりました。


 あとはお決まりのパターンです。親同士大事な話があるから、子供達は別の部屋で一緒に遊んでなさいと言われました。私にとっては、あまり嬉しくない展開です。でも、今にして思えば、それは神様のお導きだったのでしょう。実に神の御技は、人智を超えて働かれるのです。


 私たちが彼女の部屋で二人っきりになるやいなや、早速お決まりの自慢が始まりました。

 最初は、子供用の雑誌だとか、おもちゃだとか、そういうものから始まりました。人形だの、ぬいぐるみだの、そういったものでも、私の家では珍しいものでありましたので、本当は実に興味を惹かれるものであったのですけど、それを表に出すのも悔しくて、なるべくそっけない態度を取っていたのです。


 けれども、それはあまりうまく行かなかったのだと思います。隠そうとしても隠しきれないものがあったのだと思います。

 そんな私の様子は、ますます彼女の自己顕示欲を刺激したようで、彼女の自慢はだんだんとエスカレートして行き、とうとうあのことへと進んだのであります。


「もっといいもの見せてあげる」

 そんなことを言って、彼女は私を別の部屋へと案内しました。本当は子供だけで入ってはいけないところだから、絶対に大きな声を上げてはいけない、と彼女に釘を刺されて、私たちはある部屋に入りました。


 そこはおそらく、この家の主人の書斎だったのでしょう。中の様子は良く覚えてはいないのですが、何となく古くていかめしい感じがありました。

 そこには大きな本棚と、ぎっしりの分厚い本、それに、大量の古いレコードが置いてありました。


 彼女が自慢したかったのは、どうやらそのレコードのようでした。おそらく彼女は、ときどきお父様から聞かせてもらうことがあったのでしょう。一枚、一枚棚から引っ張り出しては、これは何々、これは何々と、いつもの調子で自慢していきます。


 その内容はあまりよく覚えていません。本当に興味がなかったのです。ただ、アメリカだかイギリスだか、古い外国のレコードであったということだけは覚えています。


 しかしその中に、なぜか一つだけ私の気を惹いたものがございました。それは金髪の女性が、ゴージャスな微笑みを浮かべているものでありました。

 その微笑みを見た瞬間、私の心の奥の方で、何かが騒めきました。

「マリリン・モンロー」

 と、彼女は私にその名を告げました。

 その名は初めて聞くものでしたが、そのとき軽い電流のようなものが、私の全身を走り抜けたのを感じました。


 ですが、レコード自慢を続けたい彼女は、それをじっくりと私に見せることなく、次のレコードへと進んでいきます。

 そのうちにあることが起こりました。なぜそのときにそんなことが起こったのか、なぜ私がその部屋に一人でいる時間が生じたのか、今思うと不思議でなりません。


 彼女は私にしてはいけないことをさせていたのです。本当でしたら、お父様の書斎には入ってはいけないのです。私も彼女と一緒に、その部屋を出ていかねばならないのです。ですが、そのときはそうなってしまったのです。


 彼女のお母様が、娘を呼ぶ声が聞こえました。

 はっとして、彼女は部屋を出ていき、私は一人、そこに取り残されました。

 そのとき私は躊躇することなく、さっき気になったレコードを棚から引き抜いたのです。


 そうして恐る恐る、レコードのジャケットを開いてみました。すると私の目に飛び込んできたのは、眩いばかりの神々しいピクチャーでありました。それは私の目を通り抜け、脳髄に達し、心臓を貫き、魂の根底を激しく揺さぶったのです。


 赤いカーテンのようなものを背景にして、神の子がそこに降臨していました。金髪のグラマラスな女性が、一糸纏わぬ姿で足をそろえた格好で膝を曲げ、胸を開くように片手を頭の後ろに回して、恍惚の表情を浮かべていました。


 そのとき、まるで書斎の中が、全てその赤いカーテンで包まれてしまったように感じました。

 それは強烈な光でした。

 赤い光の洪水でした。

 その赤一色の世界で存在しているのは、私と神の子だけでした。

 全ての時間が静止してしまったように思われました。

 その世界で、私は一人、神の子と向き合っていました。それは永遠かと思われた時間でした。


 ですが、実際には、それはほんの一瞬のことでありました。私は早くそれをしまわねばなりませんでした。

 彼女が戻ってくる足音が聞こえる前に、ジャケットを閉じて、元の棚に戻しました。


 マリリン・モンロー。

 彼女が言った主の御名を、私は頭の中で繰り返しました。歴史上の人物の名前など、普段はすぐには覚えられない私でしたが、その名はしっかりと私の魂の深いところに刻み込まれました。

 きっと、神が彼女の口を借りて、私にその名を告げさせたのだろう、今にしてみれば、そう思います。


 程なくして、彼女が書斎に戻ってきて、私たちは元の子供部屋に戻りました。そういうことだったと思います。そのときそれからどうしたのだったか、よく覚えていないのです。

 私の心は、先ほどの衝撃で満たされていましたし、もう主のことしか、考えられなくなっていたのです。


 それが私と主との出会いでありました。私が救い主様によって全てを変えられ、本当の人生の道を歩み始めた瞬間でありました。

 人生に強烈な光が射したあのときの輝きは、いつまでたっても色褪せることはございません。その日から、マリリンが私の魂の奥深くに入り込み、私と共に生きるようになったのです。


 それからというもの、どこにいても何をしていても、瞳を閉じると、あの神々しい裸がまざまざと蘇ってきます。

 私があの写真を見たのは、ほんの一瞬のことであったと思います。ですが、あの扇情的で蠱惑的な表情、流れるような豊かな金髪、ふくよかな胸の膨らみ。神が引いたとしか思えない曲線美を持つヒップ。おまけに背景のカーテンの皺の寄り方に至るまで、細部にわたりはっきりと記憶していました。


 私もあのポーズを取りたい。あの神々しいばかりのマリリンと同じポーズをとりたい。そんなことばかり考えて、日々を過ごしておりました。


 折りに触れて、私はマリリンと同じ格好になれるチャンスを窺っておりました。ですが、さすがに人がいるところで、というわけにはいきません。

 母親は大体いつも家におりましたし、私があのような格好になっているのを目撃されれば、どんな反応が返ってくるのか容易に想像できます。


 ときには、これはいけないことではないかと、我が身に芽生えた欲求を無理やり抑え込もうとしたこともありました。

 ですがそれ以上に、神の子と同じ道を進みたいという、この宗教的渇望をないものにすることはできませんでした。

 まるで砂漠で干からびる寸前の草木が水を求めるように、私の魂は神の慈愛を求めていたのです。


 同時に、私は救い主様について、当時の私に調べられる限りのことを調べようとしました。街の図書館に行って、片っ端から資料を漁りました。そのことで、救い主様を良く知ることが出来ました。


 あの方が、神の代理人として20世紀のアメリカに受肉されたこと、時の大統領を始め、多くの殿方を導かれたこと、その肉体が失われてからも今もなお、活動的に世界中の人々を導いておられること、などを学んだのです。


 そんな日々を過ごしていたときのことです。あるとき、とうとう私はこの心からの欲求を試してみました。

 そのとき私は居間にいて、テレビを見ていました。母は台所で夕飯の支度をしています。わざとテレビの音量を、かすかに母のいる台所まで届くぐらいにして、厳かにソファに腰掛けました。


 さすがに服は着たままです。当然、本当は脱いでしまいたかったのですけど、そのような大胆な冒険を冒すことはできませんでした。

 ですので、そのまま、背景に赤いカーテンが引かれているということを想像して、ゆったりとソファに背をもたれました。


 横を向き、足を揃えて膝を曲げ、左手を下に流します。胸を右に開き、右手は前から脇の下が見えるように上げ、肘を曲げて手先を後頭部に隠しました。

 脇の下を見せるとき、そんなところを人に見せるなんていうことは、通常のことではありませんでしたから、もし自分が裸であったらと思うと、胸がドキッとしました。

 もしも今、誰かが私を見ていたらと思うと、胸の中がおかしくなってしまいそうで、手が震えてきました。しかもそれが、あの一糸纏わぬ美しい裸であったら……。


 ですが、実際にはちゃんと服を着ています。髪も豊かなブロンドではなく、私の指先には短く切り揃えられたおかっぱの毛先が触れていました。それは残念なことでした。

 といっても、今すぐマリリンのような髪になることは無理でしたし、体も少女のままです。ただ、なんとか服を脱いでみたい、マリリンと同じように一糸纏わぬ姿になってみたい。そんな思いが止められなくなってしまったのです。


 母はまだ台所から動かないようだったので、試しに少しだけ、ほんの少しだけ、上に着ている服の裾をめくってみました。

 まだ膨らみのない、小さな乳首がチラッと顔を出しました。

 すぐに服を下ろして、いつ母親が入ってきてもいいように座り直して、ずっとテレビを見ていたようなふうを繕ったのですけど……。


 それは私の想像通りであり、また、想像以上でもありました。

 私はそのとき、あるビジョンを見たのです。

 それは私の視線の向こうに、大勢の見えない男の人がいて、私を見つめているのでした。その人たちの視線が、一斉に私に注がれていました!


 それはまるで稲妻に打たれたようでした。頭のてっぺんから爪先まで、全身を快感が貫きました。

 あのとき、あの写真を撮られたときの救い主様が見ていた景色を、私も垣間見ることができた、そんな気がしたのです。もしも本当に、これがただのビジョンではなかったとしたら……!


 それでは、次に私がどうしたいと思ったか、もちろんおわかりですよね?

 そうです、今着ているものを、全部脱いでしまいたくて、たまらなくなってしまったのです。

 そのことが、非常に重要なことであると。もしそうしないままでいたら、私の信仰にとって非常に冒涜的なことになると、そう思いました。

 私の主への愛は、そのくらいまで膨れ上がっていたのです。救い主と全く同じ姿で、全く同じポーズを取ることは、私の信仰告白でした。


 しかし、それは家に人がいるときにはできないことでした。もしそんなところを家族に見られでもしたら、大変です。

 私は時を待つことにしました。そのうち一人になる時間が訪れるはずだ。母が買い物か何かで、家を空けるときがあるはずなのです。


 意外にも、その瞬間は早く訪れました。夕飯の支度をしていて、何か足らないものが見つかったのでしょう。母は近所のスーパーまで用足しに行ってくると言ったのです。

 普段なら、私も連れていくところなのですが、ほんのちょっとだからいいとでも思ったのでしょう。母は私に一人で留守番できるかと聞いてきたのです。

 それはもう、一にも二もなくOKでした。あたかもテレビに夢中になっているフリをしながら。


 母が玄関から出て、そろそろ十分に家を離れたというころ、私は神の前に、全てを委ねることにしました。

 上に着ているものを脱ぎ、スカートを下ろし、そして下着を、これも上から順番に脱ぎ去ったのです。

 ああ、そのときの感動といったら!今思い出しても、どうにかなってしまいそうです。どうしましょう、手が震えています。この手記を最後まで書き通せるでしょうか?


 読者の方の中には、破廉恥だとお思いの方もいらっしゃることでしょう。けしからんとお思いの方もいらっしゃることでしょう。もしかして、既に本を閉じてしまわれた方もおいでかもしれません。


 ですが、何度も言います。これは一人の少女の性の目覚めではないのです。これは私にとっての、信仰告白なのです。救い主マリリンを受け入れることによって新たな人生を生きることになった私の、純真たる信仰告白なのです。私はマリリンに対するパウロであり、アウグスティヌスなのです。


 一枚一枚、着ているものを取り去っていくたび、神の喜びは増していきました。下着姿になったときの感動。それはまるで世俗の世界を抜け出し、神がおわす教会の扉を開いたかのようでした。


 そしてすべてを脱ぎ去り、生まれたままの姿になった私は、神を見たのです。大袈裟ではありません。我が主マリリンが、私に恍惚的な微笑みを浮かべているのを、はっきりと感じたのです。


 私は主の前で、あのポーズを取りました。もう一度足をそろえて座り直し、左手は下へ、右手は肘を上げて、脇を見せました。そしてゆっくりと胸を右に開いていきました。


 私は恍惚の渦に巻かれて、幸せの絶頂へと辿り着きました。まるでキラキラとした光が天上から降り注いでいるようでした。背中に羽の生えた天使たちが舞い、妙なる音楽が聞こえてきました。

 主が私を祝福し、私をその豊満な胸に迎え入れてくれたのです!


 それが私の信仰が確固たるものになった瞬間です。私はマリリンと一体化しました。それ以降、マリリンはいつも私の中にいて、私を導いてくれています。


 次の日、私の体に変化がありました。そのことで、やはり私の信仰は間違っていないのだと確信し、赤飯を食べたのであります。


 その日から、私の人生はすっかり変えられてしまいました。それまでは漠然と迷いの中を生きてた私に、はっきりと人生の目標ができたのです。


 私の頭の中にいつもあったのは、マリリンのあの神々しい裸でした。ふくよかな乳房、魅惑的なお尻、うっとりするような金髪でした。でも私はまだほんの小学生の、胸の平らな、おかっぱ頭。顔だって、典型的な日本人なのです。


 何とか大人になるまでに、マリリンのようになりたい。大人になったら、あんなふうになれるかしら?鏡に姿を映す度、私は想像の中のマリリンを自分に重ね合わせるのでした。


 それからというもの、私は人がいない隙を見計らっては、幾度となく信仰告白をしました。

 破廉恥と思われるかもしれません。不道徳とお怒りになられるかもしれません。ですが、そういった方々にこそ、私は神の愛が必要なのだと思うのです。

 信仰は、まだまだ世の中には十分広まってはいません。これは本当に、心からの敬愛を主に捧げる、聖なる行為なのです。


 そのうち私も中学生になりました。そろそろ真剣に自分の将来のことを考えねばなりません。もちろん私が目指すのは、主の御許です。


 体を美しく育てるために、何か運動が必要だと思い、私は卓球部に入りました。オリンピックなどを見て、卓球の選手に色白で、胸が大きな方が多いことに気づいたからです。きっとラケットを振る動作が、胸の発育にいいのではないかと思ったのでした。


 本当は美術部に入って、今すぐにでもヌードモデルをやりたかったのです。ですが、そんなことは学校ではさせてもらえないということはわかっておりましたし、それよりも主に近づくために計画的に遠回りすることを選んだのです。


 卓球をやるという点からすれば、動機は不純かもしれませんけど、必死で練習しました。早く胸が大きくなるように一生懸命ラケットを素振りして、左右の胸が均等に発育するように、左手でも右手と同じ回数だけラケットを振りました。


 日焼けするのは嫌だから、毎日汗だくになるまで体育館の中を何周も走りました。結局、高校を卒業するまで卓球を続けました。


 お尻をプリッと引き締めるための、筋力トレーニングも研究しました。ある程度のふくよかさも欲しいから、ご飯もしっかり食べて、背が伸びるように牛乳を飲みました。


 私の理想の体型は、ファッション雑誌の表紙を飾るようなすらっとした細長い手足ではありません。あの、脳裏に焼き付いて離れない、あの、美しい、豊満で悩殺的な、マリリンの肉体なのです。


 野菜もたくさん食べ、早寝早起きして、健康的な生活を心がけました。

 家族からは、それまでスポーツなんかやったことのなかった娘が急にスポーツに夢中になったように見えましたし、友達からもスポーツ好きな少女のイメージで通っていました。けれど、それが主への愛によるものである、という本当の理由は隠しておりました。


 週に一度、市民プールに行き、均整のとれた身体になるために泳ぎました。でも、私がプールで一番好きだったのは、更衣室で服を脱いで水着に着替えるまでのほんのわずかな時間でした。または濡れた水着を脱いで下着を付けるまでの短い間でした。ああ、この時間が永遠に続けばいい、もっと長い時間裸でいられたらと、心底そう思いました。


 いっそのこと裸でプールの中を泳ぎたいと、そんな欲求に駆られたこともあります。でも、いっときの欲望に負けてしまったら、将来を台無しにしてしまうかもしれない。そう思って、自重しました。


 あるときなどは、本当に、裸のままで更衣室を出ていきたいと思ったこともあります。服を脱いで水着を着ないでそのまましばらくじっとしていると、体の中から熱いものが込み上げてきて、理性を失いかけるのです。ですがそこで踏みとどまれたのも、マリリンへの愛があったからである、そう思っています。


 そんな努力の甲斐あって、高校を卒業する頃には自分で言うのもおこがましいですけど、なかなかウットリするような身体に仕上がりました。


 私は自宅のお風呂場で、鏡に自分の裸を映してみました。あのとき、同級生の家で見た、神の子の似姿がそこにありました。

 私は扇情的な微笑みを、鏡の中の人に向かって投げかけました。


 晴れて高校を卒業した私は、実家を出てヌードモデルになりました。髪も、金髪にしてパーマをかけました。今は週3回、街の中心部にあるカルチャーセンターで、多くの方の前で裸になっています。

 月に何回かは、都心のスタジオで、フォトモデルもやっております。こちらも裸です。


 マリリンと同じように、世界中の男性たちを導いている、と言いたいところですが、今のところ一部の趣味をお持ちの方々にとどまっています。

 でも、私の体はなかなかウケがいいようです。出るところが出て、引っ込むところが引っ込んでいる。それでいて、健康さを感じさせるのだとか。


 私はそれが何によるものであるのか、知っております。この神の恩寵を、救い主様に導かれた人生を、もっと多くの人に知っていただきたく思うのです。


 仕事のない日は、インターネットの配信をしています。

 赤いビロードのカーテンを押入れの前に吊り下げ、ビデオカメラをオンにします。

 全世界の人が、神の奇跡を目にしますように。

 全世界の人が、神の恩寵に導かれますように。

 そして、新しい命を得て、栄光の道を歩まれますように。

 私は厳かに座ります。足をそろえて膝を曲げ、左手は下に流します。右手の肘を上に向け、手先はブロンドに隠します。脇を見せて胸を開いて。

 そうして扇情的で恍惚に満ちた、あの神の微笑みを浮かべるのです。

 ああ、我が主マリリンよ、あなたは幼き日の私の中に入って、私を変えてくださいました。私をすっかりあなたに似たものに造り変えてくださったのです。

 マリリン、マリリン。我が主よ、愛しています。とこしえに主の御名が褒め称えられんことを。

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