第25話 江の島までのふたりごと②

 信二は西園寺佐奈と二人で、江の島に行くまでの電車のなかの時間をゆるりと過ごしていた。


 学生にとっては夏休みであるが、今日は月曜日である。しかも時間帯はお昼過ぎときた。


 あまりこのような時間帯に電車に乗らない信二としては、電車のなかの雰囲気に少しだけ驚いている。


(平日の昼過ぎだと、さすがに人も少ないか。それとこの電車はここが始発駅みたいな感じだし。都会とは思えないほどに人がいない。席に普通に座れてしまった。あの朝の満員電車のなかを通学している身としては、いつの時間もこのくらい空いていてほしいものだな)



『ガタンゴトンガタンゴトン……』



 窓ガラスから差し込む夏の日差し。車内には冷房が効いているとはいえ、直射日光がチリチリと肌に刺さり、少し痛い。


 信二は遮光カーテンを下ろすために、右手で握っていた彼女の手を少しばかり放す。


「佐奈ちゃん、ちょっとだけいい?」

「うん」


 彼女は電車の移動中には必ず持ち歩くと言っていたタブレットを持ち出し、何やら見たことのない漫画作品を読んでいた。ひどくデフォルメされたキャラクターが日々のなかで哲学をしているという内容の、あまり一般受けはしないような、そんなマイナーかつマニアックな漫画であることが伺える。


 そんな佐奈ちゃんの読んでいる姿を横で見ていると、本当に漫画というコンテンツを愛しているんだなということが伝わってくる。


 どうしてスマホで読まないのかと、途中で聞いたときには、読む媒体によって漫画作品の情報の質が変わってしまうからと説明していた。少しだけ理解できるような気もしないでもないが、あれだろうか。映画を家で見るか、映画館で見るか。そのような違いと似ているような気もする。


 確かに大画面で読めたほうが、没入感は得られるような気はする。


 

『カラカラカラカラ……』



 信二は遮光カーテンを下ろすと、再びスルスルと伸びてきた西園寺佐奈の手を優しく握り、その少しだけ汗ばんだお互いの手を感じあった。


 小さな手。滑らかな指先。しっとりとした柔らかな感触。


 信二はしばらくの間、冷房の人工的な涼しさで暑さを紛らわせながら、佐奈ちゃんの存在を感じつつ、電車に揺られた。


 ちらりと彼女の方を見ると、一生懸命に画面とにらめっこをしている。


 そんな信二の視線を感じとったのか、彼女がふいに信二のほうを向いた。


「やっぱり私だけ漫画読んでても楽しくないよね?」


 少しだけ申し訳なさそうな声で彼女はそう言った。


「いや、いいよ。漫画って夢中になるよね。僕も分かるから。最近は佐奈ちゃんのおかげで、秋田書〇や白泉〇の作家さんばかりを追いかけ回しているような気がする。僕の漫画の趣味も少しだけマニアックなものになった気がするよ」

「そう、ありがとう。嬉しいわ、そう言ってくれて。……じゃあ、この一巻だけ読み終わったらたくさんお話でもしましょう?」

「うん、そうだね。そうしよっか」



 佐奈ちゃんは再びこうして、画面のなかに吸い込まれていった。


 信二はその姿を横目に眺める。


 こうして電車のなかで時間を過ごして、佐奈ちゃんも含め、色々な人をそれとなく観察していると、人はどうしてここまでスマホやタブレットなどという情報端末に時間を割くのだろうかと考えてしまう。


 信二だってそうだ。電車のなかでこうしてぼんやりと時を過ごすのも好きだが、大抵の場合はスマホを取り出して、見なくてもいいような情報にばかり触れているような気がする。


 今も昔も人は等しく手持ち無沙汰になる時間はあったはずだ。暇な時間や退屈な日々があったはずだ。


 そんなときに、昔のひと、さらに言えば大昔の人はどのように時間を潰していたのだろうと、ついつい考えてしまう。そもそも時間を潰すなどという概念はなかったのではなかろうか。



『ガタンゴトンガタンゴトン……』


 

(僕たちは一方的に与えられることが多くなってしまった社会で受動的に生活をしていると言える。しかしだからこそ社会は発展することができたとも考えられる。どんなに我が強く行動的な人間であっても、知らず知らずのうちに社会システムに帰属してしまってる。どうして僕たちは時間を潰すなどという概念に縛られながら生活せざるを得ないのだろう。どうして時間を潰さなければならないという強迫観念のようなものが、存在してしまうのだろう。どうしてこうも時間という概念に意味を付与して、忙しいとか暇だとか、区別してしまうのだろう。そうすることでしか社会は管理できないからだろうか。どうなんだろう。もっと時間に対して前向きな考え方をして生きていけたら、みんなもっとリラックスして生きられるのに)


 

 信二は電車内を見渡した。スマホをぼんやりと見ている人や、日光を浴びながら口を開けて寝ている人。ぼんやりと虚空を見つめる人。お母さんの横にちょこんと座り、終始笑顔でニコニコしている子供。。。


 電車のなかでは色々な人が、その電車内での時間を過ごしていた。人それぞれに固有の時間概念のなかで生きているように思えた。

 


(この人たちはどこへ向かっていくのだろう。平日の昼下がりだからか、ここにいる人たちはあまり忙しそうには見えなくもない。ゆったりとした時間だ。こんな時代であっても、それぞれがそれぞれの時間を何にも捕らわれることなく、楽しく過ごしていってほしいな……。駄目だ。佐奈ちゃんや香住さんの影響かどうかわからないけど、僕までこんなに面倒くさいことを考えながら時を過ごしてしまっている。恋愛というものには、こういう側面もあるみたいだ。……不思議だな)



『ガタンゴトンガタンゴトン……』



 穏やかな昼下がりの時間が流れていった。。。



★★★★★★★★★★★★★★★



「ふぅ……。信二さん。ありがとうございます。いま読み終わりました」


 右隣に座っていた西園寺佐奈がタブレットを鞄の中にしまい、信二の方を向いてそう言った。


「……ふあぁぁぁぁぁ」

「信二さん、少しだけしていましたね。午後の陽気というものは人を眠たくさせるものですね」

「そうだねぇ、佐奈ちゃん」

「すみません。私から誘っておいて、こんなにも好き勝手してしまって」

「いいのいいの。ずっと喋っていても疲れるだけだからね。こういうお互いに何も干渉しない時間というのもデート中には必要だと思うよ」

「そうですね、言えてます」



 彼女はふふふと、控えめに笑ってから、いつの間にか離れてしまっていたお互いの手を再び握った。



「ずっとこんな穏やかな時間が続けばいいね」

「そうですね……」

「ちなみにどんなマンガ読んでたの?」

「ああ、えっとですね。実は一作品と言っておきながら、二作品も読んでしまって」

「あはは、欲張りだ」

「panpan〇〇さんという方の、ひどく主人公がデフォルメされていて、それなのに背景だけは描き込みがとてつもない漫画と……」

「ふむふむ。そのアンバランスがいいのかもね」

「それと潮が舞い込む海のそばの田舎町で高校生がどぎつい個性で関西弁をまくし立てながら日々を噛みしめて生きていくという漫画です。この作品は再読なのですが、何回読んでも色褪せることがない傑作です。私の一番好きな漫画かもしれません」

「なんや、めっちゃおもしろそうな漫画やんそれ。今度読ませてや。読書家の佐奈ちゃんがそんだけ推すってことは、いい漫画なんだろうな。どんなところがええの? あ、なんか関西弁混じってもうとる」


 西園寺佐奈はふふふと、微かに笑いを溢してくれる。



「そうですね。なんだろう。うまく言語化できるかは分かりませんが、この漫画作品からは今までにない新しさを感じるんです。表現の新しさというのでしょうか。この漫画家さんの前作もそうでしたが、常に新しい表現を求めていっている作家さんだと思うのです。混沌としたそれぞれのキャラの日常に潜む、無常感だったり、切なさだったり、喜びや悲しみ、怒りや楽しみ。好きという気持ちや愛してるという感情。みんながみんなそれらを隠し持ちながら、ときに友達と共有しながら、それぞれに思い悩んでいるという、そんな彼ら彼女らの姿を傍観に近い形で、ときに遠回しになったメタファーのような形で、私たち読者は、風景描写とともに見つめるんです」


 

 彼女が一呼吸置いて、再び話し始める。



「そのときに生まれるこの複雑な感情が堪らなく……、こうなんでしょう。私の胸を締め付けてしまうんです。心地よく締め付けてくれるんです。とてもその気持ちが愛おしくて堪らないんです。彼ら彼女らがとてもリアルに身近に感じられて、私の隣に存在しているのではないか、そう錯覚してしまうほどに……」

「めっちゃ好きやん。すごい熱量を佐奈ちゃんから感じるよ」

「……やっぱり駄目でしょうか。こんなに好きなことを好きなままに喋るということは。喋ったあとに少しだけ後ろめたい気持ちになってしまいます」

「いいんじゃないかな、そんなこと。僕は好きなことをしゃべる佐奈ちゃんが好きだし、僕だって佐奈ちゃんに好きなことを聞いてもらいたいと思っている」

「……ありがとうございます、信二さん。……そう言えばこの作品のなかでも、このように好きな話を学友と心のままに話し合えないことで、思い悩んでいる学生がいました。私の一番好きなキャラクターです」

「なんて名前なの?」


 ……

 

 ……


 ……



 二人のあいだに時が流れていく。


 いつの間にか、人がかなり増えていた。信二たちの目の前にはサラリーマン姿の人が立ちふさがっている。



『ガタンゴトンガタンゴトン……』


 

 平日の電車。穏やかな午後の雰囲気。


 少なくとも信二たちには、そんな時間が流れている。



「ねぇ、信二さん」

「どした?」

「不思議と私たち、うまくやっていけそうな気がしてきませんか?」

「……ああ。そうだね。なんだか今日は浮気をしている、3股をしているということをあまり考えずに、自然に佐奈ちゃんと向き合えているような気がしている」

「この間は急に平手打ちしてしまって、すみませんでした。つい勢いで……」

「いいよ、そんな些細なこと」

「痛かったですか?」

「……とても痛かった」



『The next station is ……』

『ガタンゴトンガタンゴトン』

『ガタンゴトンガタンゴトン』

『ガタンゴトンガタンゴトン』


 ……


 ……


「こんなに人がたくさんいるのに、驚くほど電車内は静かですね」

「そうだね。みんなは電車に乗っているあいだに何を考えているんだろう。そんなことを思ったりしてしまう」

「こんなにもたくさんの人が集まっているというのに、それぞれに違うコミュニティなどを求めて、その場所へ行くために移動している。ここに居合わせていることには何の意味もない。それってなんだか、とても不思議なことだと思いませんか」

「確かにね……。もう僕たちはそれに慣れてしまっているけど、よくよく考えれば人が集まる場所で全くコミュニケーションが生まれないということは、なんだか歪な気もするね。今の東京の無機質な側面を最も表している言葉かもしれない、電車に限らずね…」



『ガタンゴトンガタンゴトン』




「なんだか、恋愛のことも、人間関係のことも、学校のことも……。いろいろとこの社会には考えさせられるものが多いね」

「佐奈ちゃんはいろいろと考えてるんだ?」

「そうね、気が付いたらそういうことを考えてしまう。そしてそれ以上に私はあなたのことを考えてしまっている」

「……なんだか、その言い方は怖い気もするけど、ありがとう。嬉しいよ」

「信二さんとは、いい恋愛が出来そうな気がしているんですよ」

「僕もそう思うよ」




『The next station is Fujisawa ……』



「もうそろそろ乗り換えだね。準備しよっか」

「どちらの電車にしますか?」

「せっかくだから、江ノ〇にしようか」



 ……


 ……



 信二はそう言って、少しの伸びをした。


 江の島まではあと少し。


 あと少しで目的の夕日が見られる。


 長い電車のなかの時間。


 二人はそんな時間を、なんの退屈もなく……


 過ごすことができているように見えた。



【続く】

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君と僕の一周年記念日に君がラブホテルで寝取らていた件について~ドロドロの日々~ ネムノキ @nemunoki7

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