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夜。お風呂上りにドライヤーで髪を乾かす私の脳内では、今日のユウと未子ちゃんの言葉がぐるぐると巡っていた。ヴーヴーという機械音が耳を刺し、思考の邪魔をする。ユウが隠しているであろうことを考えたいのに、なぜだかあの死んだ幼馴染のことが思い出されてしまうのだ。妙にユウが彼に似ているからだろうか。特に今日はその気が強かったように感じた。もしかしたら、いい加減に彼の死から立ち直れという何かの暗示なのかもしれない。幼馴染にそっくりなユウが現れたことや、ちょうど私が霊視の能力を得た頃に出会ったヒビキさんと再会したことも含めて。ならば、今まで考えないようにしていた彼のことを少し思い出すくらいはしてもいいのではないかと思う。もう七年近く経っているのだ。流石に、考えるだけで涙が止まらなくなる、なんてことにはならないだろう。
私の幼馴染は、三珠(みたま)黎明(れいめい)という名前だった。私は小さな頃、彼の名前がうまく言えなくて、それからずっとレイくんと呼んでいた。憎らしいことに、彼は私の名前をきちんと言えていたから、私のことを惺月と呼んでいたけれど。そんなレイくんは、どこにいても人気者だった。することすべてが予想のつかない悪戯好きなところも人によっては魅力的に映るらしい。運動神経が良く、小学生特有の「足が速い男子がモテる」法則に違わず女子から好かれていたし、男子からもノリが良いとよく一緒に遊んでいるところを見かけた。私はその真逆だった。人見知りが激しく、幼稚園ではほぼ彼の背中に隠れていたし、小学校の最初の一、二年間も同じように過ごした。何かグループを作らなければいけないときも、一人で立ち尽くしていると「惺月、こっち」と仲間に入れてくれた。けれど、だんだんと彼が人気者になっていくにつれて、何でお前が? という視線で見られるようになったのだ。三年生になったのをきっかけに、知らない人が怖くてもレイくんの背中に隠れるのをやめた。グループを作らなければいけないときは相変わらずだったけれど、少しずつ自分なりの人間関係が築けていた。私に話しかけてくれるような人は、ほとんどがレイくん目当てだと何となく気づいていた。それでも、レイくんに頼らずとも自分で何とかできるということがわかって嬉しかったのだ。私はずっと彼に迷惑をかけていると思っていたから。四年生ともなれば、一部のませている女子は、誰が好きだの誰それの好きなタイプが知りたいだのと恋バナに興じ始めるものだ。私も「三珠くんの好きな子のタイプを教えて!」と聞かれたことが何度かある。そのレイくん本人はといえば、よく女子に話しかけられるようになり、学校内での関わりはめっきり減ってしまっていた。私は少し寂しかったけれど、登下校は時間が合えば一緒にしていたし、家族ぐるみで仲が良かったから休日に遊びに行ったりしていたので特に問題に感じてはいなかった。
そんな日々を繰り返したある冬の朝のことだった。私は今でも覚えている。とても鮮明に。いつも通り家の近くの公園で待ち合わせて、いつも通り前日夜のテレビについて話したりして。本当に何も変わったことがなかったのだ。その日、彼がやけに頬を赤くして、ふわふわとした頼りない足取りで歩いていたこと以外は。その熱で判断力と思考力が奪われ、彼は信号を曲がってくるトラックに気づくことなくはねられた。その見るに堪えない姿を目にした私は、彼の名を叫んだ。思わず私まで車道に飛び出しかけて、近くにいたお姉さんに引き留められる。お姉さんの手を振りほどこうと泣きながら暴れたような覚えがある。だが、私のはっきりとした記憶はそこまでで、それ以上のことは全く覚えていない。気づいたときには病院にいて、精神的なショックのあまり倒れてしまったのだろうと言われた。精神的に落ち着くまで、と退院が許された一週間後までレイくんについては教えてもらえなかった。
それからが地獄だった。幼馴染という大切な人を失った私の目に、幽霊の存在が映ったのだ。今まで見えていなかったものが唐突に視界に入り、私はパニックになって泣き叫んだ。このときの両親は、本当に悩んだと思う。事実を伝えても、伝えなくても更に状況を悪化させるだけなのは目に見えていた。結局両親は、「大切な人の死を経験することで霊視の能力を得る」という事実を明かすことを選んだ。私の荒れ具合は更に手がつけられなくなった。
「そんなの、欲しいなんて言ってない! 要らないから、レイくんを返して!」
毎朝毎朝、そう両親に当たっていた。レイくんが死んだ、朝が一番不安定になっていたのだ。当然、学校にも通えていなかった。
けれど、なぜだか私の目には幽霊になったはずの彼の姿が視えなくて。精神的に少し、本当に少しだけ落ち着いていた夕方、私は両親になぜ彼を視ることができないのか尋ねてみた。すると両親はひどく驚いたような、傷ついたような表情で「本当に見えないの?」と質問で返してきた。なぜそんな表情をするのだろう、と思いつつ、私は小さく首肯した。両親は、私の答えに顔を見合わせて軽く頷きあう。
「もしかしたら、惺月が、黎明くんが死んでしまったって受け入れきれていないからかもしれないね。幽霊になった黎明くんの姿を視れば、死が現実的なものになる。それが怖くて、黎明くんのことを視たくないと、心が拒否しているんだろう」
最後に父は、無理をしてすぐに立ち直る必要はない、と言い残して部屋を去っていった。
それからというもの、私は「実際に自分の目に見えるモノ」に固執するようになっていった。私は、実際に自分の目で見るまでそれを信じない。そうやって彼の死から逃げていった。少しずつ落ち着いていった。ハルカさんやヒビキさんと出会ったのもこの頃だ。ヒビキさんはハルカさんに救われて成仏することができたけれど、私だってハルカさんに救われたのだ。ハルカさんは「大きな愛に包まれたい」と言っているけれど、断然「大きな愛で包み込む」方が向いている気がする。
ハルカさんたちのおかげもあって、私は何とか学校に復帰できるくらいには回復したのだけれど。小学生というものは残酷だ。なんのしがらみもなく、どこへでも行けそうな自由な顔をして、その実友達というものに縛られている。復帰できたのが進級してからというのもあってクラス替えの行われた新しい世界に私はついていけなかった。一人遅れた私にクラスの目は冷たかった。中には声を掛けてくれる優しい子もいたけれど、その笑顔を見せられる度にレイくんの姿が脳裏にちらついて恐怖を覚えた。仲良くなることができても、彼のように失ってしまうのではないか、と。当時の私は幽霊を祟りのようなものだと考えていて、そういう存在が視えるようになった、ということも大きく影響していた。誰かと関わるのが、怖かった。私は、誰かと仲良くするのをやめた。誰に対しても冷たく、淡々と対応して。誰と話すときも敬語を使って距離を取って。そうしていくうちに、私はそういう人なのだと判断されて話しかけられることもなくなった。
私の長い髪は、乾かすのにとても時間がかかる。一時間近く鏡に向かっていても、まだ毛先の方は湿っている。こんな手間をかけてまでも髪を伸ばし続けているのにはわけがある。所謂、願掛けというやつだ。以前、両親にレイくんは成仏したのかということを尋ねてみたとき、二人は自分で確かめるようにとしか言わなかった。だから、これは彼が視えるようになりたいという私の願いそのものだ。いつか彼の死を完全に受け入れられて、もう一度会える日が来るように。
〇
それから二週間ほどが経った。あれからユウは特にその話題に触れることなく、私やコト、ロウさんを振り回し続けた。あるときは映画、あるときは買い物と本当にやりたい放題。昨日も遊園地に連れ出され、くたくたのまま月曜日を迎えた。
「おはよ、惺月ちゃん」
「ユウですか。おはようございます。突然現れるのは心臓に悪いのでやめてください」
彼のすることなすことは相変わらず想像できなくて、私はやめて欲しいと願い出ることしかできない。そんな私の頼みごとに、不満げな顔をしつつも彼はわかったと言った。本当に短いつき合いだけど、彼の「わかった」は信用できることを知っている。少なくとも、今後突然ふっと姿を現すようなことはしないだろう。
「今日は学校までついてくるんですか?」
いつもは登校中、適当な時間を見計らって姿を消すのが普通だった。それなのに、今日は高校の最寄り駅に着いても姿を消す気配はない。
「うん、今日は一日惺月ちゃんと一緒にいようと思って。昨日はコトとロウも加えて四人で遊んだから、今日は二人で。まあ、誰ともつき合うことなく死んだ、恋に恋する憐れな幽霊の願いを叶えると思って、放課後デートしてよ。ちょうど俺も同じ制服着てるからさ、雰囲気は出るんじゃない?」
何かを決意したかのような表情の彼は、こちらを一切見ようとしなかった。
「わかりました。要は放課後あなたにつき合えばいいってことですよね? それくらいならご協力できると思います」
「やったね。それじゃあまあ、今日ずっと惺月ちゃんに張りついてる予定だから。凄く気になるだろうけど、成績トップクラスの惺月ちゃんなら大丈夫でしょ」
「ちょっと待ってください。一日一緒にいるってそういう意味なんですか? 絶対気が散るじゃないですか」
あまりに驚いたものだから、つい大声を出してしまいそうになる。ここが自宅ではなく、高校へ向かう大通りだということを思い出して、慌てて口を閉じた。
「まあまあ、絶対邪魔はしないって誓うからさ。漫画で見るみたいな授業中の手紙交換とかやってみたかったんだよねー」
「現実的なことを言いますが、実際にする人はそうそういませんよ。仮にいたとしても、あなたが考えているような甘酸っぱさなんて皆無でしょう」
現実を指摘してやれば、耳に手を当てて「わーわー。夢壊すようなこと言うの禁止!」と猛烈な勢いで首を振っていた。
結局、彼は先ほどの宣言通り一日中私に引っついていた。勿論、手紙の交換もさせられた。もっとも、中身は絵しりとりという甘酸っぱさの欠片もない上に、手紙と呼んでいいものか定義すら怪しいものではあるのだけれど。その後もユウは、昼食を食べているときにやたらと話しかけてきたり、昼休み後の授業で睡魔に襲われていた前の席の人を突いたりと、とにかくやりたいことをやっていた。特に、昼食のときなどはあまりにも変なことを言うものだから大声が出てしまって、クラス中の視線を集めてしまった。幽霊と話していると、こういうことが起きるから困るのだ。そうなっては色々と面倒なので、何度か似たような目に遭ってきてからは常にスマホを携帯して、通話している振りで誤魔化していた。
「それで、今日はどこに行くんです?」
私を引っ張るユウは、こちらを見ずに答える。ノーとは言わせないような、強い口ぶりだった。
「お金ある? 何か飲むもの買って、この前の公園でちょっと話そ。そろそろ惺月ちゃんに、ちゃんと言わなきゃいけないことがあるんだ」
その後は何も言わなかった。私もそれに釣られて自然と黙ってしまう。お互い一言も話さないまま電車に乗り込んで、そのまま自宅の最寄り駅に着いた。
「今日は昨日よりかなり寒いからね。あったかい方が良いかも」
駅の自販機で立ち止まった私に、ユウはそうアドバイスした。確かに、薄手のカーディガンを羽織れば寒さを回避できた昨日に比べると、今日はコートが欲しいレベルではあるけれど。飲み物にまで気を遣えとは、どれだけ長く話をするつもりなのだろうか。そう思いつつも、取り敢えずは彼に従ってカフェオレをチョイスする。ユウは飲めるだろうか、と様子を窺うと、苦笑しながら「俺はいいよ」と返された。そのまま彼が言葉を続ける。
「ごめん、ちょっと心の準備したいから先に行ってる。ゆっくり来て」
余裕のない表情が、本当に切羽詰まっているのだと理解させた。わかりました、と言う前に彼は姿を消した。
やがて、私は公園へとたどり着く。これからどうするのだろうかと彼の様子を窺い見れば、ベンチの傍でこちらに背を向けていた。ここは、私が声を掛けるべき場面なのかもしれない。
「ユウ。心の準備はできましたか?」
彼は、こちらに顔を向けることなく静かに頷いた。
そして。
「惺(・)月(・)。こっち」
あの頃の彼(・)と全く同じ響きで、私を呼んだ。
〇
「レイ……くん」
言いたいことはたくさんあった。姿が視えなかった七年、何をしていたのか、とか。十歳で死んだはずなのに、明らかに同い年のその風貌は何なのか、とか。何で今まで黙っていたのか、とか。どうして今になって自分の正体を明かしたのか、とか。でも、その全部を、もう一度彼に会えた、という喜びと驚きが覆い隠してしまった。
「まあ、気づくよね。取り敢えず、座りなよ。全部、話すから」
彼の言葉に頷いて、そっとベンチに腰をおろす。カフェオレの缶を開けて、一口。彼が話し出すのを待った。
「気になることだらけだろうけど、ひとまず順番に話すよ。俺が死んでからのこと」
わかった、という意味を込めて軽く頷く。レイくんは、それに気づいて小さく笑った。
「俺が死んだのはさ。惺月も知ってる通り小四の冬なわけだけど。あのあと、惺月が荒れてるのを見るまで死んだって実感が湧いていなくて。気づいていなかったっていう方が正しいのかもなぁ。それで、おばさんたちに声を掛けられたんだ。俺、皆が霊感あるなんて知らなかったから凄く驚いて。そのときに全部教えてもらった。惺月の家のこととか、能力のこととか。俺、正直ちょっと嬉しかったんだ。だって俺が死んで能力が発現したってことは、惺月にとって俺が『身近な存在』で、『大切』だったわけだろ? あのとき、惺月とはちょっと疎遠になってたから、惺月が俺のことをそう思ってくれてるってわかって嬉しかったんだよ。それに、惺月とまた会えるって思ってたから」
一度言葉を止めると、レイくんはふぅ、と息を吐いた。日頃から考えが読めないと思っていたけれど、まさか自分が死んで嬉しいと思うだなんて。予想外もいいところだ。そう伝えると、「確かに、それだけ聞くとちょっとヤバいやつだな」と吹きだした。
「でも俺の安易な予想は大外れで、惺月には俺が視えなかった。信じたくなかったよ。惺月が俺のことが視えないっておばさんたちに言うまでは、俺も何かおかしいなと思っても口に出さないでいたのに。それまでだって俺はずっと惺月の部屋にいたのに、惺月は全然気づかないし。挙句、俺に会いたい会いたいって泣くんだもん。俺は目の前にいるのにって何度突っ込んだことか。惺月は俺を求めてくれていて、目の前に俺もいて。なのに、惺月が求めることが何もできなくて。凄く悔しかった。そうしているうちに、どんどん惺月は荒れていって、人と関わることまでやめて。俺があのときへまをして死ななければ、惺月がこんな思いをすることはなかったんじゃないかって思うようになったんだ」
「そんなことない。私が、レイくんにずっと頼りっきりで、レイくんがいないと何もできないってことがわかっただけだから。レイくんは悪くない」
思わず口を挿んでいた。そこから、お互いに相手を庇い合う論争が始まる。自分の方が悪い、いや私だ、と言葉は尽きない。果ては、この件とは全く関係のない、過去の話まで持ち出してくるほどとなった。そんな終わりのない言い争いに終止符を打ったのはレイくんの方だった。
「これじゃあキリがない。どっちが悪いかは後で決めよう」
「それもそうね」
「うん。それで、人との関わりを断っていた惺月のことが心配になっていったんだ。そのときにおばさんたちから未練と成仏について聞いた。その話を聞いてはっきり分かったよ。俺の未練は惺月のことだって。同時に、この状態が長く続けば俺はほぼ百パーセント消滅するっていわれた。強制的に成仏させる方法もあるって勧められたよ。まあ、あんまり推奨はされてないみたいだけど。俺はそれも断った。そうしたらおじさんが、死者の未練と生者が受け入れきれない死が一致すれば消滅することはないって教えてくれたんだ。惺月にとって俺は死んでいないって認識だから、死者を思うって扱いにはならない。魂が縛りつけられることはないだろうって。俺の死を受け入れられない惺月と、惺月が心配な俺。ぴったりだよね」
だから俺は気が済むまで現世に残ることに決めた、と彼は続けた。
「それで、惺月が中学生になったときだったかな。俺も一緒に通いたかったって思ったら、成長してて。中学の制服も着てたんだ。幽霊って、自分の好きなように姿かたちを変えられるんだよ。知ってた?」
からかうように笑ってこちらの反応を見ている。私はといえば、初めて知った事実に目を見張るしかなかった。
「知らな……かった」
「やっぱり。コトもロウも、その類の幽霊だよ。コトが死んだのは、十四のときだって言ってた。もし生きてたら、今は高一らしいよ。コトも、遺した幼馴染のことが心配だからって。ロウは、自分のことほとんど話さないからわからないけど、俺より長く幽霊やってるのは間違いない」
少し得意げな顔を見せるけれど、その表情はすぐにまた曇ってしまう。
「俺としてはそのままずっと幽霊やっててもよかったんだけどさ。惺月が気持ちの整理をつけ始めて、俺のこと視えるようになって。単に時間が解決しただけなのかもしれないけど。気づいてた? いつからだったか、たまにだけど目が合うようになってたんだよ。で、そうしたらおじさんに言われたんだよね。消滅しかけてるって。それで、いい加減何とかしなきゃなって」
大変だったよー、と彼は笑う。語られる内容はどれもギリギリを掻い潜ってきたもののはずなのに、話し方は何てことないようだった。正体を隠したり、どういう風に私と関わるか決めたのもそのときだと続けた。
「普通に三珠黎明だって名乗ってもよかったんだけどさ。それだとまた、七年前の繰り返しになるなと思って。だからちょっと策を練ることにしたんだよね。俺の一番の目的は、惺月がまた人と関われるようになることだから。誰かと仲良くしろよって言って成仏しても、惺月は曲解して変な方向に無理すると思ってさ。だからまず、おばさんたちとかコトたちにも協力してもらうことにしたんだ」
「えっ? じゃあ、お母さんたちは全部知っていた……?」
「そう。おばさんたちだけじゃなくて、ハルカさんたちにも協力してもらった」
私の知らないところでそんなに話が進行していたとは、思いもよらなかった。そう告げると、「ハルカさんたち隠すの上手すぎたもんね」と笑った。
「それでコトたちを巻き込んで惺月をカラオケに連れていったんだけど……。あれはちょっとした賭けだったんだよね。惺月が楽しいと思ってくれないと意味がなかったから。あのとき、コトとロウとは完全に初対面だっただろ? なのに、そうだとは思えないくらい仲良くなってるし。惺月は、自分のことを人見知りだって言うけど、ちょっとしたきっかけさえあれば上手くいくんだよ。俺は、惺月にそれを知ってほしかったんだ」
お節介かもしれないけど、と彼はつけ加えた。私は首を振って否定の意思を示す。
「確かに最初は本当に面倒だと思ったけど、でも楽しかったよ。あんなに楽しいなんて思えたのは、いつ振りだろうって。だから、ありがとう」
真っ直ぐに彼を見据えてお礼を言う。それまで傍にいてくれた分も含めて。彼は耳朶の端を赤く染めながら、もごもごと言葉を転がした。
「その後すぐに、もういつ消滅してもおかしくないって言われるようになって。ちゃんと話そうと思って今日呼んだんだ。やっぱり、最後くらいはユウじゃなくてレイとして過ごしたかったから。ちょっと後ろめたいことがあってなかなか言い出せなかったけど」
「後ろめたいこと……?」
「……うん」
レイくんは、非常に言い出しづらそうな口調ではあったものの、うーんと唸った後にいきなり膝をついて頭を下げた。土下座である。
「ごめん。俺、ずっと惺月の傍にいたんだよね」
「……? ずっと私の傍にいてくれたんでしょ? それは知ってるし……どこが後ろめたいの?」
「いや、『ずっと』っていうのが比喩じゃなくて。ホントに、文字通り『ずっと』。片時も離れずに」
一瞬、言わんとする意味が理解できなくてパチパチと瞬きを繰り返すだけの人形になる。そういえば、いつだったかコトが彼のことを「ストーカー」と称していたことがあったっけ。現実から逃避しきれていないことを考える。彼の方に視線を向ければ、気まずげに目を逸らした。
「えっと……それじゃあ、ユウがちょくちょく姿を消していたのは?」
「あー、あれは惺月から見えないようにしてただけ。俺からは見えてた。あぁー待って! でも! 着替えとかは断じて見てませんから! そこら辺はずっとハルカさんに見張られてたから! その潔白だけは主張する!」
途中から、私の訝しげな視線に気づいた彼は全力で無実を訴え始めた。あまりに鬼気迫る表情なものだったから、クスっと笑い声が漏れ出るのを堪えきれなかった。次第にそれが止まらなくなって、大きくなっていく。真剣だったレイくんは拍子抜けしてしまったようだ。
私はもう一つ、気になっていたことを思い出す。
「ねえ、もう一つ聞いてもいい?」
彼は赤い耳のまま「うん」と小さく答えた。
「ユウって名乗っていたときは、私のことちゃんづけで呼んでいたの、どうして? やっぱりユウの正体がレイくんだってことを隠すため?」
今度は頬まで赤みが広がった。「それ、聞く? てか何でそっちの方向に考えるの」と一人思案する彼は、思い切ったように顔を上げた。
「惺月って呼んでいい男は、レイだけだから。ユウは、違うから」
真っ赤な顔と、少し震えた声。その言葉の意味を理解して、頬の赤みが伝染したのを感じた。
「……言ってくれれよかったのに」
「言えるわけない。大体、いつから『そう』だったのかもわからないし」
「そっか。でも私も同じかも。多分、いつの間にか好きになっていたんだと思う」
「敢えてはっきり言うの避けてたのに。死者と生者の恋は厄介以外の何物でもないんじゃなかった?」
「だから厄介そのものじゃない? お互い七年も縛りつけあっていたわけだし」
それもそうか、と納得するレイくん。私だってこのことを告げるかどうかちょっと悩んだのだ。新たな未練を生まないか、とか。また彼をこの世に留めてしまう原因になりやしないか、とか。でも、口にせず内に秘めることで、言えなかった感情は変に肥大化してしまうと思ったのだ。今までだって、溜め込んで溜め込んで、良くないことしか起こっていない。また厄介そのものな関係になってしまう前に、一度気持ちの整理をつけるべきだと思った。
「ねえ、レイくん。私、ずっと好きだよ。今も昔もこれからも。レイくんもユウも。大好き」
「俺もだよ。ずっと、好きだ。惺月も、惺月ちゃんも。初恋も、最後の恋も、全部惺月だから」
きっと今の私は見ていられない顔をしているに違いない。さっきよりも顔が熱い。完熟りんごもびっくりなレベルだろう。だってレイくんもとんでもない表情をしているから。お互いに顔の赤さをからかい合って、更に頬の温度が上がる。突かなければいいところを指摘したことを後悔して、微妙に目を伏せる。少し落ち着くためにも話題を変える。
「……ごめんね、レイくん。七年も、レイくんのこと苦しめて。ひとりにして。ホントに、ごめんね」
「……俺も。先に死んでごめん。置いて逝ってごめん。ひとりにして、ごめん」
「でも、私のことずっと気にして傍にいてくれてありがとう。また私が誰かと一緒にいられるように色々考えてくれてありがとう。高校生のレイくんと一緒に過ごさせてくれてありがとう。私は、そういうレイくんの優しいところを好きになったんだよ」
「惺月。惺月も、俺の誘ったことに何だかんだつき合って、楽しんでくれてありがとう。惺月と一緒に高校生活送るって夢を叶えてくれてありがとう。いつまでも、俺のこと忘れないでいてくれてありがとう。俺だって、そういう惺月の他人思いなところを好きになったんだ」
話しているうちに再び視線が交わるようになって、でも今度は逸らさなかった。こちらを真っ直ぐ射抜いてくる黒曜石はもう嫌じゃない。心の奥深くで渦巻いていた感情を全て吐き出して、私はあの温かさを受け止められるようになった。それに慣れ出したらいっそ心地よくなってしまって。この際だからと相手のどこが好きなのか、なんてバカップルのような話を始めてしまう。ただ、それを平常心でやるにはまだ早すぎたみたいだ。二人して顔がトマト状態から抜け出せないまま、早々にその話を終わらせた。
背中合わせになって座りながら、頬の熱を冷ます。
「……俺さ、来週末くらいに成仏しようと思ってるんだ。だからそれまで、また俺のやりたいことにつき合ってくれない?」
口調はごく軽かった。ちょっとコンビニ行ってくる、くらいのノリだった。きっと、その間に挟まれても気づかないくらい。だから私も、できるだけ軽く答えた。
「わかった。私にできることなら、どこまでもおつき合いしますよ」
〇
それからの約二週間は、本当に楽しかった。私たちが過ごしたかった時間を思う存分味わうように。別たれてしまった悲しみや寂しさを埋めるように。七年の間に失ったものを少しずつ取り戻すように。それまでほど彼に振り回されることもなかったし、無茶を要求してくることもなかった。だからこそ、レイくんが叶えられなかったやりたいことが浮き彫りになって、余計に心が軋んだ。
最後の願いは、「夜明けの様子が見たい」だった。黎明、という名前の由来になった夜明けを見たいのだと。「生まれたのが夜明けなら、消えるのも夜明けって何だか浪漫じゃない?」なんて笑っていた。
そこで成仏しようとしていることは、明白だった。
私は、現状純粋なかたちで叶えられる唯一の願いを、どうしても叶えてほしかった。安全な場所を探して、そこまでの行程を計画して、両親の許可を取りつけて。両親の、幽霊関連の知り合いの人が夜明けが綺麗なところに住んでいるらしく、その人に面倒を見てもらうことも決まった。そうして着々と準備が整っていくのを、私はどこか他人事のように感じていたのだった。
〇
「わぁ……。綺麗」
朝焼けが綺麗だというその場所は、満天の夜空も言葉にできないほどだった。辺りに電灯はなく、深海のような夜闇が広がっている。光源は月だけ。それでも近距離でお互いの表情がわかるくらいには充分な明るさだった。かといって激しく存在を主張するほどでもなく。きらきらと降り注ぐ月の銀のかげが、柔らかに私たちを包み込んだ。湖に反射した水の月が、少し歪に見える。一緒にいられるのはあと数時間もないというのに、私たちの間には揺らぎのない空気が流れていた。地面に座り込んで、ただ月を眺める。
「何か、話でもする?」
穏やかな静寂の中、ぽつんとレイくんの声が響く。その響きをだいじに残しておきたくて、口は開かず静かに頷いた。
「そうだなあ。じゃあ、成仏間近の幽霊らしく、思い出話でもしますか」
そう言って彼は空気を明るくさせる。それまでの静謐さが一気に賑やかさへと変わっていった。
生きているときで十年近くのつき合いといっても、幼い頃の記憶は朧気だ。それでも話のネタが尽きることなく、ゆったりとした時間の流れに身を任せる。話題が彼の死後の時期に移っても、もう平気だった。その頃の話もレイくんの巧みな話術で聞き入ってしまって、悲嘆に浸る隙すらない。特に、初対面のコトに私のストーカー疑惑をかけられてしまった話や、そのストーカー行為(仮)の詳細について、色々と教えてくれた。
空の色が、ゆっくりと変わっていく。宵の暗闇が淡い紫の朝焼けを呼ぶ。世界の夜と朝の狭間で、二色の対比とグラデーションを味わう。ああ、終わりが近いんだな、と思わず隣の彼を見つめると、頬に何かが流れるのを感じた。
「えっ。何、これ。もしかして泣いてる?」
必死で涙を堪えて無理やり口角を上げると、泣き笑いのような顔つきになる。目を擦って涙が出ているのを誤魔化した。彼は、突然泣き出した私に驚いたようだけれど、すぐに手を差し出し、目元の指を掴む。
「目、擦ると赤くなるよ」
「ごめん、ごめんね。すぐに止めるから」
口ではそう言っていても溢れる涙を止める術はどこにもない。彼が、私の泣き顔か無表情なところを見るのがほとんどだったと言っていたから。せめて最後くらいは笑顔でと思ったのに。涙に続いて感情まで止められなくて、言うつもりのなかった言葉まで口から零れ落ちてしまった。いつまで経っても止まる様子の見えない滴を拭い、彼はそっと私の身体を抱き寄せた。ふっと、私にしか聞こえない声でこう尋ねた。
「惺月はさ、運命の赤い糸って信じる?」
「え?」
予想のしていなかった言葉だった。唐突すぎて、涙も引っ込んでしまうほどだった。
「俺は、信じてるよ。だからきっと、またいつか惺月と会えると思ってる。でも、惺月は実際に目にしたものしか信じないからさ。運命なんて信じていないだろ?」
瞬きするばかりで答えることもできない私とは対照的に、レイくんは意志の強い瞳で空を見上げた。
「だけどさ、未子ちゃんのこと考えてみてよ。あの子は生まれ変わっても前の記憶を持っていて、惺月のところまで会いに来た。それだけでもう、奇跡って言ってもいいよね。だからさ、もし俺たち二人とも生まれ変わって、そのときに今の記憶も持っていて、それでいてまたもう一度一緒にいられるなんて、ほぼ不可能に近いんじゃない?」
そんな、突然現実を突きつけて、何を言いたいのだろう。そう尋ねようとした一瞬。
「だったらさ、それが現実になったらそれはもう、運命って言っても差し支えないよね」
目の前の霧がすーっと晴れた気がした。
「最も、今の記憶は持っていなくてもいいけどね。それなのにまた一緒にいられたら、やっぱり運命だよ」
彼の頭の中で私たちはもう、運命という位置づけらしい。でも、私はまあいいか、と思った。私たちは運命だから、きっとまた出会える。少し前の私なら一蹴していたであろう考え。そんな夢物語に、少しだけ参加しても良いかもしれない。
空の色が、また少し変わり始める。もう夜明けが近づいている。座っていた彼が、そっと立ち上がって伸びをした。お互いに、別れまで数分もないことはわかっていた。
薄く昇る陽が、レイくんの姿を照らす。彼の姿は、ほとんどがあか色に覆い隠されていた。淡い光に消え入りそうな姿が、一瞬歪んだ。水の膜越しに映る彼は、もう指先が見えなかった。こちらに手を伸ばそうとして、霞んだそれに気づいたのだ。彼の指先の代わりに、自分で露を拭った。彼の表情を逃さないよう、視線を真っ直ぐに逸らさない。声ももう、聞こえないのだ。
最後に、その口元がとある三文字を描き、満足そうな微笑を浮かべた。私はその言葉に力強く頷いた。
「大好きだよ! レイくん。またね」
段々と彼の身体は透明度を増していき、やがて完全に見えなくなる。後にはもう、アニメの演出みたいに、星々のような煌めきが残るだけだった。
ぽたん、と服にひとつの滴が落ちた。ああ、やっぱり死者の恋は不毛だ。
私はずっと、彼が存在していたその場所を眺め続けていた。
夜明けの空に、君は消え 夜桜舞雪 @Mayuki-Yozakura
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