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「ただいま」
ユウたちと別れて家に着くと、玄関に見覚えのない子供用の靴が置いてあった。両親の靴は揃っているけれど、祖父母のものはなかった。居間の方から幼子のはしゃいだ笑い声が聞こえてくる。誰が来ているのだろうか、と思い足を速める。
「あら、惺月帰ったのね。お帰りなさい。手洗ったらちょっと居間に来てみなさいよ。凄いことが起こってるわよ」
背後から、唐突に声を掛けられた。驚いてハッと振り返る。そこにいたのは、うちに棲みついている幽霊のひとり、ハルカさんだった。洗面所へ足を向けた私に、ピタリとくっついてくる。
ハルカさんは、「たくさんの愛に包まれたい」というなかなかに抽象的な未練をもつひとだ。何でも、ハルカさんは生前なかなかに孤独だったそうで、身の上話を聞いた父が「絶対願いを叶えてやろう!」と大泣きしながら未練解消を即決した。けれど、そんな孤独さが欠片も感じられないハルカさんはかなりの人気者で、同じような孤独だった幽霊を救ったことすらある。本人はハーレムと冗談交じりに言うが、どちらかといえば、姐御と慕われていると言った方が正しい。
「凄いこと? 何ですか」
やけに含みのある表情でこちらを見るものだから嫌でも気になってしまう。だが、思わず口からついて出た疑問には「実際に見た方が早いわ」と面白がるような返事しか返ってこない。そこまで引っ張られると、案外大したことないのではと思ってしまう。あまり期待しないでおこうと考えつつも、いつもより十五秒ほど早く手洗いを終えて洗面所を離れた。いつもは自分の部屋で荷物を置いてから居間へ行くところを今日は直行する。なんだかんだハルカさんの言う「凄いこと」が気になっているのだ。
「ただいま」
襖を開け、中の様子をうかがう。両親と見覚えのない小学一年生ほどの女の子が正座でテーブルを囲んでいた。辺りにはハルカさん親衛隊のメンバーが数人漂っている。私に気づいた母が、「お帰り」と笑って手招きをした。
「こっちへいらっしゃい。惺月は覚えていないかしら。こちら、匂坂(さきさか)未子(みこ)ちゃん。いや、ヒビキちゃんって言った方が惺月には伝わりやすいかしら」
「え……っ!?」
母の口から発せられた名前は、私を驚かせるのに十分な効力を発揮していた。ハルカさんの言う通り、本当に「凄いこと」だった。そして、母の言葉を合図に、ずっと私に背を向けていた少女がこちらを向く。年の割に大人びた、その意志の強そうな瞳は相変わらずだった。
「よっ。惺月。あんときは世話になったな。ヒビキだよ。ま、今は未子って名前だけどな。惺月に色々世話になって、ちゃんと生まれ変われた」
ヒビキさん。私が幼馴染を亡くして、この能力を得て、何もかも信じられなくて、信じたくなかったときに出会った幽霊。そして、私が初めて未練解消の手伝いをすることになった幽霊でもある。
「ヒビキ、さん……。まさかまた会えるとは思ってもいませんでした。ちゃんと、成仏できていたんですね……っ!」
思いもよらない再会に、気づけば涙が零れ落ちていた。溢れ出して止まらないそれを、ヒビキさんが拭ってくれる。現時点での年齢だけでいえば私の方が年上なのに、十歳ほども年下の女の子に世話を焼かれていることが少し恥ずかしくなってしまう。けれど、頬に触れたその指先に温度とはっきりとした感触があって。彼女が生きているということを強く感じて、また涙が零れてしまったのだった。
両親が言うことによれば、こういったことは極まれにあるらしい。未練解消を手伝った幽霊が、無事に生まれ変わった後もその記憶を有していて、それを頼りに向こうから訪ねて来てくれる、ということが。会いに来た幽霊の話も何度か聞いたことがあった。けれど、私は今までその場面を実際に見たわけではないし、自分の目で見たもの以外は信じないと決めているので、その話を疑わしく思っていた。
「ホント、いい女になったわねえ。ヒビキ」
「いい女って。まだあたし六歳なんだけど」
ヒビキさんがまだ幽霊だった頃、彼女はたいそうハルカさんを慕っていた。結局は成仏したのだけれど、ハルカさんの説得がなければ現世に残って親衛隊のメンバー入りをしていたのではないだろうか。ヒビキさんもヒビキさんで孤独な生い立ちを抱えていて、そこをハルカさんに救われたのだ。ちょうど亡くなったのが今の私と同じくらいの年だったという。かなり前の記憶だということと、当時は私も心が荒んでいたこともあって記憶が朧げな部分もあるけれど。あのときの彼女は、荒れた口調と態度で関わりを拒否しつつも、その内側に棘が深々と突き刺さった心を持っていて、それでいて誰よりも愛情を欲していた。ハルカさんは、そんな彼女を優しく包み込んで心の傷を癒やしたのだ。ヒビキという名前も、そのときハルカさんがつけたものだ。基本的にそれからヒビキさんはハルカさんを慕うようになって、「成仏なんてしない」とまで言い出した。新しい人生に怯え、頑なに成仏を拒否したヒビキさんを、ハルカさんは「生まれ変わったらまた会いにいらっしゃい」と言って送り出したのだった。
そんな背景があるからだろうか。「今は昔のこと忘れられるくらい楽しいよ」と笑うヒビキさんに、心なしかハルカさんの目元に光るものを見た気がした。
「いつまで前のこと覚えてられっかわかんないけど。あたしがハルカさんたちのこと覚えてる限りは、また来たい。いいかな?」
ハルカさんの表情の変化に気づいたヒビキさんが、母に尋ねた。少し遠慮がちなその態度は、彼女が「どうしてもそうしたい」と強く思ったときに出るものだとハルカさんに教えてもらったことがある。
「勿論。もし忘れてしまっても、ぜひ遊びに来て頂戴」
母が柔らかにそう言うと、ヒビキさんの俯き気味だった顔が上がった。
その後祖父母も帰ってきて、ヒビキさんのために買いに行っていたという大量のお団子を皆で食べた。お茶で一息ついているときに、ヒビキさんがこんなことを言った。
「あたしは確かに『ヒビキ』だったけどさ。でも今は『未子』だから。ハルカさんにもらった『ヒビキ』も大事だけど、前のことは引きずらないって決めたんだ。だから、あたしのことは未子って呼んでくれると嬉しい」
彼女の瞳は、ハルカさんの方を向いていた。「ヒビキ」さんの名づけ親はハルカさんだから、気にしているのだろうか。その視線に釣られ、ハルカさんの方を向く。
「そうね。昔の感覚で『ヒビキ』って呼んでたわ。今のあなたには『未子』って最高な名前があるのにね。ご両親、ネーミングセンス抜群だわ。アタシよりもセンスあるかもね」
「ハルカさん。すっごい言いにくいけど、あたしの名前つけてくれたの、ばーちゃん。うちは父さんも母さんも、ネーミングセンスは壊滅的なんだ」
「あ、あら。それはごめんなさい。でも、誰が『未子』ってつけようと素晴らしい名前であることに変わりはないわ」
流石のハルカさんもその返答は予測していなかったようで、苦笑することしかできていなかった。その様子を見ていたヒビキさん改め未子さんは、「ヒビキさん」だった頃には見られなかった、大輪の花のような笑顔を浮かべた。
「それでも、あたしにとっては『ヒビキ』も『未子』も、どっちも同じくらい最高で、大切な名前だよ」
彼女の瞳からぽつりと光るものが零れ落ちる。ハルカさんは小さく「ありがとう、未子」と呟いた。それはとても小さな声だったけれど、その場にいた全員の耳に届いていた。
夕暮れ時。私は未子さんを見送るために彼女と玄関へと向かっていた。そんな中、彼女がぼそりと呟いた。
「惺月は、いつまであたしのことさんづけで呼ぶんだ? 今はあたしの方が年下だし、なんかそう呼ばれたことないから気持ち悪い」
「ええ……。わかりました。さんづけが嫌なら『未子ちゃん』です。流石に呼び捨ては無理です」
あまりちゃんづけで呼ばれるのに慣れていないみたいで、そう提案すると嫌そうな顔をされた。それでもやはり呼び捨てはハードルが高いと主張すると、「じゃあ未子ちゃんでいい」と許可が下りた。そこまでさんづけは嫌だったのだろうか。
そのままの流れで玄関で靴を履き替える。家の前の敷地を二人で歩いて行った。二人の間には会話はなく、ただただ静かな空間が広がっていた。そのままの空気で家の前の大通りに到着する。流れで別れを告げようと思ったところ、くいっとカーディガンの裾を引っ張られた。
「惺月、ちょっと変わったよな。元気っつーか、楽しそう。あたしはそっちの方がいいと思う」
「えっ、それってどういう……」
「じゃ、また遊びに行くから。じゃーな」
彼女の発言の意味を尋ねる前に、未子ちゃんは迎えに来たお母さんを発見してあっという間に去ってしまった。
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