宝石を棄てた日

山口 隼

宝石を棄てた日

 曇天から、揺らめくように海月が落ちてきていた。ぼやけた輪郭が、時折水滴を弾いて明らかになる。月子は、パラシュートがあの姿から発明された、という俗説を思い出していた。


 夏の盛りを過ぎると、おおよそ秋分の頃まで、毎週のように海月の日が訪れる。注意報の出る日には傘を持って歩くようにと忠告され、宙に浮いている間には絶対に触れないようにと忠告される。生きている海月の触手には毒があり、精神障害を起こすからだ。

 そこまで周知されているにも拘わらず、毎年のように、子供がひきつけを起こして倒れた、というニュースが流れる。興味から触ってしまうと聞く。月子の妹も一時高熱を出したが、数日後には何もなかったかのように走り回っていた。重症化して後遺症が残るのは大人だという。アナフィラキシーショックのようなものかしら、と月子は想像していた。

「ミズクラゲか、タコクラゲか……」

 と、隣で梓が聞かせる気のない調子で呟いた。月子の視線の先を捕まえたらしかった。

 何だろうね、と月子も曖昧に応じて、思い出したように梓へ向き直った。

「梓は、まだ見えるの……」

「海月ですか」と梓は窓の外を眺めたままに答えた。「ええ、もちろん。くっきりと」

「話題に上がらないから、見えなくなったとばかり」

「いえ、変わらず。それにわざわざ話すようなことでもないでしょう」

 梓は形のよい唇をわずかに引いて微笑んだ。

 高校生にもなれば、海月を見えなくなる者がほとんどだった。第二次性徴に類似の曲線を描くようで、月子は見えることへ少しの得意さと、大きな気恥ずかしさを覚えていた。自分が見えているとて、他の者が感知できないものの話をするのは、サンタクロースを無邪気に信じ込んでいるようで、口にはしがたかった。

 そこで梓は月子をまともに見た。衒いのない黒の瞳が見つめていた。彼女はどこにいても光を浴びて、正しく在るように思われた。月子は気後れを覚えて、目を逸し横髪をいじった。

「いつ見えなくなると思う」と月子は取り繕うように訊いた。「みんな、何かきっかけがあったのかな」

「月子は、見たくないのですか」

「そういうわけでもない、と思う。浮かんでいるだけならかわいいし」

「であれば、先のことを考えずとも良いのじゃありませんか。綺麗なものを見損ねるのは、損に思えますけれど」

 そう言葉にされると、幼稚だと感じていた自分も、悪くないように思えた。海月はジェリーフィッシュと呼ばれるが、ネオンに照らされて様々な色を孕みながら浮く姿は、月子の目には宝石のようにも見えていた。

「梓は、このままでいい……」

「少し広い質問ですね」梓は目を細める。「見えるままでも、ということであれば、言った通りです。子供のままでいいか、という風に取ると、そうですね、いつかは来るべき日が来るのでしょうね」

 月子は赤面した。子供だと思っていることを見抜かれていたことにも、それを疎ましく感じていることを悟られていたことにも、恥ずかしさを覚えた。

「いいじゃないですか」梓は穏やかに笑った。「まだ学生で、私たちは変わっていきます。社会に出るまで時間もあります。その間は子供ですから。どうしようもなく」

「ごめん、変なこと言って」

 月子がつっかえながら言うと、梓は鈴を鳴らすように笑い、いいじゃないですかと答えた。

「人それぞれ、考えることがありますから。月子らしいと思いますよ」



 本降りになった雨が傘を強く叩いていた。湿気が髪へ粘りつき、足元の水たまりを気にするうちに、月子の肩がつぼまっていった。梓とは校門で別れていた。今日ばかりはそれでよいように思えた。

 丸まった背に、梓の微笑がのしかかっていた。わきまえた大人の顔が浮かんだ。

 出会った時から、既に彼女は完成されているように思えた。礼儀を知り別け隔てなく善意をふるまい、それに誇る様も見られなかった。もっと子供の頃に知り合っていたらどうだったのだろう、と月子は寒気さえ覚えた。羨望を越えて濁った感情を抱えていただろうと思われた。水が巡ることのない沼のように。

 わたしたちは違う。わたしは梓ほどに善性の人ではないし、そう振る舞うことなどできない。基本的には分が違う、そう認めなければいけない、と月子は考えた。

 しかし海月を見ることができるという一点だけは、明確に接触しているはずだった。それをよすがとして、太陽のような梓のこころへ近づくことができる、手繰り寄せることができるはずだ、と直観してもいた。

 そういった思考が、月子の目を路上へ留めたようだった。はっとして立ち止まり、深い水たまりの中を、月子は覗き込んだ。

 海月が蠢いていた。アスファルトは、空から降ってくる彼らの終点だった。しかし月子が捉えた個体は、まだ行き先を知らないでいるようにもがいているのだった。かすかだが生命の脈動が認められた。限りなく透明に近いビニールのような楕円の中に、ひとさじほどの桃色が煌めいていた。

 よく観察してみたことさえなかった、と月子はふいに思った。こいつは何者なんだ、という好奇心と苛立ちの入り混じった感情が湧き出るように立ち現れた。連鎖するように思いつきが生まれた。これは何かしらのきっかけなのかもしれない。

 月子は学校へ取って返し、掃除箱からトングを、実験室からビーカーと食塩をちょろまかした。海水の正確な濃さはわからなかったが、目分量で塩水をこさえた。こぼさないように両手で抱えて同じ場所まで戻ってくると、海月はまだ生きていようだった。触手に刺されないよう、トングでおっかなびっくりつかみ上げてビーカーの中へ入れてやった。海月は一瞬水と同化して見えなくなったが、数秒もすると形がはっきりしてきて、細やかに震えていた。

 家に戻ると、月子は足音を忍ばせて部屋に上がった。見咎められたくはなかった。傍から見れば奇妙に映ることを理解していた。母親からの呼び声には口先だけで答えた。

 ビーカーを机の隅に置き、月子はしげしげと眺めた。海月は重力を忘れたように浮かんでいた。触手が底や側面と触れ合って、わずかな幽光を帯びた海月の身体が、無色から淡い青のグラデーションを作り出していた。月子はカーテンを締め切ってペンライトを持ち出した。境界で、黄ばんだ頼りない光が乱反射した。時折海月が身じろぎすることで模様が変化した。格子状にも、花びらのようにも見えた。不確定であることが月子の目を喜ばせた。たゆたう様は、飽くことなく眺められるように思えた。

 しばらくして、車の音、人の営みの音が耳に戻ってきて月子は我に返った。現実的なところへ思考が戻っていって、いつまでこれは生きるのだろう、どれだけ面倒をみてあげればよいのだろうか、餌代はかかるのか、などとというところへ至り、そんな野暮なことを考えてしまう自分へ気分の悪さを覚えた。

 月子はため息をついてペンライトを消し、海月をそっと窓際へ置いた。今は星明かりだけを待とうと思った。



 翌朝、月子が気がかりな夢から目覚めると、空気のざわめきを覚えた。横たわったままに耳を澄ますと、まず金属質の甲高い音と威勢の良い掛け声が認められた。道路を挟んだ向かいの高校で、球児たちが朝から部活動に励む音色だった。月子は不機嫌に寝返りを打って布団に潜り込もうとしたが、その中にノイズを感じ取って起き上がった。不協和にざらついた音はほど近いところから聞こえるようで、居直って鋭敏に感覚を研ぎ澄ませた。

「申し訳ないんだけども」その声は途切れ途切れながらつかむことができた。「ここはいささか狭いんだ。どこか広い場所に……聞こえているか、どうだろうか」

 月子は怪訝な目で立ち上がって窓のそばを睨んだ。どうも音を発しているのは海月らしかった。

「ああ、そうだとも」と海月の声が弾んだ。「後生だから、もう少し手足を伸ばせるところへ入れてもらえないだろうか。できれば、いくらかの塩も」

「あなたは、話す海月なの……」

 月子は困惑して、そう問うのが精一杯だった。対話が可能だという例は知識の中になかった。

「僕らはいつだって話している」海月は平坦な調子で言った。「例えば君たちが昨日のテレビや明日の体育について話すように、天気や波を気にするし、伴侶の話題にだってなる。あるいは、いくらかの思索さえ。ただ、とても小さい声だから、君たちがそれを聞こうとしなければ届かないというだけのことだ。猿が鳴いたとしても、それに意味を認められないように」

「雄弁家なのね」

 どうだろう、と海月は苦笑にも似た気配を漂わせた。

「ことばなしで思考することはできないから、ただ言語化しているに過ぎないよ。僕の考えは未完成に過ぎないから、こうして対話をすることで磨かれていく。錆びないように努力する必要もあるけれど」

「わたしは付き合うつもり、ないですけど」

 月子は冷淡に答えて、自分が冷静さを取り戻しつつあることを発見した。そうなると海月の視線が意識された。月子は乱れた前髪を払ってベッドに腰をかけ、足を組んだ。

「あなたは地面でのたうち回っていたのよ」

「ああ、死ぬ直前だった。助けていただいて感謝している」

 素直なことばだった。月子はかえって眉をひそめ、斜に構えた。

「一般的に、人間は海月を助けると思う?」

「人に依る、という回答が適切に思えるね」海月は言葉を探しながら紡いでいた。「あなたの心根が優しかった、そう解釈するのが妥当に思える」

「わたしは優しくなんてない。目的があるの」

「どのような」

「あなたが何者か知りたくて、どうして見える人と見えない人間がいるのか、その違いについて答えを得たい」

 海月は悩ましげに低音を発した。

「僕は、そうだな、多少思弁的であるかもしれないが一般的海月だ。すなわち正しく海に生まれ、育ち、風やさまざまな力によって空へ巻き上げられ、落ちて死ぬ。そういうものに過ぎない」

「哲学的海月と言い換えてもいいかしら……」

「茶化すのはやめて欲しいな」海月は語気を強めた。「これでも真摯に回答しようとしているつもりだ。僕だって知っていることにしか回答できない」

「ずいぶんと人間についてご存知なのね」

「らしいね。だが識っていたものはそうだった、としか言いようがない。例えば君がウニについて認識した、原初の記憶はあるかい? そういうものだよ」

 しばらく、めいめいがウニについて思いを馳せた。特に月子は、芳醇な香りの伴う身と、舌触りの滑らかさについて思い出していた。

「そうとして、厚かましいお願いなんだが」海月が沈黙を断ち切って、しかしおずおずと言った。「もう少し大きな器はないだろうか。可能であれば、何か食べるものなども」

「どうせこの夏で死ぬんじゃなかったの……」

「寿命が尽きるにしても、酷い死に方を望むわけじゃないさ」海月は気取った調子で言った。「贅沢なものでなくていい、小魚の砕いたものがあれば大変に助かる。なにせ空へ打ち上げられて以来、何も口にできていないものでね」

 どこか口なのか開けてごらんなさい、と月子は喉まで嫌味が出かけたが、いずれにせよ生かしておくのだと気づいて、階下から煮干しと金魚鉢を探し出してきた。海月は水とともにずるり、と新しい住処へ移って、ああ幾分か楽になった、と労働を終えた中年の男を思わせるため息をついた。

 月子は煮干しを細かく千切って水面に投げた。銀粉のように散らばり、部屋の明かりを受けて煌めきを得た。乾燥させてあるために沈むのは遅く、海月は触手を伸ばして捕食を試みたが、結局諦めて懐へ落ちてくるのを待った。

 空からはゆっくり落ちてくる割に、せっかちなのね、と月子は頬杖をついて笑った。腹が減っているからかな、と海月も自嘲を含んで応えた。

 やがて魚の破片が水を吸って重くなり、彼の領域に達すると、海月は活発に腕を伸ばして取り込みはじめた。傘が膨らみとつぼむのを繰り返す様は、月子にアルペジオで弾かれる旋律を思い出させた。硬質でないはずの海月に、何か明確なかたちと質量を覚えた。

 しばらく海月は一心不乱に餌を食んでいたが、ふと怪しむように動きを止めて言った。

「あの金属音が聞こえると、不愉快な顔をするね」

 そうね、と月子は呟いて、露骨に顔をしかめた。道路向かいの高校には、高いネットが張られていた。グラウンドから飛んでくるボールを防ぐために据え付けられたもので、半年ほど前に施工されたものだった。

 以前は月子の家にボールが飛び込んでくることが二度ばかりあって、一度は窓ガラスが割れたのだった。その折に月子は在宅で、飛び上がるほど驚かされた記憶があった。一度そういった結びつきが生まれてしまうと、どうにも、拭えないのだった。

 打ち込んできたのは、二度とも尼谷裕司という少年だった。月子よりひとつ上で、家の前を通りかかると、必ず大きな口を開けて挨拶をするのだった。月子は会釈を返すに留めていたが、その程度の付き合いはあった。

 尼谷は野球部の監督らしい男性と謝罪に来て、月子の母へ念入りなことばを述べたあと、悪い、とうつむいて言った。いいの、と月子は曖昧な愛想笑いで応えた。それだけの会話しかなかった。

 あの時に尼谷が浮かべたのは、どこか含羞んだような苦笑だった、と月子は思い出した。それまで特段の感情を抱いていなかった尼谷に、嫌悪に近いおどろおどろしさを覚えた瞬間だった。後に、尼谷は狙って場外に打とうとしていたらしい、それでもって月子の注目を引こうとしていたのだ、と人づてに聞いたが、理解すれど腑に落ちなかった。そんなことでわたしがどうにかなると思ったのだろうか、と月子は訝しんだ。

 男は簡単な論理に浸かっているように思えた。閉じた中で、すべてが彼にとって都合の良いように働くことが前提で、その中に組み込まれているという事実に、月子は以前にも増して鳥肌を覚えた。

 それに意味を認められなければね、という海月のことばを反芻した。自分が、カレに、彼らの論理から見て、本質的に意識されていない存在だということを消化していった。良しとするわけではなかったが、理解はできた。少なくともわたしは彼を見られている。彼がわたしを見られていなくとも。侮辱されていた、と感じていたわだかまりが、いくらか解けていくような気がした。わからなくて結構、と月子は呟いた。識って欲しいものだけに識られればよいのだから。



 荒天がしばらく続いた。外から若い男たちの声も聞こえず、ただ雨風が窓にうちつけ、わずかな雨間には虫のすずやかな音色が耳に届いた。補習が終わっていたこともあって、月子は部屋へ引きこもって海月と益体のない言葉を交わした。ほとんどが意味を持たなかったが、わずかに、梓についてだけは足がかりを得たように思われた。

「わたしは、なぜあなたを見えているのかしらね」

 ふとした隙に、月子は問うていた。こぼれ落ちたことばだった。

「見るつもりでいるから、あるいは、存在を確信しているから」海月は丁寧にそれを拾い上げて言った。「推測ではそんなところかな。人間のメカニズムはわからないけれど」

「見逃していることはありうるのかしら」

「それはないだろう。だって僕らが海にいるときは見えているんだぜ。基本的には認識できるはずだ。君らの論理から外れた瞬間に『見えなく』なるだけなんだから」

 満足のいく答えに、月子はゆったりとうなずいた。海月との対話に価値を見出しつつあった。見えるという事実にも。

 都合のよい相手ではあった。海月はただ水に身体を遊ばせているだけで、余計なことを口にしなかった。それでいて月子の存在は認めていて、ことばには必ずことばを返した。黙っているとき何をしているの、と訊くと、様々なことを考えている、と彼は答えた。生や死や、君たちが見えているものについて、と。哲学的海月というのは、皮肉で出たにもかかわらず、あながち間違っていないようだった。もう少し大きな水槽と、色のついた照明を買ってこようかしら、と月子は本気で検討していた。迷惑にならない範囲で、海月を綺麗に飾ってやってもいい、と考えるようになっていた。

「同じように、あなたが見えている友人がいる。見ようとしてくれる人なのかしら」

 月子は訊いた。今度は明確な回答を求めて。海月は悩ましげに低音を発し、こう答えた。

「肯定できる、おそらく。でも君が言いたいのは、僕らを、一般的海月を見ようとしてくれる人かどうか、ということじゃないんだろ」

「わたし自身を」

 だろうね、と海月はぽつりと言った。どちらが背かわからないが、肩越しの響きを、月子は感じ取った。

「君と彼女の関係性は?」

「友人、と呼んでいいのか。定義づける必要が出てきそう」

「どれぐらい会話する?」

「日にちょっとは」

「少なくとも嫌悪の対象ではない。好かれていると断言はできないが。理解しようとするつもりも、あるんじゃないかな」

 月子は石鹸をかじってしまったような苦味を覚えて、口元を歪めた。

「希望だけ持たせるのはやめてよ」

「そういうつもりもないが。客観的判断だよ。クマノミとイソギンチャクはよい関係にみえる。よし彼らがビジネスライクだったとしても、嫌ってはいないだろう?」

 クマノミはどういうビジネスをするのだろう、と月子は思い浮かべた。プランクトンの運送業だとか、海のゴミを食べてしまう清掃業を想像した。頭の中で、あくせく働いた色鮮やかな魚が、座ったままのイソギンチャクへ売り上げを差し出す様が浮かび上がった。

 そうして膨らみかけようとする想像を、海月のことばが突き刺し破裂させた。

「彼女について、どう考えているんだい」

 核心だった。月子は石のように押し黙った。拒絶が漂った。しかし海月は真摯に待って、口を挟まなかった。真摯であるからこそ、譲るつもりはないようだった。月子は目を細めて、己のみぞおちへ落ち込むように思考を巡らせ、壁を建てようとして、結局、折れた。ことばにしていないだけで、とうに認めては、いた。

「きっと、特殊で普通じゃない感情」

「普通、という単語を最大公約数的な、に置き換えられるとすれば」海月は、実に落ち着いた声で言った。「何も気にすることはない。君は固有の君だからだ」

「自信を持っていい、ということ……」

「願望が実現すると言ったわけじゃないぜ。ただ君の話によれば彼女の目はいいだろうし、ことばにする価値はあると思うけれど」

 海月は少しばかり釘を差すように言った。だがそれで十分だった。


 出かけましょう、と梓が家にやってきたのは数日後だった。秋らしい高い空の日だった。梓は電話をかけてきておいて、今から行くから用意しておいてください、とこちらの勝手も聞かずに話を打ち切ってしまって、そのくせ行き先も教えなかった。

 バスに乗るのは久しかった。中学生の時分に部活動でどこかの体育館へ行った以来だった。乗り方も忘れていて、梓に後ろ乗りですよと笑われたほどだった。最後部の長い席で釣りに行くらしい子供が二人、クーラーボックスを抱えてはしゃいでいたが、不快さは覚えなかった。月子は浮き立っている自分を感じていた。

 誘われることは、いくらかでも自分が興味の対象である、ということを自覚させた。場所はどこだとしても構わなかった。夏休みの一日に、わざわざ家まで足を運んで連れ出されている、反芻するにつれて微笑がこぼれだしていた。

 隣に座る梓からは華やかさが香り立ち、触れ合った腿や腕の柔らかさを、熱を感じた。膝の上で重ねられた手の甲では静脈が浮き出て、白さが際立っていた。月子はそこへ自分の手を重ねかけて、無骨さにうんざりとした。それを誤魔化すように口を開いて、誰もが触れやすい話題を投げかけた。この夏の暑さや、誰それの恋愛事情など。会話は意味もなく弾んだ。その中で月子は狡猾に距離を計っていた。ことばにする価値はある、という海月のことばを思い出した。掌の汗を覚えた。

 

 海岸通り、とバス停は名乗っていた。終点だった。こんなところまで、と月子が苦笑すると、もう少しですから、と梓はひそやかに笑った。二人は岸壁から砂浜へ出た。

 涼し気な海風が吹いて、刹那は快くさせたが、やがて潮が髪へまとわりついて軋むように感じられた。遠くに入道雲が出ていた。夕方から不安定な天気になるだろうと聞いていた。念のため傘を持ってくるべきだったろうか、と今さらながらに思った。

 左手に紺碧の海を眺めながら、二人は熱のこもった砂浜を歩いた。月子はふと思い立って、鞄から空のペットボトルを取り出した。海月のために海水を持って帰ってやろうと思ったのだった。

 波打ち際に屈みながら、この間海月を拾ったの、と月子は何気なく言った。地面に落ちていたけれど、まだ生きていたの。

 梓は軽く目を見開いた。やがて目尻が下がっていき、きっかりと微笑んだ。

「よく捕まえたわね。あれはどれぐらいで消えてしまうのかしら」

「放っておかれたら、その日のうちじゃない? 普段気づかない?」

 そうだったかもしれないわね、と梓は曖昧に笑った。あまり気にしていないものだから、とも付け加えた。

 月子は、不整脈のように心臓が軋むのを覚えた。見えているのなら足元に気をつけるはずだろうし、気づかないことはないだろうと思った。

 明らかにしないほうが賢明だとわかっていながら、月子は海岸の奥へ視線を向けて、気軽な調子で言った。

「あそこにもいるわね。海に近いところへ落ちてくるなんて、里帰りしたかったのかな」

「本当ね」梓も合わせて見やった。「死んだばかりなのかしら。危ないかもしれないわ」

 ああ、と月子は長く息を吐いた。

 そこに海月などいなかった。彼女は見えているように振る舞ってくれていただけだったのだ。梓の持つ優しさがそうさせたのだろうと、簡単に想定できた。惨めさが霰のように月子を打ち据えた。

 はじめから違っていたのだ。どの点でもわたしたちは触れていなかったのだ、少なくとも触れていたい部分では決定的に違っていたのだと、気づかされてしまった。ここは終点だった。

 月子はまた膝をつき、無意味に時間をかけて水を汲んだ。蜃気楼のように心がゆらいでいた。

 呼び覚ましたのは鋭い音だった。遠くから硬い音が聞こえた。月子は顔を上げた。ボールを打つ音だとすぐにわかった。

「ねえ梓、あれって」

 気づかれたかしら、と梓は含羞んだ笑みを浮かべた。夕方の向日に似ていた。生来の、内から来る輝きは眩く、しかし落ちようとする西日の気配には抗し得ないように思われた。

「あなたの向かいに高校があるでしょう。あの野球部が合宿をしているらしくて。それで、尼谷さん、でしたっけ。とても感じのよい人で、ご存知よね。それで、あなたにも来ていただいて、お話をできれば……」

 滔々と梓は語った。彼女の瞳は照り返しに輝いていた。反対に月子は体温が急激に低くなっていくのを感じた。流感の熱がひとしきり眠ったことで冷めて、起きぬけに覚えた湿りきっている肌着の気持ち悪さがまざまざと蘇った。梓も向こうの人間だと、痛いほどと理解してしまった。

 梓は話し続けていたが、月子は手で遮って、気分が悪くなってきたと言った。それでも梓は、ここまで来たのだから、と強いたが、それも拒んだ。体裁を繕うことさえ気怠かった。一人でバス停まで歩き、次のバスまで三十分は待たなければいけないと気づき、目眩がした。月子はそのまましゃがみ込み、嘔吐した。ほとんど何も出なかったが、いくらかの胃液がアスファルトで染みを作った。涙は流れなかった。ただ消耗して、とりとめのない殺意だけが渦巻いた。

 月子は膝を抱えてバスを待った。帰り道があることだけが救いだった。



 月子が家のドアを開けた、その掌から、服の裾から、水が滴り落ちていた。雨に降られたのだった。けれど月子は何の感情も抱いていなかった。家人のいない玄関はほの暗く、粘りつくような足音だけが響いた。

 窓際で、海月は幻光を帯びてたゆたっていた。月子を認めると、傘を差さなかったのかい、と訊いた。月子は色のない目で、近くに座った。

「ねえ、わたしはおかしいのかな」魔術的な囁きだった。「もしかしてあなたは現実じゃないの? わたしだけが見えている虚構なの」

 海月は一蹴するように苦笑した。しかし戸惑いの響きがあった。

「僕の存在を否定するなら、食べてしまった魚や刺された人間はどうなる? これは現実で起きていることだよ。今ここにあることだ」

 そうかしら、と月子はせせら笑った。忿怒の様相だった。察してことばを紡ぎかけた海月に、覆いかぶせるように怒鳴っていた。

「すべてはわたしの外で起こっているの。わたしは関係ない。わたしの願いは存在しないし、それは普通じゃないからよ。はじめからすべてはなかったの」

「違う。君は君のまま生きればいい。それにまだたゆたっている、完成されていないんだ。ちょうど行き着かない僕らのように」

「人でないあなたが肯定してくれるの? 人の、わたしの、人の間での生き方を?」

 月子は激した声で言った。病的に青ざめていた。唇だけが赤く、震えていた。

 海月はなおも慎重に言葉を探すようだった。しかし月子はすべてを打ち切って投げ出してしまった。

「わたしは狂ってるのよ。誰も見えない海月と話せるぐらいなんだから。あの梓と触れられないのなら、そんなもの、間違いよ」

「根拠になっていない、それは思考をやめることだ。君こそ、見ないふりをするのか」

 海月は悲痛な声で言って身をよじらせた。それでも訴えは届かなかった。月子の目は茫と金魚鉢を見ていて、その目には今や何も映っていなかった。

「僕はいい、けれど君は自分を認めるべきじゃないのか……」

 海月の声だけは聞こえた。姿かたちは失われていた。来るべき時が来たのだ、と月子は悟った。ここからどこへも行くことなどできないが、生きていくしかない。

 歪んだ薄い唇から、冷ややかな呟きがこぼれた。

「どうしてこんなもの、拾ってしまったの」

 答えを返す者はいなかった。月子は金魚鉢を両手に抱え、キッチンへ行くと排水口へ中身をすべて流してしまった。渦を巻く水の中には、目を凝らせど何も見えなかった。

 それきり、月子は海月のことをすっかり忘れてしまった。

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宝石を棄てた日 山口 隼 @symg820

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