耳の中の記憶

那埜

耳の中の記憶

 頭髪は加齢によりすでに無くなり、痩せ細った高齢患者(私は茂木しげさんと呼んでる)がこの古びてヒビだらけの医院にいつもの如く、ずかずかと入ってくるや、症状を告げてきた。


「先生ね。俺、最近どうも耳の調子がおかしいんだ。聞こえづらいっていうかなんというか。耳鳴りなんかもすっかり聞こえなくなっちまうし、耳の中がどうにもごわついたような感じもするし、先生は医者だろ?なんとかしておくれよ」

「分かりました、ちょっと見てみましょうか」


 小さくて寂れた街。小さくて古びた医院。

 親父の跡を継ぎ、私は耳鼻科の主治医となった。

 この小さな街で最も重要なのは人間関係だと個人的には感じている。

 どんなに些細な話でも聞いてやることが、このような小さい医院では重要だ。

 何せこれを怠ってしまえば、人は来なくなってしまう。

 そうして潰れてきた医院を私は何件も見てきた。

 だから今日も今日とて、こうして話を聞いてやってるのだが……。


「早速ですが耳の中を見てみましょう。まずは右の方から───」

「……いや、耳の中はみないでくれよ、先生」


 茂木しげさんはまるで不安気な気持ちを隠さずに突然そう言ってきた。


「どうして?」

「いや、ね。何かあったらと思うと怖くて……」

「でも耳の中を見てみないことには何もできませんよ。薬を処方するぐらいですけど、見立てで処方しても効くかどうかは分かりませんし……何より何回も通院するのはお金も勿体ないですよ」

「金なんかどうだっていいんだ。年金暮らしだし、歳も歳でもう使うところなんてありゃしない。それにこんなパチンコとかゲームセンターもない街でどこでお金を使うんだい」

「……それはそうなんですけど、せっかく長生きしてるんだし、この際不安要素は取り除いておきましょうよ、茂木しげさん」

「先生は強引だね。親父さんの頃からここに来てるけど、先生の親父さんはそんな強引なことは言わなかったよ」


 私は内心では不快に感じるものの、顔や声に出すことはせずに話を続けた。

 

「それが医師としての仕事ですからね。でも茂木しげさんは大丈夫ですよ。難聴かと私は思いましたが今のところ会話に不自然なところはないし、聞き返されることもない。だから何もでないと思いますよ?」

「そうかねぇ」

「えぇ、ですから安心してください」


 私がそう言うものの、茂木しげさんはどうも落ち着かない様子だった。


 ♢


 茂木さんを渋々納得させて、私は診療椅子で強張りながら座る彼の耳を覗き込んだ。


「……ちゃんと耳掃除されてます?」

「……いや、してない」


 僕は淡々と言うものの、内心では驚愕していた。

 何せその耳の穴からは尋常ではないほどの(患者に対して医師である私が決して口にしてはならないが)実におぞましいものが見えていた。


 それは……耳


 当然少なからず人間の耳の中には、耳は存在する。

 しかし黄色のような大小様々の塊は、茂木さんの耳の穴から、はみ出るほどに溢れていた。


「どうして耳掃除をされてないんですか?」

「そんなに怒らないでくれよ、先生」


 別にただ聞いただけなのだが、茂木さんはどうもたじろいでしまう。


「すいません……ですがここまで放置する方が珍しいと思って」

「……怖いんだよ、先生。何かありそうでさぁ」


 怖い。

 私には今のこの茂木さんの耳の中(すでにはみ出ているが)こそが恐怖ではないかと思ってしまう。


「大丈夫ですよ。多分この耳を取り除いてしまえば、憂いも消えると思いますから」

「そうかねぇ」

「そうですよ。じゃあ取り除いていきますからね。痛かったら痛いって言ってくださいね」


 茂木さんはどうも疑り深く言葉を発するが、私は気にせず、器械代に並べられた器具の一つである細いピンセットを手に取ると、一番近い耳を摘む。

 なるほど、こびりついているわけではないので感触は軽い。これなら一気に取れそうだと私が確信した時だった。


「いてぇ!!先生、いてえよ!!」


 茂木さんは突然声を上げた。

 しかしその耳は皮膚にこびりついているわけではない。

 埃のように、ただそこにある、という印象を受ける。


「先生、もっと優しくしてくれよ。親父さんだってこんな強引には───」

「少し我慢してくださいね」


 茂木さんの言葉も聞かず、僕はそれを……耳をただ取った。

 それはやはり、意図も容易いことであった。

 ふやかさずとも簡単に取れた耳は塊ではあるが、見立てでは1ミリから2ミリほどに思える。

 

 私はピンセットで取ったそれを思わず見やった。

 どうして簡単に取れるものを、痛いなんて大袈裟な声を上げたのだろうか?

 ははん、さては高齢患者がよくやるオーバーアクションというやつだな。

 そう思っていた。

 だが……それにしては様子が変だった。


「茂木さん。やっぱり簡単に取れますよ───」


 私が茂木さんの顔を見た時、彼の顔は……何故か呆けているように見えた。


「茂木さん?どうされましたか?」


 私が彼の名前を呼んだ時、茂木さんは突然言った。


「……先生、どうして俺……ここにいるんだい?」

「え?どうしてって」

「俺は確かいつも通り早起きして死んだ女房の仏壇を拝んで……そんで運動がてら散歩して……そしたらいつも通り犬木いぬきさんと会って……それから……それから……俺、何してた?」

「……何してたって、茂木さんが耳の調子がおかしいって言うから今まで見てたんじゃないですか」

「俺が、耳が悪いって言ってここに……?……ダメだ、思い出せねえ……そんな記憶がねえ」

「そんな……」


 その言葉に私は唖然とするしかなかった。

 (耳のことはさておき)今まで健常だったものがこうなることがあるのだろうか?

 こうした症状は専門外になってしまう為、私には検討がつかない。

 ただ素人目線のようなもので見れば、茂木さんには認知症だとかそんな予兆は見えなかった。実際今朝のことはしっかりと覚えているではないか。

 だと言うのにどうしてこんなことになっているのか。


 すると私は直感した。

 そして持ったままのピンセットの先を見つめた。

 それは……耳

 茂木さんから取り除いた耳だ。

 しかしどうしてこれを取り除いただけで、こんなことになってしまうのだろうか?

 だがその答えを明らかにするように……声が聞こえた。


 『先生ね。俺、最近どうも耳の調子がおかしいんだ。聞こえづらいっていうかなんというか。耳鳴りなんかもすっかり聞こえなくなっちまうし、耳の中がどうにもごわついたような感じもするし、先生は医者だろ?なんとかしておくれよ』

『分かりました、ちょっと見てみましょうか』


 その声は……茂木さんと私の声。

 それも……数分前の会話。


「な、なんだい、そりゃ……」

「私にもさっぱり……」


 その声は紛れもない、耳から聞こえてくる。

 まるでボイスレコーダーのように、それは聞こえてくるのだ。

 だがその録音機具と大きく違うのは……停止ボタンが無いこと。


 止まることはなく、耳から声は聞こえてくる。


「せ、先生、止めてくれよ。なんだか不気味だよ、それ」

「……えぇ」


 茂木さんがせがむような言葉を吐くと、私は頷いてから、ピンセットで耳を潰そうとした。

 だが、その前に……そのおぞましい耳から、別の会話が聞こえてきた。


『最近耳の調子が悪いんだよ。お前さん、いい病院知らないかい』

『んなもん、若先生のあの耳鼻科に行きゃあいいじゃねえか』


 これは恐らく茂木さんと犬木さんの会話。

 そして若先生とは……恐らく私のことだろう。この街の耳鼻科は私の医院以外は存在しない。

 そんな呼び方をされたことは一切なかったので、どうにも困惑してしまう。

 だから私は……その会話を聞いてしまった。


『嫌なんだよな、若先生のところ。あの先生、親父さんみたいに優しいわけじゃないし。それに俺たちの話をちゃんと聞いてるか曖昧なところあるぜ?はぁあ、親父さんの頃はよかったよな、俺たちに親身になってやってくれてたし』

『まぁまぁ、若先生と俺たちとじゃ年齢も価値観も合わねえんだから仕方ねえよ。とはいえ、たまに強引なところがあるし、あれは辞めて欲しいよなぁ』

『だよなぁ。若先生もいい気なもんだよ。どうせあれだろ?この街の耳鼻科はあそこしかないから殿様気分でやってんだろ?俺たちには何もしてもいいって思ってんだ』

『同感だわ。それにあの若先生、ヤブ医者だしな。若先生がくれた薬で良くなった試しが一度もねえし』

『かーッ!やっぱりあんたんところもか!!やっぱりあの若先生は親父さんよりひでえな。さっさと店じまいしちまった方がいいんだ、あんなとこは』


 ……その言葉を止めるボタンは、ない。

 だから私は……その耳を……小さく震える手で持ったピンセットで潰してしまった。


「あ……あんよ、わ……先生」


 茂木さんの声は、震えていた。

 無理もない。聞かれたくない言葉を耳にしてしまったのだから。

 しかしそれとは別に茂木さんは私の顔を見て、自身の顔を引き攣らせていた。


「お、おい……先生」

「……何も異常はないようですね」

「……え?」


 私はような態度で、茂木さんに告げた。


「残りの耳も全部取っちゃいましょう。大丈夫。すぐよくなりますから」

「い、いや、先生。もう大丈夫だよ。もう耳もちゃんと聞こえるから」

「いえいえ、ちゃんと掃除しないと。病気になったら、大変ですよ?」


 茂木さんは……震えていた。

 だがそんな彼の気持ちを見ないように、私は強引に茂木さんの体を掴み、そして耳を覗いた。


「大丈夫ですよ。今ここで治療すれば、

「せ、先生!!先生!!」


 茂木さんの耳からはみ出る耳が、いつの間にか増えている。

 だが私は気にすることなく、それを取り除いてしまうと、茂木さんは急に黙り込んだ。

 

 ……恐らく今体験した記憶も、茂木さんから消えてしまったのだろう。

 

 だから彼はまた同じ言葉を繰り出した。


「……先生、どうして俺───」

「大丈夫ですよ、治療を続けますね」


 それから私は……再び茂木さんの耳にピンセットを向けた。


《完》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

耳の中の記憶 那埜 @nanosousa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ