グランドエスケープ

平木明日香

ある日の午後

第1話

 さて皆さんは、いかがお過ごしですか?


 私は元気です。


 机の上でノートを広げて、細長く削られた鉛筆が折れないように、そっと文字を書いてる。


 具体的に、なにを書いているのかはわからない。


 だけど、


 「その1」


 とノートの一行目には書かれているから、なにかこれから書こうとしていることは、間違いない。


 その1…、その1…


 あなただったら、まずこの世界でなにを叶えたいでしょうか。


 私はその一番目の項目を、ずっと悩んでいる。


 思い浮かばないわけじゃない。


 だけど叶えたいことっていうのは、現実にはそうはならないことだと言うことを、私は知っている。


 病院の一室で、小さくぽっかりと空いた窓から、外の世界を眺めている私は、まだ、外の世界についてをなにも知らない。


 知らないことがあってもいいと、誰かに言われたことがある。


 でもなにかを知ることは、私の中ではとても大切なことなんだといつも思っている。



 小学生の時に、好きなスポーツができた。


 中学生の時に、初めて個人用のスマホを買ってもらった。


 高校生になって、気になる人ができた。


 その調子で、順調に生活を送っていって、明日には皆と同じように午前7時にアラームをセットする。


 そして午後の学校の授業で、きちんとした英語を習って、いつか遠い外国に行きたいと願う。


 テスト勉強をして、これから訪れる将来についてを考えたいと思う。



 でもそう思う度に、心の中でいつも諦めていた。


 先生が、私の腕に注射を指す度に、心の奥では大きなフタが閉まってしまった。


 小さな窓に、大きなカーテンが敷かれる。


 そのカーテンレールが布を引っ張る摩擦によって、キィーッという音を奏でながら、いつの日からか、外の世界を見なくなった。


 小さな病院の一室で、たった一個の電灯と二人きり、静かな静寂を過ごし。



 どうせ、この世界でできることは限られているんだ。


 そう思う雲行きの怪しさが、みるみるうちに大きくなって、心の奥で何かが死んでいく音が聞こえた。


 腐っていくと言った方が正しいかな?


 病室に漂っていたのは死臭だ。


 消費期限が切れた食べ物が、この部屋のどこかにあるように、とても清潔さからは程遠い得体の知れない匂いが、あたり一面に漂っていた。



 部屋から出たい。


 でもできない。


 だから、私はノートを一冊買った。


 自分のお金ではないけどね。


 お母さんがくれた少ないおこづかいの中から、病院の売店で、ノートと、鉛筆と、それから消しゴムと、筆記用具を一式揃えて、がむしゃらになにか書きたいと思った。


 自分にできることは限られているから、せめてこれからなにが自分にできるのかを真剣に見つめたいと思った。


 私の症状は、日に日に悪化してる。


 それは自分の体のことだからわかる。


 先生が言うには、安静にしてれば治る見込みはあると言っていた。


 でもそんなのは嘘だ。


 自分の体が腐っていく感覚が、遠い未来からひたひたと足音を立てて近づいて来る。


 誰にだって消費期限はある。


 だけど私の場合は、開封済みの牛乳のように、もう間近にその期限が切れる瞬間が迫って来ている。


 早く飲まなければ、美味しい味は失われ、黒ずみがカビのように牛乳の表面に広がり、鼻を啄(ついば)む死臭が漂う。


 早く、早くなにか、しなければ……



 焦る感情は大きくなって、私は大きく息をつきながら、ベットの上で眠りにつくことさえできない。


 とにかく、必死に考えた。


 自分のできること。


 自分のしたいこと。


 なにか、残したい。


 あるいは、なにか、形があるものを掴みたい。


 机に座って、ノートを広げて、何度も考えた。


 考える時間が、あとどれだけ自分に残されているかはわからない。


 わからないのだけど、そういうふうに物事を考えている間は、少しだけ時間が長く感じられた。


 一日の終わるスピードが緩やかになる気がした。


 そうやって気がついたときには、


 「その1」


 とノートの一番上には書かれていた。


 もし、叶えられる願い事があるとしたら、その一番目は一体なんだろう。


 恐る恐る、私は手を伸ばして鉛筆を動かそうとした。

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