エンディング
魔王は無事に討伐された。世界は平和になった。調律者の仕事は果たされた。
だから、彼女がこの世界に留まる理由は。
もう、何もない。
「世話になった」
城の中庭。月明かりに照らされて、ふわりと微笑んだエレンに、出逢った頃の冷たさは全く感じない。
この旅の中で、彼女がどんどん変化していく様を見るのが、ゼノンにとって楽しみの一つとなっていた。
国王への報告を済ませ、明日には国を挙げて祝勝の宴が予定されている。勇者一行は、城の客室をそれぞれ与えられていた。ただし、エレン以外。
エレンの存在は、国の記録には残せない。人々の記憶にも、なるべく深く残らない方がいい。だから、エレンは今日中にこの世界を去ることになっていた。
ゼノンの気持ちを知っている仲間たちは、最後の時をエレンと二人きりにしてくれた。
この限られた時間を大切にして、綺麗な思い出を残して別れるのが、きっといい男というやつなのだろう。
そんなものには、なりたくない。
「エレン」
そっと頬に手を添えると、エレンが僅かに顔を赤らめて目を伏せた。
彼女も同じ気持ちであるという確信を持って、ゼノンがゆっくりと口づける。
十分に拒否する時間を与えた上で、それをエレンは受け入れた。
柔らかな感触に、脳が痺れる。
唇を離すと、エレンの頬に涙が伝っていた。
それを優しく指で拭う。
「君が、好きだ」
「……ありがとう」
言いたかった言葉を呑み込んだように吐息を漏らして、エレンは礼だけ告げた。
彼女は使命に忠実だから。責任感が強いから。自分から、投げ出すことはできないのだろう。
エレンの肩には、あまたの世界が乗っている。
調律者は一つの世界に留まらない。
全ての世界を監視できる場所で、ただ一人。世界の変化を見続けている。
そうして異変があれば赴いて、調律する。
いくつもの世界を渡って。誰とも深く関わらず。誰の記憶にも残らず。
命尽きるまで、それを繰り返す。
心を殺して。操り人形のように。そうでなければ、壊れてしまうから。
拒絶は許されない。役目を放棄すれば、綻んだままの世界は滅びていく。
どこでもない場所で。崩れていく世界を見続けることなど、果たしてエレンに耐えられるものか。
それができない人間を、選出している。
いくつもの世界を人質に。彼女を役目に縛り付けている。
「俺は、君が好きだ。この先も君と一緒にいたい。君と一緒に生きる未来が欲しい。だから、この世界で、俺と生きてくれないか」
エレンの瞳が揺れる。迷ってくれていることが嬉しい。自分は、あまたの世界と天秤にかけられる存在なのだと。
その確信が持てただけで、十分だった。
エレンの体を抱き込んで、その唇を奪う。
「っんん!?」
驚きに目を見開くエレンに、深く口づける。
彼女が混乱している隙に、ゼノンはエレンの手から
それは世界を繋ぐ杖。調律者が、世界を渡るために必要な呪具。これがなければエレンは世界を渡れない。
ゼノンは手にした
今までの旅で一度も折れたり欠けたりしたのを見たことがなかったので、特殊な術でもかかっていたらどうしようかと思っていたが、杞憂だった。傷ついたことがないのは、エレンの力だったのだろう。彼女の手を離れてしまえば、ただの木の枝も同然だった。
唇を離して目にした彼女は、正に呆然自失といった風だった。
零れ落ちそうなほど見開かれた目は、瞬き一つしない。
やがて唇が震えだして、振り絞るように言葉が紡がれた。
「何を……したか、わかっているのか……?」
「ああ」
冷静に答えたゼノンに、エレンは激しく掴みかかった。
「杖がなければ! 私はあの場所に帰れない! 他の世界へ行くことも!」
「ああ」
「私がいなければ、世界の歪みを正せる者はいない! こうしている間にも、滅びに向かっている世界があるかもしれない!」
「ああ」
首肯しか返さないゼノンを、エレンは絶望したような目で見つめた。
「他の世界を……見捨てる気か……?」
「そうだ」
力強い肯定に、エレンが息を呑む。
ゼノンは戸惑う彼女に優しく微笑むと、震える体を抱き締めた。
「俺はエレンさえいればいい」
「……放して……」
「他の世界がどうなろうと構わない。君をこの世界に閉じ込めることになっても、俺と一緒にいてほしい」
「許されない、そんなことは」
「誰に? 大いなる意思とやら?」
「それは……」
「エレン一人に役割を押し付けて、自分は高みの見物をしているだけのモノなんか、気にすることはないさ。君の犠牲も知らずに呑気に暮らしているだけの人間だって、どうでもいい。世界に綻びが出るのは、エレンのせいじゃない。そこから滅びへ向かったとしても、それは世界の運命なんだ。エレンが気に病むことじゃないよ」
そもそも、何故調律者などというシステムがある。大いなる意思とやらがあるのなら、全てそれが行えばいい。何故そんな重い役目を、一人の人間が背負う必要がある。
人には知覚できないモノ。それのために手足となって動く調律者。人前に姿を現すのは調律者だけだから、まるで調律者が神であるかのように扱われてしまう。実際はただの
世界の綻びは、経年劣化と同じだという。ならば、それはそのものの運命だ。壊れかけたものを、どうして直さなくてはならない。
調律などという言い方をするから、定期的な管理が必須であるかのように錯覚する。楽器の手入れは、本人が行うものだ。管理をする必要があるのなら、その世界に住まうものがなんとかすればいい。
滅ぶなら滅べ。
運命を他者の手に委ねた時点で、糾弾する資格などない。
「俺を恨んでもいいよ。でも、絶対に離さないから。俺と生きて、エレン」
それは問いかけではない。拒絶を許さない、命令。
例え彼女が、そうすることを心の底で望んでいたとしても。
エレンをこの世界に縛り付けたのは、ゼノンだ。
全ての責任はゼノンにある。
そのために杖を折った。
悪役になるくらい、安いものだ。
それで彼女が手に入るなら。
今はまだ、起こった出来事を心が受け止めきれないのだろう。
はたはたと零れ落ちる涙を拭うこともせず黙ったままのエレンに、ゼノンはもう一度口づけた。
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