10 hours

帆尊歩

第1話 10 hours

東京駅 13:15

あなたを待つ事に不安はなかった。

それは今も昔も変わらない。

あの京都駅のコンコースであなたを待っている時だって。

大きな荷物を持った人たちが行き交おうと。

恋人達が手を振って向き合おうと。

夫婦が久しぶりに会い、心を通わせていようと。

子供が両親に近づき、抱きしめられようと。

そんな幸せそうな人達の姿を見ようと。

そこに不安はなかった。

もしここにあなたが来なくても、何か用事が出来たんだろうと思うだけ。

それはここ、東京駅でも一緒だ。

それはあなたが来なかったときの自分自身への言い訳なのか。

慰めなのか。

諦めなのかわからなかった。

かつてあなたと大阪を歩いた時、ひどい不安感に襲われたことがある。

あの日の大阪はもう秋だというのにひどく暑くて、まるで巨大なサウナに入っているようだった。

私とあなたは、そんな大阪の難波を歩いていた。

あなたと歩くことはひどく緊張する。


あなたのことが大好きだったから。


絶えずあなたが私に何を求めているのか、そして何をしてあげればいいのか、さらにあなたから嫌われないようにするにはどうしたら良いのか。

そんな緊張感のせいで、いつだってあなたと一緒にいるときは、嬉しいとか楽しいという感じは受けない。

それらのイベントが終わったあと、もう一度その状態を思い返して、やっとその時になって楽しかったと思えてくる。

あの大阪を二人で歩いていた時、私は岐阜に、あなたは京都に住んでいた。

京都駅で待ち合わせをして、そのまま大阪に向かった。

その頃の私は、岐阜より西に行った事がなくて、京都と大阪の在来線からの風景を物珍しそうに眺めていた。

大阪駅で降りて、地下鉄の御堂筋線に乗り換えて難波まで行く。

難波で地上に出るためのエスカレーターに乗ると、前に若いお母さんが赤ちゃんを抱いて乗っていた。

その赤ちゃんの顔が、ちょうど私たちの目の高さになった。

あなたは赤ちゃんに手を振り、私も一緒になって手を振った。

そんな些細なことに、本当のカップルになったようで、嬉しかったのを覚えている。

二人で大阪に行ったのは、取扱商品の展示会が大阪で行われていたからだった。

取引先には十二時に行くと約束をしていたのに、今がその十二時だった。

まだ携帯も一般的ではなかった頃だった。

最初にこの展示会に誘ったのはあなただったので、あなたはだんだんあせってきていた。

でも私は、ただあなたと一緒いられる事が嬉しくてしかたがなかったから、なんとも思わなかった。

あなたは何を思ったのか。

「ちょっとここで待っていてください」と言い残すと、走って目の前にある大きな交差点を曲がった。

あなたの姿が見えなくなり、私は右も左も分からない大阪の街角に取り残された。

秋だというのに妙に暑い空気が、あなたを陽炎のように消してしまったような錯覚に囚われて、私は迷子の子供のようにそこに立ち尽くした。

そうだ、もう忘れてしまっていた迷子になる不安感。


その頃からだ。私はあなたを本気で好きになり、私はあなたと一緒にいることを望んだ。その反面、私はあなたと結ばれることはないという漠然とした予感のような物があって、いつだってこれがあなたに会う最後かも知れないという思いが、まるで決定事項のように私の心の中を支配していたのだ。

だから私は、どこかであなたと一緒にいる時間を少しでもいい思い出にしようとして、ひどく緊張していた。

だからあの難波の街で、一瞬でもあなたが私の前から姿を消した時だって、このままあなたがいなくなっても、自分の心を守る術は知っていたはずだったのに、まるで迷子の子供のような不安感で心がいっぱいになった。

その不安感は、

まるであなたなんて始めからいなかったかのように、

あたかも京都から難波まであなたがいたことの方が幻であったかのように、

難波のエスカレーターで赤ん坊に手を振ったのだって、私が勝手に作り出した単なるエピソードだったのように。

全てが夢だったのではないだろうかという不安感。


だから私はあなたがいなくても、私の心の均衡を乱すことはない。

たとえ、二時にあなたが八重洲口の高速バスの停留所に来なくても。

私はどこかでまた思い出を作ろうとしているのか。

でも決定的に違う事がある。

あなたすでに人妻になっている、

ということだ。

あなたをかつて愛していたというだけの理由で、お茶に誘うのは正しい事なのか、正しくないことなのか。

イヤ、モラルという観点からいえば正しくないだろう。

なのに、会おうというSNSのメッセージを送ってしまった。

後悔はないが不安感はある。

それが、あの時にはなかった。あなたが来ないかもしれないと言う不安なのか。

人妻を誘ってしまったという不安なのか、私には分らなかった。

七時から送別会が行われる。

現在が一時半。

あなたを乗せだ高速バスは、二時にこの八重洲口に到着する。

七時まで五時間。

それが私たちに与えられた時間だ。




名古屋にいたときの営業部長は、現在開発部の部長をしている。

定年だということは知っていたが、その名古屋の時のメンバーが東京で送別会を開くということは知らなかった。

それをメールで教えてくれたのもあなただ。

ある意味偶然の産物だ。

私はついこの間まで大阪にいたので、名古屋にいるあなたとの接点は皆無だった。

それが三ヶ月前に東京に転勤になり、偶然あなたと電話で話した。

あなたは、かつてうちの会社の正社員だった。

それが結婚して会社を辞めて、今はパートで働いている。

全国に小さいながらも事業所が広がるうちの会社としては、その地方のパートになってしまったあなたと接触する機会は皆無だ。

それがなんかの拍子に、私のところに在庫確認の電話をよこした。

あなたも私も、ぜんぜん知らずに電話をしていた。

うん、この声は聞き覚えがあると思って私は名をなのった。

昔の話で少し盛り上がり、あなたのSNSのアドレスを聞いて電話を切った。

それから、私とあなたとのSNSでの交流が始まった。

今から二ヶ月ほど前の話だ。


胸から甲高いオルゴールのような音が響く。

そういえば、SNSの着信音を最大のレベルにしたのを思い出した。

SNSの着信は一瞬なので、はじめはその音が気に入って設定したはずなのに、いったいどんな曲だったか忘れてしまった。

昼休憩の時に暇だったので、確認のため聞いてみようと思ったとき、音量が真ん中だった。

別にすぐに見るわけではないし、極端な話、聞こえなくてもいいわけだが、そのときどういう訳か最大音量に設定してしまった。

おかげでところかまわず甲高い音が響く。


到着まであと十五分・・・時間どおり。

待っててくださいね


                    とSNSで連絡が入った


オッケー

お腹すかしてきた。

                   と返事を入れる


人妻と独身男との交換だ。

SNSは便利だ。

昔はメールだったが、今は時代が違う。

終電に乗って、一車両に十人くらいしか乗っていないとき、そのうちの八人が携帯を見つめていたことがあった。

いまどきは珍しくないとは思いつつも、何てひどい世の中になったんだろうと思ったが、自分もSNSで連絡をしているので、あまり人のことを言えなくなってしまった。

SNSの便利なところは、電話をかけるほどの用事も必然性もない、でも様子が知りたい、なんて場合などとてもいい。


あなたとはもう二度と会うことはないと思っていた。

十年前、初めて実家を出て豊橋に転勤した。

そこであなたと出会った。

あなたは現地採用の社員で、東海地方限定でそのエリアを出ることはなかったから、全国転勤を繰り返す私とは元々接点はなかった。

そう、なかったのだ。

いつしか私はあなたのことが好きになった。

その好き、はこれまで生きてきて初めての

(好き)、だった。

人を好きになったことは何度となくあったし、付き合った女性がいなかったわけでもない。

でも、それまで軽々しく言っていた愛と言う言葉が、実はひどく軽く、うすぺらな、なんら実体のない感情だったことを、あなたと出会って知った。

あなたのことを本当に愛すると、あなたの触ったものや関係する物の全てがいとおしくなる。

あなたが存在していることを喜び、あなたをこの世に誕生させてくれたことを神に感謝した。

しかし結局私が転勤をして、そのままになってしまった。

いつしか私は、あなたを私の心の神殿に閉じ込めて日々を過ごし、あなたは私以外の男と結婚した。

私もあなたも、普通に結婚するにはぎりぎりの年だった。

あなたは三河を出たくなかったから、私の転勤がもう少し後だったら、私たちは結婚していたかもしれない。

すでに結婚していれば、三河を出たくないと言っていたあなただって、私の転勤についてきてくれただろう。

つまりは私の押しが足らなかった。

きっとここ一番で足踏みしてしまったのが私の最大の失敗だ。


最後に会ったのは三年前だ。政策発表会で東京に集まったとき、ほんの十分くらい立ち話をしただけだった。


二時ちょうどにバスが入ってきた。

私の胸の高鳴りは最高潮に達している。

それは、まるで初めてデートをしたときのようだった。

バスの扉が開き、次々と人が降りてくる。しばらくしてあなたが降りてきた。

珍しく帽子を被っていた。

黄色と黒の縞模様のキャップだった。

私が知る限り、あなたが帽子を被っていたことはない。ましてキャップである。

でもそんな事は、その時の私にはどうでもよかった。

私は軽く手をあげた。それは毎日会っていたときの挨拶だった。

あなたを前にすると、それが三年振りであるという事が実感できない。

イヤ、一対一で会うということを考えれば実質五年振りだ。

最後に会ったのは、豊橋の職場の駐車場でのことだ。

あの頃は、お互いに車で通勤していた。あのときもまるで、明日にでも会うような軽い別れを交わし、しばらく前後で走って国道一号の手前で岡崎と静岡に分かれた。

最後にあなたが後ろを走っている私に、ハザードを三回出した。

私は見えるかどうか分からないが、あなたに向かってもう一度軽く手を上げた。

ハザード三回とフロンドガラス越しに上げた手が、私たちにとっても本当の別れの挨拶だった。

あのときの軽い別れの挨拶は、この軽い再会の挨拶のためだったのだろうか。

いずれにしろ、こんな事がもう一度あるとは思わなかった。

あなたは腰周りに少し肉がついて、少しだけ顔が老けたように見えた。

でも私にとって、生涯で最も愛した女に違いない。

「どうする」と私はぶっきらぼうに言った。

「お腹すいた」

「あっそうなの」

「だって、お昼は食べてくるなって言ったじゃない」

「そうだっけ」と言って、私たちは歩き出した。

私たちはそのまま山の手線に乗って、新橋へと向かった。

一つ席が空いたので、あなたを座らせた。するとその隣の女性が席をずれて、私の座る場所を作ってくれた。あまり経験のないことだったのですこしだけ驚いた。

「で、どこに連れていってくれるの」

「お台場」

「へー」とあなたは驚いたように声をあげた。

「今日は泊まり?」私は何気なくあなたに尋ねた。

「うん、うん、帰るよ」

「今日?」と今度は私が驚いた声を出した。

「二十三時五十九分」

「帰れるのか?」私はうかつにも少し驚いた声を出してしまった。

「最終で帰れる、それに旦那に心配かけたくない」

「そっか。まあ、そうだよな。もし泊まるんだったら、明日帰る前に横浜でも行って昼でも食べてと思っていたんだけれど」軽く言ったつもりなのに、あなたは悲しそうに私を見つめて、

「ごめんね」とつぶやくように言った。

なんだかひどく重い言葉だった。

まるで、私があなたのことを愛していている事をわかっていて、別の男と結婚した。そこまで翻って、謝っているかのようだった。


新橋でゆりかもめの切符を買おうとしたら、フジテレビの展望台が本日休みというアナウンスが流れた。と言っても、私たちには送別会が始まるのが七時なので、五時間しかない。いまさら行き先を変える余裕はない。


ゆりかもめがあまり高いところから出るので、そのことだけであなたは驚いていた。

「よく来るの」とあなたは楽しそうに言う。

「やっと最近だよ」

「そうなんだ」

「観光に目覚めたんだ。三十才まで東京に住んでいて、東京タワーも昇ったことなかったし、ディズニーランドも行った事がない」

「で、お台場なんだ」

「そう、行ったことなかったから」

「あたしをだしに使った?自分が行きたかっただけ?」

「そんな事は無いよ」当然だ、あなたと行きたかったんだ、という言葉なんて言えるわけもなく、素っ気なく答える。

「でも、あの有名な丸い展望台には上れないんでしょう」

「うん。本当はちょっと昼、奮発しようと思っていたんだ。なかなか高いものを食べるなんてないから。それに、せっかく岡崎から来るんだから、送別会だけじゃもったいないだろう」

「そうだね」とあなたは答えた。


お台場 14:45


お台場に着いて、フジテレビを横目に見る。

フジテレビをバックに、一枚あなたの写真を撮った。

次にレインボーブリッジをバックに撮り、最後に自由の女神をバックに写真を撮った。

「お腹すいたよ」とあなたが言った。

その言い方は、初めて二人で食事をしたときの言い方に似ていた。

出会って二年目くらいだっただろうか。

それまで私達は、単なる同僚だった。

それが事務所で夜二人きりになって、仕事が終わり、あなたから食事に誘ってきた。

そのころはよくみんなで夜遅くなると、食べに出かけていたので、その延長線上だった。通例としても、その状況で事務所にいれば、食事に出ることについては普通のことだった。

「ああ行こうか」そのときの状況は、たとえ二人きりでもそこに特別な意味はなかった。


アクアシティーの五階で、私たちは昼を食べることにした。

とにかく見晴らしのいいところということで、レストラン街の一番高い階にやってきた。レインボーブリッジが目の高さにある。

エレベーターを降りて、レストランを探すまえに、

「ああ、ここ見晴らし良いぞ」と私は年甲斐もなく、はしゃいであなたの手を引いてバルコニーに出た。

そこにはお台場の風景が広がっていた。

「いい景色ね」とお腹がすいていることも忘れたようにあなたが言う。

そんな横顔を見ていると、あの頃のようだった。

手すりぎりぎりまで来るとかなり風が強かった。

そして急な突風があなたのキャップを飛ばした。

「あっ」と二人で声をあげた。私が弾かれたように

「取ってきてやるよ」と言って、振り返ったときだった。

振り返った私の手をあなたが後ろからつかんだ。

もう一度私は振り返ってあなたを見る。

するとあなたはゆっくり首を横に振った。

「いいの」

「でも」

「本当にいいの。あたしたちには時間がない」あなたの深い瞳に、私は何も言えなくなっていた。

二人きりで食事をするのも五年振りのことだ。

かつてはそんなこと当たり前のようにしていた事が、特別なことに感じる。


「旦那とはうまくいっているの?」レストランで食事をしながら私はあなたに尋ねた。

「うん、いいやつだよ。でも一つ問題があって」

「何」

「トラキチなんだ」

「トラキチ?」

「阪神命」

「名古屋だろ」

「だから問題なんだって。いつかドラゴンズファンから刺されるね。ユニホームは当たり前、岡崎で阪神のユニホームを着ているカップルがいたら、あたしたち。ほら」と言って、あなたは携帯を見せた。そこにはタイガースのステッカーが二枚貼られていた。

「去年の優勝決定戦の時は、二日間球場にいました」といってVサインを出した。

「へー」と言いながら、それは私の知らないあなたの姿だった。阪神はおろか、あなたが野球の話をしたことすらない。

これがリアルなあなたの今の姿なんだ。

いつしか私は、あなたを私の心の神殿に閉じ込めて、こうなんだというイメージを作り上げ、そんなあなたに恋をしていた。

だからこうしてリアルなあなたの姿は、余計な思いを断ち切れるといういい面と、せっかくなら持ち続けたいという相反する思いを喚起させる。

「綺麗だね」とあなたが言う。レストランの外には窓いっぱいにレインボーブリッジが見える。

「夜はもっと綺麗なんだろうな」

「そうだね」

夜までの時間は私たちには与えられていない。

「幸せなんだ」

「どうなのかな」

「何だよそれ。幸せになってもらわなくちゃ困るんだ」

「何で」

「ずいぶん前に、豊橋から名古屋に行く途中の名鉄特急で、幸せになりたいって言っていただろう。きっと今がその状態だからこそ、僕は我慢が出来る」

あなたはじっと私の顔を見つめた。その泣きそうな顔が、何を意味していたのか分からなかった。

「帽子を買って」

「えっ」

「何でもいい。あなたが選んだ帽子を私に買って」

「あっ、ああ、いいよ」私はいったいそれが何を意味するのか分からなかった。

「行きましょう」と言って、彼女は私の手を引いた。

会ってから一時間半が経っていた。

アクアシティーの二階に帽子屋があって、そこで私はあなたに帽子を買った。

ベレー帽をもう少し角張らせたような帽子だった。

それは、あなたにとてもよく似合っていた。

あなたはその場でその帽子を被って店を出た。

「でもあのキャップ本当に良いのか」

「旦那にもらったやつ」

「だったら、大事なものじゃないか、とにかく探しに行こう」

「えっ、ええ」

アクアシティーの一階に出ると、難なくキャップは見つかった。

でも悪戯なのか、偶然なのか、誰かに踏まれて泥だらけになっていた。

あなたはいとおしそうにその泥だらけのキャップを胸に抱いた。

胸に泥がついた。

その姿に私はあなたを抱き締めたい衝動に駆られた。

誓って言う。

そのときの私によこしまな気持ちはなかった。

ただあなたの大事なキャップと、汚れてしまった服を何とかしたいという気持ちだけだった。

その気持ちだけで私たちは、お台場の駅前のホテルに入った。

あなたは何も言わずついてきていた。

そのことに抗議も肯定もしていない。ただじっと私を見つめて惹かれるがままに私の後をついてきた。

あなたをホテルに連れ込む、それは何らかの意図を感じるかもしれないが、私はかなり純粋にあなたのキャップと服を何とかしたかっただけだった。

会ってから二時間が経っていた。

あなたの服とキャップを洗って、ルームサービスに乾燥機にかけてもらうことにした。あなたはバスローブを羽織ってベッドに座っている。

バスローブの中は下着姿だ。

私は窓際の椅子に座っている。

窓の外にはレインボーブリッジが見える。

「すごいシュチュレーションだよね」とあなたが楽しそうに言った。

「ごめん」

「何で謝るの」

「無理やりホテルに連れ込んだ」

「本当だよね」と言って、あなたは窓の外のレインボーブリッジを見つめた。

「本当はね」

「うん」

「旦那と離婚しようと思っていたんだ」

「えっ」

「勘違いしないで、でもしないよ」

「何で離婚なんか」

「結婚して五年になるけど子供が出来ない。向こうのお母さんや、お父さんが早く孫の顔が見たいって言うの。始めは気にもしていなかっただけど、ちょっと心配になって、内緒で病院に行ったんだ。

そしたら。

なんとあたし、子供生めない体なんだって」あなたは楽しそうに言った。最も悲しい時は悲しいのに、無理に元気を出して、楽しげに振舞うのがあなたの特徴だった。その強がりは、痛々しいとさえ感じていた。

「ずいぶん悩んだ。でも仕方なく旦那に言ったんだ。離婚してくれって。そしたら当然何故ということになるよね。理由を言ったら家族会議よ。向こうのお父さんとお母さんは仕方がないと言う感じで、慰謝料も色つけて、出来るだけのことはしてあげるって言うのね。もっともこっちのせいだから、精一杯の優しさだったんだろうね。でも旦那は違った。絶対離婚はしないって家族の前でいきまいた。今は不妊治療も進んでいるし、それでダメなら養子をとってもいいとまで言った。ものすごく嬉しかった。あたし、この人のためなら何でもしようと思ったの」

私は何も言えなかった。

あなたの辛さを初めて知ったことと、それに対して何もしてあげられないこと。

そしてたとえ何かが出来たにしても、何かをしてあげるほど近しい間に、もうすでにないこと。そんなことのすべがなんだかとても切なかった。

「ごめなさい。私は旦那のところからあなたのところに来ることは出来ない」

「そんな日は来ないことは祈っているし、来ないと思うけど。どうしてもいられなくなったら僕のところにくればいい」

「そんな失礼なこと出来ないよ。そうなったら、私はたった一人で生きていく」

「そんな強がることないじゃないか」

「強がってなんか」

「愛しているんだ。たとえ失礼だろうがなんだろうが僕の横にいてくれれば、それだけで僕は嬉しくて、嬉しくて仕方がない。僕のために帰ってきてくれ」

あなたはバスローブをはだけると私に抱きついた。

「抱いていいよ」

「なんだよそれ」

「どうせ子供なんて出来ないから」

「あんな話聞いて抱けるかよ」そう言って私は椅子から立ち上がり、再びあなたをベッドに座らせた。

「だったらキスをして。やさしいキスをして。本当に愛されている人からのキスがほしい。それだけでいい」

「旦那から愛されていないのか?」

「あたしチームだもん。愛するとか、愛さないじゃない、二人で生きてゆく同士なの。どちらかが欠けてもダメな戦友なの。

私はあなたに何もあげられない。それでもあなたは私を愛してくれる。そういう愛を持ったキスがほしい」

「ひどいことを言うんだな。僕のことを愛していないと断言しているようなものだ」

「ごめんね。でもあなたに嘘はつけない」

「嘘をついてくれる方がいい場合もある」

「キスが欲しいなんてあたしの我が儘なのかな」

「いや、素直なんだよ」夕日が部屋の中に充満する、真っ赤に染まった部屋の中であなたの顔は真っ赤に燃えているかのように見える。

それはあまりにリアルなあなたの素顔だったような気がする。

私ゆっくり立ち上がると、あなたの前に立った。

あなたはベッドの端に座り、そんな私を見上げた。

私はあなたの前髪を上げると、そのおでこにキスをした。

あなたの目から一筋の涙がこぼれた。

それがいったい何を意味するものなのか私には分からなかった


それから私たちは二人でベッドに座り窓の外を眺めていた。

窓の外では夜が始まろうとしていた。

レインボーブリッジに灯がともる。

夜景の東京はあまりに美しかったけれど、そんな事はその時の私たちにはどうでもよかった。

寄り添い、横にいるあなたのぬくもりを感じながら、ただそこに居る、あなたと居る。

ただそれだけでよかった。

そこにあなたと私の未来はない。

でもただこの刹那。

あなたと一緒に居られる事が嬉しくて、幸せで。尊くて。たとえ後、数十分しかなくても。

私はこの刹那を与えてくれた事を神に感謝した。


 東京駅  23:45


私たちはバス乗り場に立っていた。送別会はそこそこ盛り上がり楽しかったが、私はあなたのことが心配で仕方なかった。並んで前を向き私は思わず言う。

「頑張れ」

「うん」とあなたは答える。そしてもう一度、

「頑張れ」と言う。

「うん」今度の返事は涙声だった。

「頑張れ」

「うん」明らかに泣き声だった。

いつしか私の目からも涙がこぼれていた。

バスが入ってきた。

するとあなたは自分を奮い立たせるように、大きく深呼吸をするように息を吸い。

「行くね」と言うとバスへと歩き出した。少し行ったところであなたは振り返ると、

「さよなら」と言った。私は思わず、

「無理するな」と叫んだ。するとあなたの顔は再び崩れて。大粒の涙がこぼれた。もう一度私は無理するなと叫んだ。でもそれは言葉にならず。代わりに私も大粒の涙がこぼれた。

振り絞るように

あなたは「じゃあ、また」と言った。

または無いんだよと思いながら。私も

「じゃあ、また」と言った。

それがいつもの私たちの別れの挨拶だった。


バスが出発するとバス停の時計は0時をさしていた。

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10 hours 帆尊歩 @hosonayumu

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