絶望の画家

利居 茉緒

絶望の画家

「素晴らしい組み合わせだ。」

 開ききった真っ黒な瞳孔を湛える瞳が、目の前の二つの油画を見つめている。大きさはどちらもFの12号。右はキャンバスいっぱいに描かれた、子供を抱く母親の絵だ。やわらかいオレンジと春の日差しのような温かみのある黄色が使われている。母親は微笑み、腕の中で穏やかに眠る赤子に目を落として、右の指先をそっと頭に乗せていた。

 それと対象的に左の絵は余白の多い沈鬱な絵だ。埃を被った写真たてに、あちこちに転がる銀色のビール缶。閑散とした部屋の中にうつ伏せで横たわる男は、足元しか見えてはいない。しかし、窓から室内を突き刺す月明りの黄色にお膳立てされた、床に広がる暗い赤色が、何が起こっているのかを嫌に示している。

「おい、やめてくれ。俺たちはむしろ正反対だろ。絵が喧嘩しあってる」

 白いTシャツとジーンズを絵具で汚し、いかにも嫌そうな表情を浮かべた、長身で短い茶髪の男が言った。彼の名は、水原亮平。藝術大学に通う4年生だ。

「どこをどう見たらそうなる。完璧に調和してるぞ。幸福の絶頂と、最悪の終わり!これ以上心を打つものはない!」

 それに対し応えるのは、全身真っ黒な衣服をまとう男だ。身長は平均程度で髪も目も黒く、こちらも絵具でいたるところが汚れている。彼の名は尾根綾人。水原と同じく藝術大学の4年生である。

「俺の絵がお前に食われるんだよ。慈愛の絵が破滅への示唆にされるなんて御免だ」

 水原はキャンバス立てを移動させ、死の香る尾根の絵から自分の絵を引き離した。

「ニスが垂れるぞ。ここに置いておけよ」

「嫌だ。お前も早く元の場所に戻せよ。ライン超えてるだろ」

 狭苦しいアトリエの中、彼らはそんな口論を繰り広げていた。なんとも息の合わない二人が、どうして同じ空間で、魂をかけた作業をしているのか。答えは簡単、金がないからだ。

 こだわりの強い二人は、雑音にまみれた学校の中、騒がしい気配に邪魔されながら絵を描くことに耐えられなかった。だから一年生の夏から、わざわざ山奥のガレージを借りて、貸与料金を折半しながら共同でそこを使っているのだった。

 15畳程度のガレージは、所狭しと画材で埋め尽くされている。一面コンクリートでできていて、向かって右側、水原の近くの方に小さな窓がある以外に特徴はない。もちろん壁一枚隔てた先は外なので、夏は暑く、冬は寒い。まさに、名ばかりのアトリエだ。

 床の真ん中には黒いガムテープで分断されるようにラインが引いてあるが、ところどころ剥がれ落ちていてあまり意味を成しているようには思えなかった。それもそのはず、彼らは足りなくなった絵具を相手から『借りる』ために、頻繁にそのラインをまたいでいるのだ。

「コンクールでぴりぴりしてる?馬鹿みたいに習作を量産してるのもそのせいかい?」

「そうだよ遅筆さん。そっちこそ呑気にしてていいのか。」

「もちろん。毎年僕が一位だしね。いや、でも今年はどうなるかな?僕はとても楽しみだよ」

「黙れ」

 水原は顔をゆがめた。そして、オレンジに汚れた面相筆をブラシクリーナーに乱雑に突っ込んだ。

「そんなことより君のが全部母親の絵なのが気になる。やっぱりマザコン?」

「ラファエロをリスペクトしてるんだよ!」

「ラファエロだって全部母親の絵なわけじゃないだろう」

「そんなこと言ったらそっちこそ物騒な絵ばっか描いてるだろ!」

「死だよ。良いテーマだろう?嫌でも視界に入れなきゃいけないし、嫌でも心を動かされる。主に悪い意味で。」

「ほんとに最悪な性格だな」

「天才の証左だよ」

 苦痛はわからないが幸せはわかる人間と、幸せがわからなくても、苦痛は理解できる人間の数を比べたなら、確実に後者のほうが多い。テーマはとがっていても、それはある意味大衆性を帯びている。

「ほら、この絵を見て」

 水原はちらりとだけ目をやった。

「激情の残り香がするだろう?」

 確かにその絵からは、薬品だけではない、胃を握られるような不快なにおいがした。湧き上がる嫌悪感。肌に感じる絵の『彼』が抱いた絶望───嫌になるほど、素晴らしい絵だった。


 歴史に残る名画家の人生をたどれば、そのほとんどがあらゆる技法、あらゆるテーマを試しているものである。明るい絵。暗い絵。生の輝き。死の悲嘆。それらを踏まえて、自分のスタイルを確立していくのだ。

 しかし水原は、幼いころから頑なに明るい絵ばかりを描いていた。彼のキャンバスにはいつも笑顔が溢れていて、涙さえも歓びを帯びていた。端から端まで目を凝らしたとしても、そこには一片の悲しみも見当たらない。

「心を埋めるために描いてるんだろう?」

 一年の秋。初めてのコンクールに少し浮足立ちながらキャンバスに向かっていた時、尾根はそんなことを口にした。水原に視線もくれず、泣きながら死体に縋りつく女の絵を描きながら。

「知らないものは描けないよ。」

 まだ共同のアトリエを持ってニケ月もたっていないのに、やけにプライベートに入り込んでくるやつだ、と水原は思った。同時に、その言葉が図星であったことに対して、少しの恐怖と苛立ちを覚えた。

「なら、お前は知ってるみたいだな。その、暗ーい絵のテーマを?」

「どうかな。ともかく、いろんな悲しみは想像できても、愛されてどんな気持ちになるかはわからないだろう?」

「そんなことないさ。悲観的に考えすぎだ」

 その年、水原は最終選考の二歩手前で落選した。


 二年の秋。この時点で、とっくに水原は尾根のことが嫌いだった。

「さあ、今年は何の絵を描く?首吊り死体?ホッケーマスクの殺人鬼?」

「そうだな、失恋して橋から身投げする男の絵かな。彼女とはうまくいってる?」

「お前絶対友達いないだろ」

「わりといるよ。とりあえず君が思ってる二倍は確実に」

「二倍にしてもゼロだな」

「だと思った」

「ちっ」

 水原は舌打ちをすると、手元のスケッチブックに目を落とした。もうすでに何個も没案ができていて、彼の手は黒く汚れていた。

「またぬるま湯みたいな絵を描くのかい?」

「そうだよ」

「自分の未来の子供とか?」

「かもな」

「君には似合ってないよ」

「わかってる!」

 水原は声を荒げ、鉛筆を床にたたきつけた。

 頭の中に浮かぶのは、酒に溺れる母親の姿と、忽然と人の気配が消えた父親の書斎。気化したアルコールの匂い、小便臭い路地裏の風景に、ガラの悪い男の身に着けたチェーンが擦れる音───

「だからこそ俺はこれしか描かない。理想を詰めこむのが芸術ってもんだろ」

 水原は椅子から立つと、転がっていった鉛筆を拾い上げた。芯のぽっきりと折れたそれをみて、彼はめんどうくさそうな顔をした。そしてどこからかカッターナイフを取り出すと、かちかちと音を立てて刃を出した。

「絵の中だけでも夢が見たいんだよ」

 その言葉に、珍しく尾根は筆を止めた。そして、黙々と鉛筆を削る水原を見据えて言った。

「それは同感だ」

 彼は上機嫌に笑った。

「好きにやらない手はないな。理解されない感性でも、芸術に昇華できる素晴らしい媒体なんだから。」


 そんなことがあった日から、尾根の水原に対する態度は少しだけ変化した。

「よく見たらいい絵だね。恋人ができたから上手くなったか」

 尾根は、描きかけの絵をのぞき込んで言った。水原ははにかむ女性の、ふわりと靡く茶髪の束を手直しをしている最中だった。よく見なくても尾根は床のラインを越えていたが、褒められるのは悪くない気分だったので黙っておいた。

「よく見なくてもいい絵だろ」

「理想を煮詰めたみたいな絵だ」

「それ褒めてるのか?」

「勿論!それが芸術だ。君が言ってた。」

 尾根はそう言うと、自分のテリトリーに戻っていった。そして、まだニスの乾ききっていない自分のキャンバスを手に取ると、水原の絵の左に並べた。

「・・・ほんとにその絵にしたのかよ」

 それは先日の文言通り、桟橋から身を乗り出す男の絵だった。男は背中を向けていて表情はわからない。血のように真っ赤な夕日が灰色の背広を照らしている。相変わらず人生の最悪のシーンを切り取ったような光景で、胸の中に言い難い感情が広がっていく。それにとどまらず、その絵の影響は水原の絵にまで及び、あっという間に幸せの象徴が仄暗いものに変貌してしまった。

「おいやめろ並べるな」

「時系列的にはこうかな」

尾根はわざわざキャンバスを右隣へと移動させ、満足げに息を吐いた。

「そう!これだよ!単体よりずっといい!」

 水原は尾根とは対照的に、顔を青くしたり赤くしたりして叫んだ。

「卒倒しそうだ!」

「それがいいんだよ!」

 見たことのない楽しそうな表情で笑っている尾根を、水原はラインの外に押し出した。


 三年生の秋。水原は去年のコンクールの結果を思い出しながら、苦い顔でスケッチを描いていた。

 あれ以来尾根は頻繁にラインを越えてくるようになった。初めは根気よく抵抗していた水原も、今ではもう諦めて、腹いせに逆に尾根の画材を拝借するようになっていた。そのうち尾根も水原に同じことをし始め、もはや床のラインはあってないようなものだ。

「今年はお前に勝つよ」

「どうかな?去年君は最終選考に漏れたけど」

「いいや、絶対だ」

「すごい自信だね」

「ああ。もう知らないものじゃなくなったからな」

「テーマがか」

「その通り」

 尾根は上機嫌な水原を見て笑った。それに気がついた水原は怪訝な顔をした。

 確かに、ここ最近の彼の成長はめざましかった。水原の絵は、子供が大切なおもちゃを愛でるような、ある種の無邪気さと引き換えに、今や本当の慈愛を手に入れていた。

「君が幸せそうで嬉しいよ」

 積み上げられる幸福は、まるでピラミッドのように。上に行けば行くほど、どんどん足場は危うくなってくる。命を脅かす高さに気が付かぬまま、歓楽に流されるように彼は上を向いて登っていく。ああ、楽しみだ、楽しみだ。彼がどんな芸術を産むのか。いつ己を越えるのか。どんな顔で全てを捨てるのか。尾根は胸を躍らせた。

 その年、ついに水原の絵は展覧会で尾根と並んだ。惜しくも銀賞だったが、水原は確実に王座が近づいているのを感じた。


──そして、四年生の秋。

 森の中を歩く。踏みつければ軽快に歌うどんぐり。舞い踊る紅葉。青く淡い秋の空に、ちぎれた綿菓子のような雲。なんと素晴らしい日であろうか。

 目に焼き付く極彩色は、これでもかとインスピレーションを刺激する。水原は買い足した山のような画材を抱え直すと、落ち葉と木の実の上を進んで、慣れ親しんだガレージに向かっていた。

 がらがらとシャッターを開け、水原はアトリエに足を踏み入れる。過ごしやすい外とは違い、ガレージの中には肌寒さを覚えるような冷たい空気が流れていた。

「やあ!」

 鈍い音がした。そしてすぐに、物が擦れ合って雪崩落ちる音が続いた。

 水原は荷物を取り落とし、呆然として前を見た。

「学生身分も最後だし、何か大きいことをやろうと思ってね!」

 妙に浮き足だった明るい声が、混沌の中で異様に浮いている。水原は自らは追い詰めるようなBGMがかかっているように錯覚した。それは間違いではなかった。胸の左側で波打つ心臓が、急激に脈拍のピッチを上げていく。

「君は着々と幸せの階段を登っていった。それが頂点に達した時、後は──」

 足が固まって動かない水原の代わりに、尾根が一歩踏み出した。足跡がまたひとつ増える──床を埋め尽くす、赤黒い足跡が。

「転落するだけだ。そうだろ?」

 ついに水原は、網膜に映る景色を理解した。

 コンクリートの白い床は男が歩き回った跡に埋め尽くされ、サークル状に吐き気を催す模様を作り出している。キャンバス立てや椅子、小さな作業机、まっさらなキャンバスが真っ赤に染められて、その画材となった人物が奥の方で汚い血に濡れて沈んでいた。やわらかな茶髪が血に侵されて固まり、細い四肢が投げ出され、元は人間だったと思えないほどに捨て置かれたそれは、彼の幸福の象徴だ。

「人は老いて緩やかに階段を下っていく。冷えてこの目に見えなくなる恒星のように、あくびが出るほどゆっくりと朽ちていく。」

 狂人は歩き回る。床を血液で彩りながら、常軌を逸した芸術論をつらつらと語る。

「そんなこと、芸術家が許せようものか!」

 水原は、溶かされた鉄がぶくぶくと沸騰するような、太い木がバキバキと鳴るような、ガラスが粉々に砕けるような、奇妙な音を聞いた。

 どっ、と急激に体温が上がって、何を吐き出せばいいのか解らない口が熱い息を漏らしている。頭を殴られたような衝撃と、酒を煽ったような酩酊と、全身に氷柱が突き刺さるような痛みと、溶岩のようにとぐろを巻く心臓、理性を失った脳、剥き出しの心、溢れ出る衝動──

 その感情の名は、絶望。

「ああああああああああ!!!」

 あらゆる物を投げ倒し、湧き上がる殺意の拍動に肉体を明け渡す。ガレージに響くのは、感情の奴隷に成り下がった獣の咆哮。本能のまま手近な物を握りしめると、彼は狂人に向かって突進した。倒れた体に馬乗りになり、何かもわからないそれを大きく振りかぶり、叩きつけることを繰り返した。五感が麻痺して、鈍い音も、赤い視界も、握りしめた両手の痛みも、醜悪な臭いも、涙の味も、何もかもわからなかった。


 ふと気がついた時には、燃えるような衝動もすっかり掻き消え、心の底には灰と恐怖だけが残っていた。

 我に帰った水原は、声も出せないまま後退り、胃が空になるまで嘔吐し続けた。目の前の二つの惨状を受け入れられず、逃げ出そうにも足腰が立たず、結局彼はいつものように、絵を描くことに救いを求めた。ぐちゃぐちゃになったキャンバスを引っ張り出し、這って掻き集めた画材を使って、震える手で筆を走らせる。しかし、キャンバスに塗りたくられるのは理想ではない。色濃く絶望の匂いを残した、歪で奇妙で下手くそな、性別も表情も曖昧な絵。何度も何度も絵の具を塗り重ねようが、現れるのは不気味なそれだけ。水原は夢中になって描き続けた。欺瞞の幸福を取り戻すために。現実味のない輝きを求め、眦から大粒の涙を流しながら。


「───」

 水原は自室のベッドの上で目を覚ました。ひどく頭が痛み、何があったのか思い出そうとするが、起き抜けの頭はうまく働かない。今までどこにいたのか。もしくはずっとここにいたのか、よくわからなかった。

 突然、携帯の着信音が鳴った。知らない番号だったが、水原は反射的に応答ボタンを押していた。

「もしもし?」

『もしもし!今どこにいらっしゃいますか?』

「えっと、自宅です」

『・・・自宅ですか?展覧会の件なのですが、あと30分でプログラムが始まるのですが、来られますか?賞状授与の件です』

「──賞状?」

 水原は口の中でその言葉を繰り返した。

『ええ、金賞の。あまり時間がないので、可能ならお早めにお願いしたいのですが』

「展覧会、って、絵画コンクールのですか?」

『はい。そうですよ』

「────」

 水原は開いた口がふさがらなかった。しかし、急かすような電話相手の口調に流されるまま、急いで着替えをして家を出て行った。

 水原は全力疾走で駅まで行き、展覧会の最寄り駅で降りると、そこからまた全力で走った。肺が縮み上がり、酸欠で目の前がちかちかした。

 展覧会の会場が見えると、自動ドアの目の前にスタッフらしき人が立っていた。水原の姿に気が付くと、彼は大きく手を振って、激しく息をつく水原の手を引いて館内に入った。「もう少し頑張ってください!」と男は言った。電話と同じ声だった。

 息も絶え絶えで進んでいくと、明るいスポットライトに照らされた、三枚の誇らしげな絵があった。銅賞は見知らぬ一年生だったが、それは水原の目に入らなかった。

 ───堂々と金賞を飾る彼の絵は、真っ赤に染まった人物画だった。見るものを掻きむしり、強烈な印象を残す絵だ。いつまでも朽ちない濃密な狂気と絶望の香りが、見る者のの鼻孔を穿っている。ごっそり抜け落ちた記憶が、その色彩によってすべて思い出された。それをどこで描いたのか。なにで描いたのか。そして、どんな感情で描いたのか。何もかも、何もかも。

「あ、ぁ」

 声帯から掠れた音が出た。膝が震えて崩れ落ちた。あちこちから心配した職員が駆け寄ってくる。大丈夫ですか。どうしましたか。声は彼には届かない。彼の耳には自分の心臓の音と、耳障りな狂人の声しか鳴り響くことはない。

 彼は視線を彷徨わせた。無意識に左の方を見ると、ぺたりと座り込んだ水原のことを、銀賞の絵が笑っていた。幸せに身を浸し、目を輝かせてキャンバスに向う男の絵。悪魔の視点から見た、手のひらで踊る愚かな人間の様が。


──尾根綾人作:『絶望の画家』

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絶望の画家 利居 茉緒 @kakuyonu112

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