恋色メール 元婚約者がなぜか追いかけてきました
国樹田 樹
恋の色をのせ、届く便りは
「初めまして」
「っ……」
発せられた声、目に入ったその姿に、無意識に上げた悲鳴。
浮かべた笑顔とは裏腹に、黒い瞳の奥は笑っていなかった。
刺す様な視線。
その矛先は―――――私。
「三ヵ月後の新規事業開始にあたり、応援に来てくれた桐島君だ。先日通達があったように、長谷川チームが新部署の配属となる。今後は彼の指示を仰ぐように」
言いながら、人事部長の
「DRM事業本部所属の
企業戦士の典型のような、隙の無いスーツ姿の長身が言葉の最後に小さく頭を下げた。それに合わせ、私を含む『長谷川チーム』の全七名が彼に同じく会釈を返す。
再び顔を上げた時、また鋭い視線が身体を貫く。
目線だけを無理矢理逸らし、緊張を悟られまいと背筋にぐっと力を入れる。
見知った顔―――では済まない。
幼い頃から見慣れた顔。
それが、目の前にいる。
皮肉だね、ともう一人の自分が自嘲気味に笑う。
彼と離れる事を決め、それを実行したのが三ヶ月前。
なのにこれから三ヶ月、彼の傍で仕事をするのか。
まさか、今になって……会うなんて。
彼はかつて―――私の『婚約者』だった人。
◆◇◆
帰宅後暫くして、ソファの上に放っていた携帯の画面が淡く点滅しているのに気が付いた。
首にかけたタオルで髪を拭いながら、それを手に取り確認する。
メール受信 一件
ロックを解除し、画面を滑らせると、以前は頻繁に目にしていた筈の名前があった。
『 京 介 』
苗字の無い、名前だけの表示は、それだけ私と彼が近い距離にあったという証拠でもある。
プライベートでは彼の事を名前で呼んでいた。私も彼に『千尋』と呼ばれていた。
私、#長谷川千尋__はせがわちひろ__#は本来ならば、『桐島千尋』になる予定だったのだ。
―――ほんの、三ヶ月前までは。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 20:27
件名:久しぶり。
届いているか?
あれから何度も電話もメールもした。
返事は期待していなかったが、予想通り全て無視とはな。
だが、これでもう逃げられないだろう。
否が応でもこれから三ヶ月は顔を付き合わせる事になるからな。
……おやすみ。
ーーーーー
最後の一文を目にして、瞳を閉じる。
ぎゅっと瞑った瞼に滲むモノを、どうにか押し留め携帯をソファに置いた。
返信はしない。
彼もそれがわかっているから、文末を締めている。
よく知っている。私の性格を。
知られてしまうほど、傍にいたのだから。
着信拒否はしていなかった。
彼と離れてから送られてきた数々のメールや着信も、未だメモリに残されている。
……消せなかったわけではない。
幼馴染という間柄、京介とは切っても切れない縁がある。
どれほど断ち切りたいと私が願っても、周囲がそれを許してくれない。
母には京介とは終わったと告げた筈なのに、未だ連絡が来るたび彼の話を聞かされている。
幼い頃から知っている京介の事を、母が気に入っていたのは知っていたし、彼との婚約が決まったのを一番喜んだのも母だった。
私達に元通りになってほしいのだろうが、生憎応えられない私はいつも母の言葉を気まずい思いで聞き流していた。
母が知ったら何と言うだろうか。
再び京介と、仕事を共にするなんて。
愛想も何もない、ぶっきらぼうな文章が、懐かしいと思ってしまうのはどうしてだろう。
私が住んでいたマンションに、彼が来たのかどうかはわからない。
簡単にメールで別れを告げて、今のアパートに越してきて三ヶ月。
最初は休む暇も無いほどに大量のメールや着信が鳴り響いていたけれど、それも今や途切れていた。
だからこそ、もう諦めてくれたのだと安心していたのに。
―――まさか、支店に出向してくるなんて。
大丈夫? と脳内で呟きが聞こえた。
それに心で『大丈夫』と自分で自分に言い聞かせ、再びソファの上に置いた携帯に視線を向ける。
黒く変わってしまった画面が、静かに訴えているように見えた。
◆◇◆
「千尋」
背後から呼びかける声に、足を止めた。
見計らっていたのだろう、振り返るまでもなくそれが誰なのかわかっていた。
「……何でしょうか」
抱えたダンボールを持つ手に少しだけ力を込め、そのままの姿勢で問い返すと、背中のすぐ近くで溜息が聞こえた。
思ったより距離が縮まっていた事に戸惑うけれど、それでも振り向く事はしない。
「敬語、やめたらどうだ。普通に話せ」
「……私は、これが普通ですが」
「どこがだ」
ぐい、と肩を掴まれ無理矢理反転させられる。
少しよろけた私の身体を、彼が腰に廻した手で支えた。
自分のそれよりも太くがっしりとした腕の存在を、嫌でも意識させられ一瞬固まる。
ダンボールを抱えていなければ、まるで抱き合っている様に見えただろう。
職場にしては近過ぎる距離と、腰を抱える腕に意識を引っ張られ、緊張で背筋が凍りつく。
京介から離れて三ヶ月。
未だ、身体は彼の腕を覚えていた。
「……離してください」
静かに言い放つと、ゆっくりとその手が離された。慌てて距離を取り京介を睨むと、なぜか小さく微笑まれる。
「少し痩せたな。俺としては、以前のお前の方が良かったが」
切れ長の瞳が柔らかく細められる。流された黒髪の一房が落ちて、彼の額で揺れた。
少々冷たい印象さえ与えてしまうキツ目の顔立ちは、受ける印象こそ硬質なものの、口を開けばかつてと同じ空気を纏っていた。
余裕さえ感じるその仕草に、なぜだか苛立ちが募る。
再開してからというもの、仕事中も、今も、緊張しているのは自分だけに思えてしまう。
私は確かに、彼と別れた筈なのに。
別れを告げた筈なのに。
「仕事中よ。馴れ馴れしくしないで」
「結構な態度だな。仮にも自分の婚約者に」
「……今は、違うわ」
間を置いて言い切ると、京介が険しく顔を顰めた。
不機嫌さを全面に押し出す彼に少し驚く。
彼が負の感情を前に出すのは珍しい。
幼い頃から大人びていて、いつも余裕の態度でどこか掴めない、そんな人だったから。
物事に動じない、クールな彼に私は物心ついた時から惹かれていた。
長い間の片想いを実らせる事が出来たのだと思っていた。
けれど違っていた事を思い知らされた今となっては、その思い出も苦いものでしかない。
京介と仕事をする様になって、一週間が経っていた。
その間毎日送られてくる彼からのメールは、未だ一度も返していない。
そろそろ業を煮やしてやってくるかと思ったけれど、悪い予感ほど当たってしまうものなのだろう。
「俺は破棄した覚えは無い」
視線を真っ直ぐ向けたまま、真剣な表情で彼が言う。
向けられた視線と同じく、届いた声には濁りが無かった。
だけど。
「……私は、そのつもりよ」
険しい顔を崩さない彼にそう告げて、私は背を向け歩き出した。
胸に込み上げた熱くて苦しいそれには、気付かないフリをした。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 22:36
件名:お疲れ。
もう一度言うが、
俺は婚約を破棄した覚えは無い。
ーーーーー
携帯の上を滑らせていた指を止め、簡潔に書かれた一文をじっと見つめる。
白地に浮かんだ黒い文字が、責めているみたいに見えるのは、私に罪悪感があるからだろうか。
―――罪悪感?
どうして?
先に裏切ったのは彼なのに。
心で叫び声を上げた『昔』の自分を、瞳を閉じて押し込める。
もう、関係ない。
仕事で関わりがあるのも、今だけだ。
三ヶ月。
それだけ我慢すれば、もう二度と、京介と関わる事も無いだろう。
心の奥底で、未だに涙を流し続けている『昔』の自分にそう告げて、私は手にしていた携帯を放り出した。
愛用している枕の横に、ぽすんと軽い音を立てて着地したそれから意識を離し、布団に潜り込んで瞼を閉じた。
今夜の眠りは、浅いかも知れないと予感しながら。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 13:11
件名:今日
帰りに付き合え。
ーーーーー
二週間目。
休憩時間を終え、戻ってすぐに届いたメールを見て唖然とした。
こんな事を書いたところで何にもならないのに、それを知っているはずなのに。
どうして彼は。
私が『メールを読んでいる』のを前提で送ってきているのだろう。
京介とは仕事以外の話をしていない。
不自然ではない程度に、彼と他の社員の雑談に相槌を打ったりはしているけれど、その中にも気付かせる所は無かったはずだ。
机の下でさっと携帯の画面を閉じ、遠目に京介の様子を伺う。
普段と変わったところは無い。
淡々と仕事をこなしている風に見える。
―――今更、二人で会って何を話すというの?
私にあんな真似をしておいて、裏切っておいて、婚約破棄はしていないだなんて、どんな気持ちで口にしたの。
私が知らないとでも思っているのだろうか。
彼の裏切りを。
彼は知らないのだろうか。
私が彼の裏切りを知っていることを。
私は心で頭を振って、今日は会社の裏口から帰る事を決めた。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 18:37
件名:帰りに付き合えと言ったはずだが
今から行く
ーーーーー
裏口から出て、帰宅したところで携帯が鳴り響いてビクついた。
見たくないと思いつつも、身体は意に反してそれを確認する。
『今から行く』という言葉を目にして、一瞬意味がわからず瞬いた。
今から?
行くってどこへ?
―――っここへ!?
意味を理解して青褪める。
従業員名簿か何かで住所を調べられたのだろうか。
幼馴染だから、まだ実家にすら引越し先は伝えていなかった。
真っ先に当たられるのが目に見えていたから。
でも……従業員名簿なんて、なかなか見せてもらえるものでは無いのに。
京介の事だから、あまりよろしくない手段まで使ったのかもしれない。
目的の為には手段を選ばない、そんな冷徹な部分もあったから。
本社で彼が若くして役職につけたのも、そういう部分が起因しているのだろう。
まさか自分にそれが発揮されるとは、夢にも思って無かったけれど。
慌てて、ボストンバッグに着替えを詰め込み部屋を出る。
住所を知られた以上、暫くはここに帰れない。
足りないものは買うしかないかと諦めて、ドアの鍵を閉めた、その時だった。
「また、逃げる気か?」
背中側から声がして、途端に感じた誰かの体温。
声で彼だと理解したのか、懐かしい温度で彼だと理解したのかは―――わからなかった。
◆◇◆
「な、んで―――」
メールは今、届いた筈なのに。
『今から行く』と書いてあった。だからこんなに早く着く筈が無い。
なのに、何故。
「お前が裏口から出て行くのを、見ていたからな」
凍り付いている私の頭上から、低い声が降りてくる。
背に感じる熱と、僅かに香る彼の匂いに、頭の芯が痺れた気がした。
私の手は、未だ鍵を鍵穴に挿したまま。
それに京介が上から手を重ね、閉めたばかりのロックを解除する。
カチリ、と金属音が鳴り響き、京介は私ごと、部屋へと入った。
「っ……は、離してっ!」
片手で彼の胸を突き、無理矢理身体を離し距離を取る。
自分の部屋に居る京介の存在に、緊張で心臓が激しい音を立てていた。
「なぜ、逃げる? いや、なぜ逃げた?」
離れた距離をそのままに、細めた瞳を向けて京介が言う。
今日こそは聞かせてもらう、とでも言いたげなその瞳に見据えられ、私の目に涙が滲む。
それを見て、京介がはっと目を見開いた。
―――逃げたんじゃない。
私は、消えたのだ。
京介から。
京介の、人生から。
消えたかったのだ。
「……っ!」
叫びたいのに、声が出なくて胸を押さえる。
激しくなり続ける動悸に、体中の熱という熱が上がった気がした。
呼吸が、苦しい。
職場では出なかった。仕事だからと、心が遮断してくれていたから。
だけど、今は違う。
今―――私の心は、無防備だ。
「千尋?……おいっ!?」
焦った京介の声に、なぜか心地よさを覚えながら、私は眩暈に襲われた意識を、黒い底へと手放した。
◆◇◆
……そこまで、俺が嫌になったのか……。
沈んだ意識の中で、その言葉だけがゆらめいて。
声は小さいはずなのに、受ける印象は強すぎるほど強烈で。
苦しくなるほどの声の切なさに、ぎゅっと顔を顰めて目を開くと、そこにはここ三ヶ月で見慣れた天井が見えていた。
「……気が付いたか」
離れた場所でした声に、驚きつつも視線を向けると、部屋から玄関までの短い廊下に彼がいた。
辛うじて見える京介の顔は、なぜか泣き出しそうに見えた。
「きょう、すけ……?」
状況がわからなくて、問いを込めて彼を呼ぶと、途端彼の顔が綻ぶ。
「名前を、呼ばれたのは久しぶりだな……調子はどうだ? もう辛くはないか?」
薄く微笑みながらも心配げな彼の様子にどきりとする。
言われた言葉に記憶を反芻してみると、意識が戻る前、激しい動悸がして呼吸が苦しくなったのを思い出した。
―――ああ、また、私。
自分の中で答えを見つけて、苦笑する。
「大丈夫よ。だけど……できれば私に、近づかないで」
自分で言った言葉に、痛みを感じて顔を顰める。
だけど、京介にまた同じことをされると私はまた倒れる事になってしまう。
あの苦しさは、なるべくなら味わいたくない。
私の言葉に、京介がふっと目を伏せ呟いた。
「俺が原因か?」
彼らしくない暗い声。
伏せた瞳も、似合っていない。
仕事でもプライベートでも、貴方は真っ直ぐ、前を見る人だったから。
「違うわ」
「嘘をつかなくてもわかる。職場での千尋も、俺に近づくのを極端に避けていたものな。俺が触れた途端、お前の呼吸が荒くなった。……過呼吸、だったか」
私の返事を即座に否定して、伏せた瞳のまま言葉を紡ぐ彼の表情が、なぜか痛々しく見える。
気付かれていた。
仕事でも、なるべく距離を置いていた。遮断した心でも、近付きすぎるのだけは避けたかったから。
断言する彼の口ぶりに、無駄な否定をするのをやめる。
「きっかけは、そうね。でも、原因は私にあるの。私が……弱いから」
京介がやっと、ゆっくり瞳を上げて私を見る。
ベッドで横になっている私と、彼の瞳とが重なって、静かな沈黙が二人の間に漂った。
私が、弱いから。
そう。
これに尽きる。
長く付き合った恋人との別れは、私の身体を変えてしまった。
別れの『原因』となったその出来事は、私に暗くて重く、引き摺るような重石を心につけた。
思い出すだけで苦しくなる。
胸も、息も、身体も。
だから、離れたかった。
消えたかった。
彼の、傍から。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 21:22
件名:あの後、大丈夫だったか?
俺がいない方が良いみたいだから帰ったが。
あれから大丈夫だったのか? 今日は一人で過ごせたのか?
様子を見に行きたいが、お前が一日いないだけでこんなに大変だとは思わなかったよ。
だが皆実力のある者ばかりだ。これを纏めるのは一苦労だろう。
千尋が休みだと聞いて皆目を丸くしていたぞ。
朝一の慌てようは見ものだった。
仕事は回っているが、お前が居てこそのチームだな。
良いチームだ。
帰りに差し入れを持っていく。
ドアノブにかけておくだけなら、顔を合わせなくて済むし良いだろう。
また連絡する。
ーーーーー
久しぶりの発作で、全身が疲労していた私は京介の勧めもあって一日休みをもらうことになった。
新部署が立ち上がり、未だ慌しい最中だというのに快く休暇をもらえたのは、京介の口添えがあったからこそだと思う。
画面に映された文章を見て、少しだけ温かい気持ちが込み上げる。
たった三ヶ月とは言え、自分が主任を勤めているチームを褒められ嬉しかった。
本社からの希望異動でやってきた私を煙たがる事なく、快く迎え入れてくれた同僚達。
個性は少々強めだけれど、皆実力のある人達ばかりだ。
磨り減った心を、澱みに浸かりかけていた私を、この三ヶ月支えてくれたのは仕事と、彼らだった。
京介からの差し入れの申し入れに、断りを入れるかどうか若干迷う。
けれど、顔を合わせない配慮までしてくれている事に心が咎めて、メールを打とうとした手を止め、気付く。
―――私、今。
京介に、返事を返そうとしていた―――?
事実に気付いて愕然とする。
「……っ!」
どうして。
昔みたいに返事を返そうとしていたのか。
断りなど、放っておけばいいのに、なぜ、返信ボタンを押そうとしたのか。
あれほど。
あれほど絶望させられて。
触れられれば、意識を手放したくなるほどに、傷つけられて。
未だ、何も知らないフリで、わからないフリで、平然と迫ってきている彼に。
どうして……。
するり、と手から携帯が滑り落ち。
私はベッドで、静かに泣いた。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 21:46
件名:体調、大丈夫そうだな。
やはり千尋が居ると違うな。チーム全員の覇気が違う。
お前はこの三ヶ月、ちゃんと自分の居場所を作っていたんだな。
……もう、戻ってくる気は無いのだろうな。
見ればわかる。
体調、大丈夫そうには見えたが、無理はするな。
俺もなるべくお前に近付かない様にするから。
ただ、視線だけは、許して欲しい
おやすみ。
ーーーーー
『視線だけは、許して欲しい』
文末の言葉に、ぎゅっと胸が切なくなる。
彼に酷い事をされたのは私の方なのに、どうして私がこんな思いを抱かなければいけないのか。
彼のメールを閉じてから、指先をずっとスライドさせて、三ヶ月前の一つのメールへと行き着く。
消したくても、消せなかったそれには、ロックがかけてある。
彼にされた仕打ちを、忘れない様に。
彼の事を思い出しても、これを見て心を戒めることが出来るように。
そこには、私じゃない誰かと写る、彼の姿があった。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 21:46
件名:メールでいいから。
千尋が、メールをちゃんと読んでいてくれてる事は知ってる。
ありがとう。
だが、そろそろ期日が迫っている。
俺がこっちに出向してから二ヶ月が経っている。
もうあまり時間が無い。
メールで良い。
話してくれないか。
どうして突然、俺から離れた?
身体が拒否するほど、俺はお前に嫌われたのか。
自分が何をしてしまったのか、わからないんだ。
頼む。
もう、これで終わりにするから、教えて欲しい。
俺は千尋に、何をした?
ーーーーー
京介が短期の異動でうちの支店に出向してきてから二ヶ月余りが過ぎていた。
新部署設立も既に完了し、業務は慌しいながらも順調に進んでいる。
現在は細かな整理作業に入っているが、それも私の長谷川チームのみで手が足りる状況だ。
もしかすると、予定の三ヶ月よりも早く、京介は本社に戻る事になるかもしれない。
携帯をぎゅっと握り締め、深呼吸をする。
今迄、京介に問い詰める事はいつでも出来た。
どうして、何食わぬ顔で私の前に出てこられたのか。
どうして、未だ私と恋人関係であるかの様に、振舞うのか。
どうして、婚約を破棄したつもりは無いなどと、言うのか。
どうして、私に構うのか。
言いたいことはいくらでもあった。
だけど、一度蓋をしたはずの傷を、もう一度瘡蓋を剥がし血を流すような真似を、したくは無かった。
これで終わりにするからという京介の言葉は、本心だろう。
なら、私も本当の意味で終わりに出来る。
もう、彼と関わらなくて済む。
苦しくなる胸も、息も、身体も、時が癒してくれるだろう。
私は再び携帯を見据え、過去の画像を呼び出した。
一枚の画像。
それを、京介への返信メールに添付して、文章は打たずに送信する。
『映っている本人』に、返すだけ。
これで、終わり。
―――送信しました―――
白地に浮かび上がった文字を見て、私の目から涙が一筋、零れた。
◆◇◆
―――京介と離れる三ヶ月前よりもう少し前。
突然彼と連絡がとり辛くなった。
電話をしても、メールをしても、返事がこない。
きたと思えば深夜も過ぎた夜中に電話が一本掛かるだけ。
どうしたの? と聞いても、返る返事は忙しい、の一言だった。
最初の一月は我慢した。
彼は私と同期のわりに、仕事ができる人間だったから。
他部署だというのに聞こえてくる京介の有能ぶりは、幼馴染でもある自分にとっては喜ばしくも感慨深いものだったから。
二ヶ月目、連絡は相変わらず取れないのに、突然私の住むマンションに彼がやって来た。
新入社員で、お互い今の会社に入った頃は、まだ付き合ってもおらず別々に部屋を借りていた。
付き合いだしてからは、互いの部屋のスペアキーを持っていて、互いに行き来を繰り返していた。
けれど、必ず事前に連絡はしていたのに、京介は突然、お酒の匂いを漂わせ赤い顔をして私の部屋にやってきた。
「接待で飲まされた」と言った彼のスーツから、甘い香りが漂った事は、恐らく私の気のせいではなかったと思う。
その日二ヶ月ぶりに彼に抱かれたけれど、私の頭からはその甘い香りがこびり付いて離れなかった。
そうしてある日、私は見つけてしまった。
その『甘い香り』と同じ香りのする一人の女性を。
会社の常務の姪御さんである、
大学を卒業し立ての、初々しい若さに包まれた少女のような女性は、若い男性社員の心をいくつも掴んでいた様だった。
そんな彼女が、京介に熱を上げていると噂で聞いたのは、彼女を見かけてから二週間後の事。
私と京介の関係は、会社の誰にも知らせてはいなかった。
社内恋愛は何かと人の噂に上りやすいからと、互いに配慮しての事だったけれど、それがまさか仇になるとは、その頃の私には知る由も無かった。
京介と連絡がとり辛いままの日々がその後も暫く続いたある日、京介がまた突然私の部屋にやって来た。
それも、またお酒の匂いとあの甘い香りをスーツにつけて。
会社で何度か京介と吉岡さんが連れ立って歩く姿を見かけていた私は、その香りを嫌悪した。
抱き締めてくる京介の腕を振り解き、抱かれたくないと拒否をした。
京介の手を拒んだのは、今思えばあの時が初めてだったと思う。
どうしたと、驚きながら訊ねてくる京介の声すら苛立たしくて、私は彼を撥ね付けた。
どうしてスーツから彼女の香りがするの、なんて口が裂けても言えなかった。
だって京介は振り解かなかったからだ。
『彼女』の手を。
会社だというのに腕を絡めてきていた吉岡さんの手を、断る事さえしていなかった。
受け入れていた。
彼女の手を。
ろくに連絡も取れず、数ヶ月前に抱かれただけの、私とは大違いだった。
悔しくて、悲しくて、絶望とも言える気持ちに心が支配されて。
私は戸惑う京介の身体を無理矢理ドアの外に押しやり、扉を閉めた。
ドアの向こう、彼が何か言葉を発していたのさえ聞くのが辛くて耳を塞いだ。
そうしてその明け方。
私の携帯に、一通のメールが届いた。
アドレスは、『彼女』の社用アドレス。
manami yoshiokaと名前が入っているから一目でわかる。
『こういう事なので。』
一言だけ記載された文章に添付されていた画像は、私の疲弊した心を壊すには十分だった。
京介と、彼女が。
キスをしている写真が、そこに添付されていた。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 20:07
件名:今からお前の部屋に行く。
ーーーーー
目にした文章に、思考が固まる。
本文さえ記載されていない件名だけの内容は、私をパニックに陥らせるには十分だった。
―――京介が本社に戻ってから、半月が過ぎていた。
終わりにするからという彼のメールに、最初で最後の返信を返した。
あの画像だけを添えて。
それで、彼も理解したのだと思っていた。
別れができたのだと思っていた。
ならばなぜ今更……こんなものが届くのだろう?
◆◇◆
「半月ぶりだな」
チャイムの音が部屋に響き、一瞬居留守を使うか迷ったけれど、いい加減この関係に終止符を打ちたかった私は仕方なくドアを開けた。
そこで目にした京介の顔は、以前出向でうちの支店に来ていた時より、何倍も覇気に満ちていた。
その事に、内心首を傾げつつ、彼の隣に居る二人の人影が眼に入り視線を向けた。
そうして、私は固まった。
「よ……吉岡常務っ!?」
「ああ、君が長谷川君か……!申し訳ないっ……この度は本当に、申し訳ない事をした……っ」
そう言って、本社では話をしたことすらなかった吉岡常務に頭を下げられた。
常務取締役、
うちの会社は経営陣が同族で占められており、彼は社長の従兄弟にあたる人である。
しかし、小さなアパートの玄関で、深く腰を折る初老の男性は、なんともこの場所には不似合いで。
「え、あの、え?」
「とりあえず、悪いがお前の部屋に入れてもらえるか?吉岡常務の他に、もう一人居る。部屋の前で三人並んでるんじゃ、何事かと思われるだろ」
驚く私に京介がドアの向こうを目で示す。
吉岡常務の少し後ろ、小柄な身体で気が付かなかったが、そこには女性が一人居た。
「よ、吉岡真奈美、さん……?」
名前を呟く私に、こくんと相槌を打つ彼女の顔は、どうしてか涙でぼろぼろになっていた。
朝には綺麗に施されていたであろうメイクも流れ落ちて、見るも無残な事になっている。
……一体、どういうこと?
内心わけがわからなかったけれど、本社の重役とその姪御さんを外で立たせるわけにもいかず、私は京介を含め三人を自分の狭い部屋へ招き入れた。
◆◇◆
「どうぞ」
言って、小さなテーブルに三人分のコーヒーを置く。
吉岡常務が「すまない」と呟き、彼の姪御である真奈美さんが「すみません」と同じような事を口にした。
京介だけが、私に「ありがとう」と礼を述べた。
「今日この二人を連れて来たのは他でもない、あの画像の説明をする為だ」
「あの画像……って」
言われて、思い浮かべるのは一つしかなかった。
そんな私の顔を見た京介が、ニヤリと笑う。
「そうだ。この吉岡常務の娘さんと、俺が写ってたあの画像だよ」
笑みを浮かべたままの京介が、常務と真奈美さんを見据えた途端、二人の肩がビクついた。
真奈美さんはともかくとして、仮にも常務である彼が、どうして京介の態度に怯えているのだろう。
そう思った時だった。
「申し訳ないっ!!」
「え!?」
大きな声で謝罪の言葉を口にして、がばっと常務が頭を下げる。それはさながら土下座そのもので、私は突然の行動に驚いてしまった。
先ほども急に頭を下げられて吃驚したけれど、一体なぜ、この人が私に謝罪などするのだろう。
「長谷川さん、君に送られたあの画像は、この真奈美が桐島君を罠に嵌め、第三者に撮らせた上で送りつけたものだ。っ本当に申し訳ない! 桐島君から、それが原因で婚約を破棄されたと聞かされた。全ては真奈美の愚かな行為のせいだ。桐島君に非は無い。彼はむしろ被害者だ」
口早にそう告げた吉岡常務は、隣に座る真奈美さんの頭を鷲掴みして一緒に頭を下げさせた。
「ごめんなさい!」と涙声で告げる彼女は、顔を下げたままぐずぐずと泣き続けている。
二人のその姿に、内心戸惑いながらも、常務の言葉が私の心で繰り返されていた。
「第三者に、撮らせた……?」
呆然と呟く私に、吉岡常務が顔を伏せたまま、肯定の言葉を述べた。
それを見て、京介がふんと鼻を鳴らす。
「そういう事だ。あの頃やたらと常務の名前で呼び出されたんだ。さすがに俺も断れなくて、付き合っていたら彼女がいつもそこに居た。おかしいとは思ってたんだ。俺以外の面子も、皆その時に人事で噂になってた奴ばかりだったからな」
吐き捨てる様に説明に補足をして、京介がコーヒーに口をつける。
それと同時に顔を上げた常務が、私を見ながら続きを告げる。
「真奈美は、私の名を使い、自分の気に入ったものを選んで連れて来ていた。私には「社の将来について語りたいと言っている若い実力者が居る」と……。彼らを今の内に味方につけておけば、将来他の重役達と対立する事になっても強い布石になると言って。けれど実際は、ただ自分が気に入った男達、しかも将来有望だと目星をつけた男を自分に振り向かせる為だけの、ホストクラブ紛いの行いがしたかっただけなのだ」
吉岡常務の言葉を受け、真奈美さんも顔を上げたけれど、彼女の目からは大粒の涙がぼろぼろと零れていた。
以前会社で見かけた、少女らしさの残る女性の見る影も無く、マスカラが涙で流れて黒い筋を作っている。
「っふっ……ごめっ……ごめ、なさぁ……っ」
しゃくりあげながら、謝罪の言葉を言ってくれているけれど、そのほとんどが言葉になってすらいない。
「私の名を使っても自分に靡かなかった男は、腹いせに悪質な画像を撮影し、相手の交際相手などに送り付けていた。愚かにも社用のアドレスを使ってだ。社内サーバーを確認したら、今まで真奈美に嵌められた者の画像が大量に出てきたよ。これはもう犯罪レベルだ。救いようが無い……」
大きな溜息と共に、吉岡常務が吐き出す様に言って、上等であろうスーツで包まれた肩をがっくりと落とした。
それを見て、京介が彼に哀れむような視線を向ける。
「俺に、常務の後ろ盾が欲しければ、自分と付き合えと言って来たんだ彼女は。それを俺が撥ね付けると、無理矢理抱きついてきた。その後された行為がアレだ。無論すぐに引き剥がしたが、まさか彼女に脅された他部署の男が、隠れてカメラを構えていたとは知らなかった。俺以外にも、同じ手口で写真を撮られた奴がいる。そいつらも交際相手が突然自分の元を去ったらしい。他にも何人も居るんだよこんなことやられてた奴が」
「どうしてそんな……」
京介の言葉に、ただ呆然と呟きを漏らす。
誰かを故意に傷つけて、相手を貶める様な事をして、何の意味があるのだろう。
私には、到底理解できるものでは無かった。
「自分以外の女に、気に入った男が気を取られているのが許せなかったんだとよ。馬鹿馬鹿しい。世界の中心にでもなったつもりか。育てた奴の顔が見てみたいが、元々コイツを社に入れたのは常務だ。その助長を促したのもな」
冷たく言い放つ京介に、吉岡常務と真奈美さんの両方が、怯えた瞳で彼を見つめた。
「好いた男が、他の女とキスしてる姿なんざ、万が一男の交際相手が妊娠でもしてたらどうする? 大袈裟じゃ無く、それがきっかけで流産する事だってあるんだ。疑心は人間にとって一番のストレスだ。しかし幸いにも、俺が調べた限りでは画像を送られた女性の中にそういったのはいなかった様だが。この女は精神的に人を殺す寸前の事をやりやがったんだよ。やり方だって最低の部類だ。謝ったぐらいで済む事じゃない」
―――精神的に、人を殺す。
京介が言った言葉は、たぶん私にも当てはまっている。
彼女から送られた、一枚の画像。
それまでの経緯。
その二つは、私の心を疲弊させ、身体が拒否するほどの苦しみを私に与えた。
彼女が画像を送りつけた女性の中に、万が一にも、大きなストレスを抱えてはいけない状況にあった人がいたら―――そう考えるだけで、恐くなる。
「本当に、申し訳なかった……私の監督不行届だ。私にも、将来味方を増やせるという愚かな考えがあった……。真奈美がした行いの全てを調べ、悪質な画像を送られた関係者には謝罪と相応の対応をすると約束する。真奈美にも相応の対価を何らかの形で支払わせる。長谷川さん、貴女も、本人希望での異動となっているが、君が望むなら本社に戻れるように私から手配しよう。本当に、本当に申し訳なかった……っ」
「いえ、その、事情は……理解出来ましたので……」
自分や京介が巻き込まれていた出来事の詳細が、あまりにも衝撃的過ぎて、私の中でいまいち消化しきれていなかった。
おかげで、かなりたどたどしい返事になってしまう。
「まあ、当たり前だろうな。二人には、これから迷惑を掛けた奴ら全員、俺のように婚約を破棄された奴にも頭を下げにいってもらうさ。正直言って、面倒だがな」
そんな私に京介はふっと笑いかけると、吉岡常務達に厳しい視線を向け言った。
常務と吉岡さんは、びくびくしながら京介を見つめている。
「とりあえず、関係者には全員に簡単な説明の連絡をしてある。直に会うのは明日以降だ。俺は千尋と話すことがあるからな……」
京介に促され、吉岡常務は真奈美さんと共に一旦帰ることになった。
二人は最後まで私に頭を下げ、真奈美さんについては帰り際もずっと泣き続けていた。
目も顔も腫れ上がった姿は、痛々しいとさえ思えるほどに。
やった事は許せるものではないけれど、そんな彼女の姿を見て、私は最後まで責める事が出来なかった。
私自身にも、非が無いわけではないとわかってしまったからだ。
京介のスーツについていたあの甘い香りも、常務の名前で呼び出されたとき、彼女に無理矢理隣に座られ移ったものだったらしい。
確かに強めの香水ならば、横に居るだけでも生地が香りを吸ってしまうだろう。
だけどその香りの意味を、私は彼に尋ねなかった。
『画像』という証拠があったとしても、京介から真実を聞かされるのを恐れて、逃げた。
返事が少なかったのも、頻繁な常務からの呼び出しと、丁度仕事の多忙期が重なったことかららしい。
返らない返事、スーツに纏った甘い香り、送られてきた画像。
無理矢理にでも問いただす事は出来たはずなのに、彼から告げられる別れが辛くて、言われる前に自分が先に行動を取った。
その結果受けた傷は、真奈美さん一人のせいではないのだろう。
「これで、誤解は解けたか?」
京介が、以前は見慣れていた余裕たっぷりの笑顔で告げる。
それから、ここに至るまでの経緯を改めて説明してくれた。
私からあの画像が送られてきたことで、京介はすぐさま常務の名前で呼び出されていた人達と連絡を取り、彼らと自分の状況を照らし合わせた事。
そしてその中で、真奈美さんの誘いを断った者だけが、何らかの被害を受けていた事などを。
「あまり大きな声では言えないが……吉岡真奈美は他にも色々とまずいことをしでかしていてな。怒りにまかせて調べ上げたら、その辺も面白いほど出てきたよ。おかげで、あいつらに直に頭を下げさせる事ができたわけなんだが」
「……うん」
「なあ千尋、……これで、戻って来てくれるか?俺の所に」
そう言って、京介が両手を広げながら私の前で笑う。
それを見て、後から後から、涙が零れた。
止めようとしても、止められない。
気持ちも、想いも、全てが溢れていくようだった。
そして私は泣きながら、彼の腕の中へと飛び込んだ。
「っ……ごめんなさいっ。ごめんなさいっ」
貴方に、確かめなくて。
勝手に傷ついて、勝手に逃げて。
―――ごめんなさい。
謝り続ける私の身体を、京介の腕が囲い込み、ふわりとした温もりに包まれる。
彼の唇が、そっと私の耳朶に触れた。
「謝るな。傷ついたのはお互い様だ。俺も連絡を怠っていた。悪かった……だけどもう、離さない」
耳元で、囁かれた声が嬉しくて、幾つも涙が零れ落ちる。
そんな私の手を取って、京介がスーツのポケットから何かを取り出し指に通した。
薬指に嵌ったそれが、部屋の明りできらりと瞬く。
「千尋、結婚しよう。もう二度と、離れる事の無いように」
再び強く抱き締められて、告げた彼の言葉に、私はキスで、返事を返した。
二度と、彼の腕に抱かれることは無いと思っていた。
けれど彼が送ってくれたメールが、壊れかけた気持ちを癒やしてくれた。
想いの込められた便りが届く度、恋心はあるべき姿に戻っていって。
恋の色をのせたメールは今日も、私と彼の間で、ひらりひらりと繰り返される――――
<終>
恋色メール 元婚約者がなぜか追いかけてきました 国樹田 樹 @kunikida_ituki
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