アンナチュラル

あまくに みか

アンナチュラル

 大学受験の合格発表の日だった。

 合格者の受験番号が貼り出された掲示板の前で、俺はスマホ片手に立ち尽くしていた。


「どうだった?」

 五秒くらいの沈黙の後、緊張した母さんの声が耳元で聞こえて、俺は反射的に大きく息を吸い込んだ。

「あったよ」

 泣くつもりはなかったのに、その言葉を発した途端に涙が溢れた。

「よかった。おめでとう」

 母さんの声も震えていた。

「ありがとう。これから帰るよ」

 そう言って俺は通話を切った。掲示された受験番号の写真を撮って、母さんに送信する。


 母はシングルマザーだった。

 女手一つで俺を育ててくれて、大学に行けるようにと塾にまで通わせてくれた。自分のことは後回しにして夜遅くまで働いていた母さんに、思春期の俺は反抗したこともあったっけ。


 俺は母さんが大好きだったから、恩返しがしたくて勉強をがんばった。長くて辛い、這いつくばるような日々だった。第一志望はダメだったけれど、第二志望の大学に今日、合格した。

 まぎれもなく、母さんと二人で勝ち取った合格だった。




「危ない!」

「え?」

 悲鳴のような、叫び声。

 ブレーキの高い音。

 迫りくる車。

 一瞬の心臓の縮み。

 手からすり抜けた、スマホ。


 衝撃。


 俺が最期に見た光景は、真っ白な冬の空と合格した大学の門だった。




****




 ——早く。急いで。今ならまだ間に合う。

 ——時間がないの。

 ——とにかく、採取を。



 聞いたことのある声だ。



 俺は薄らと目を開く。まぶしい光に顔を背けた。

「あれ? 俺、死んだはずじゃ?」

 真っ白な部屋に俺は立っていた。視力より先に、聴力が戻ってくる。



 女の声。それに、男の声もする。

 女の方は、焦っていて聞こえてくる言葉の音に棘がある。対して、男の方は落ち着いていて、短い言葉を繰り返している。



 ——大丈夫です。

 ——問題ありません。

 ——はい。大丈夫。

 ——問題ありません。



 白い部屋がコントラストを取り戻してくると、女が三人それから、男が一人いるのがわかってきた。彼らは、何かを囲んで真剣に話し合っているように見えた。

 やがて三人の女のうち二人が、母さんとばあちゃんだということに気がついた。


「母さん!」


 母さんに近づいて、俺はギョッとした。


 血まみれの男が台の上に横になっていた。

 それは間違いようがなく、俺だった。



「何をしているの! 早く精子を取り出してちょうだい!」



 ばあちゃんが台を叩いて叫んだ。 


「大丈夫です。問題ありません。いつものように私に任せて」

 白衣をきた男が、なだめるように言う。

「お母さん、外で待っていましょう。私、コーヒーが飲みたいわ。火傷しそうなくらい熱いやつ」


 大きなあくびをした母さんが、ばあちゃんの背中を押して部屋から出ようとしている。血まみれの俺を置いて。悲しむ様子もなく。


「……母さん?」


 母の背中に問いかけたが、返事はない。振り向きもしない。それはそうだ。だって、と俺は台の上に寝かされている俺自身を見た。


 俺は、死んだのだ。血だらけで、顔も半分潰れていて。


 けど、まだかろうじて生きているのかもしれない。俺がこうして、身体を離れているのは幽体離脱とかそういうやつなのかも。それなら、俺の生死を握っているのはこの医者だろう。

 俺はすがるように男を見た。


「上手く採取してよね」


 母の明るい声が背後から響いた。 


「フン、T大に不合格だったの種じゃ、次もダメに決まっている」


「お母さん、そんなこと言わないで。少し育て方を間違えただけじゃない。いい種なんだから、ね? そうよ、次は姪っ子の明海あけみちゃんに産んでもらいましょう? 彼女なら若いし聡明だし適任だわ」


「次は出来損ないに育てんじゃないよ」

「ハイハイ。じゃ、澤田サン。あと、よろしくね」


 扉が閉まる。

 ヤイヤイ言い合う二人の声が扉の向こう側から聞こえてきて、そして、遠ざかっていく。


「先生、本当にこんなこと……。私……」

「ショックを受けている暇はないよ、里奈りな君。死後すぐに精子を採取すれば保存は可能。時間は早ければ早いほど、良好な状態のものを採取できる」


 澤田は、手際よく俺の身体に触れる。隣では助手だろうか、里奈と呼ばれた女が困惑した表情で俺の身体が処置されていくのをただ眺めている。


 俺は、俺自身から目を背けた。とても見ていることなど出来なかった。


「あの人たちは、どうしてこの子の精子を? 実の子でしょう? まるで、物みたいな言い方——」


「里奈君。彼らはね、血筋が大切なんだよ。代々、T大に入学し、日本を支える企業や政界に入りこめる男児を育てる。それはもう、自分たちの存在意義のように血筋を大切にしている」


「T大に入れなかった子は?」

 澤田はおどけたように両手を開いて、俺の身体を指し示した。

「このように処分される」

「処分って——ひどい」

「ひどい? 本当に?」


 口元を抑えたまま体を震わせている里奈を澤田は抱き寄せた。


「もし。もしも私がなんらかの事故で死んでしまった場合。君は、愛した私の子どもを産みたかったと、思ってくれないのかい?」

「それは……」

「死別した夫の子どもを、このように採取した精子を使って産みたいと思う女性は多い。実際に海外ではそういう子が産まれているのを知っているだろう?」

「知っています。けど。故人の意志はどうなるのですか?」


 澤田は再び処置に戻る。肩をすくめて、馬鹿にした笑い声が俺の耳に微かに届いた。


「さあ?」

「さあ、って」

「怒ったかい? あの女たちの家系は確かに異常だと私も思うよ。最初こそ、恐怖した。だが優秀な遺伝子を残すということの、何が悪い」


 それに、と澤田は手を止めた。

「これは、金になる」


 一歩体を退いた里奈を逃すまいと、澤田は彼女の襟元に手を伸ばした。服が破れる鈍い音がした。


「自分は加担していないとでも? このネックレスはどこから出た金だ?」

「やめて!」

 

 澤田は里奈を突き離した。勢いよく倒れ込んだ里奈が俺の足をすり抜けていった。


「ああ、女は怖いな。これからは、女の時代かもしれないな。男なんか、種さえあれば存在なんかどうだって良くなる。見ろ、この子がまさにそうだ!」


 天井を仰いで澤田は笑った。

 二つの目を大きく見開いたまま。パカっと開けた口の中は暗く、まるで地獄の穴から聞こえる狂った笑い声だった。



 俺は耳を抑えた。

 澤田の笑い声は、抑えた手の隙間から捻り込むようにして俺の耳の中に入り、魂を何度も刺し殺し、切り刻み、握りつぶす。


 繰り返し、何度も、何度も。執拗に。


 後に残るのは、意味をなさない仄暗いおりと、

 愛されたはずの記憶のかすだけだ。

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